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隣の例外プロトコル  作者: 白鶴
第2編 断裂
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19/22

第11章 フェイルバック / 01

「じゃ、お先に失礼しまーす」

「はーい、お疲れー」


定時後の少し緩んだ賑やかな時間も、束の間。

社員たちは挨拶を交わして次々に退勤し、運用サポート部のオフィスは、あっという間に静寂に満ちていく。

そんな周囲の様子を一切気にかけることもなく、環は一人、自席で黙々と仕事を続けていた。


千草が、環の業務一覧の作成もしなくなってから、もう何日が経っただろうか。

環の残業は、千草の干渉がなくなって以来、確実にまた増え始めていた。


「………」


帰り支度を終えた千草は、席を立つ直前、気取られない程度に、隣席の環に僅かに視線を向けた。

無表情にモニターを見つめる、環の横顔。

何かを言いかけるように、ほんの一瞬、顔を上げ――結局、何も言わず、その口を引き結ぶ。


その日は、挨拶すらせず、千草は静かに会社を出ていった。



◇◇◇



残業を始めて数時間が経ち、夜はどっぷりと深まっていく。

環は、コーヒーを淹れるために、給湯室へ足を運んだ。

その途中、廊下の突き当たりの窓に、ふと目が留まる。

ブラインドの僅かな隙間から見える外の景色は、暗闇が広がるばかりで、その向こうは何一つ見えない。


「………」


一瞬、無言で窓を見つめたまま、居るはずのない白猫の姿を期待する。

だがすぐに我に返ると、踵を返して、再び給湯室へ向かった。



数分ほどして、コーヒーが注がれたカップを片手に、自席へ戻る。

しかし、仕事を再開しようとパソコン画面に向き直ったところで、環は小さな異変に気がついた。

デスクトップのあるアイコンに、席を外した際には無かったはずの通知ドットが1件、表示されている。


(……チャット?)


こんな時間に、珍しく社内チャットが届いている。まさか、何かの緊急事態だろうか。

環は、若干の不安に駆られながら、すぐにそのアイコンをクリックした。


『夜分遅くに申し訳ありません。まだ誰か残っていたら、第3会議室の戸締まり確認をお願いします』


表示されたその文章に、環は拍子抜けして、ほっと息を吐いた。

しかしここで、新たに生じた問題に、すぐに再び気落ちする。


今日、この時間まで残っているのは、自分を除いては、誰一人いない。


(……仕方ない)


環は、再び席を立ち上がった。



◇◇◇



運用サポート部のオフィスを出て、足元の常夜灯とスマートフォンの光を頼りに、廊下を進んでいく。

タイルカーペットを踏みしめる僅かな音すら、今の誰もいない暗い廊下では、よく響いた。

夜のオフィスビルは、よく知った建物とは思えないほどに薄気味悪く、環は無意識に急ぎ足になった。


数分は歩いただろうか。ようやく『第3会議室』とプレートの掲げられた扉が、目の前に現れた。

すぐにドアノブに手をかけて、扉を押し開ける。

しかし、その瞬間、目に飛び込んできた光景に、環は、思わず息を呑んだ。


部屋中に充満する外気の臭い。

ふわふわと風に舞うカーテン。

その奥で、ガラス越しではない夜空が広がっている。


――部屋中の窓が、全開になっている。


一瞬の混乱。

そして、環の脳内に、今日の昼間に行われていた会議での記憶が蘇る。

会議終了後、この部屋から出る間際に交わされていた、他部署の社員同士の会話。


『この部屋、すごく空気悪いですよね。ちょっと窓開けてもいいですか?』

『確かに、そうだな…。丁度いい、たまには換気もしておくか』


――あれか。


おそらく、先ほどチャットを送ってきたのも、あの社員だろう。

事情を理解した環は、ひとまず会議室に一歩足を踏み入れ、扉の脇の電灯のスイッチを入れた。

明るい蛍光灯の下で、改めて周囲を見渡すと、過言ではなく、一つ残らず全ての窓が開かれていることが分かった。

その中には、環の身長では到底手が届かないような、高窓まで含まれている。

室内を目で探してみたが、踏み台や脚立の類などは存在しない。


部屋の中心で、髪と服を風に靡かせながら、環は、途方に暮れた。


(誰か、呼んだ方が)


そんな考えが、不意に頭をよぎる。


――そして、見慣れた無機質な青年の顔が、思い浮かんだ。


だが、環は、その考えを振り払うように、慌てて頭を振った。


とっくに帰宅した人間を、今更こんな夜遅くに会社に呼び出すなど、できない。

そして何より、特に、今は。

彼を頼る資格など――自分に、あるわけがないのだから。


環は、腹を括った。

顔を上げ、ぐっと唇を噛みしめる。

そして、すぐ傍に置いてあった、ごく一般的なキャスター付きの椅子に目を向けた。

これくらいなら、自分一人でも十分動かせるだろう。

持っていた杖をテーブルに立てかけ、環は、椅子を転がして高窓のすぐ下に移動させた。


気休め程度にキャスターのロックをかけた後、靴を脱いで、足をかけて座面に乗る。

当然、椅子はふらついた。

環は、なるべく下を見ないようにしながら、杖の代わりに壁にしっかりと手をついて、身体を支えた。

しばらくそのままの状態で、ある程度バランスを安定させた後、高窓に手を伸ばす――その時だった。


――ブーッ、ブーッ、ブーッ………


テーブルの上に置いたスマートフォンが、突如バイブ音を鳴らし、着信を知らせる。

その音に驚いて、壁についた手から、うっかり力が抜けてしまう。

瞬間、全体のバランスが崩れ、その勢いで、キャスターがずるりと床を滑った。


「……っ!」


しかし、間一髪、高窓を咄嗟に勢いよく掴んで、なんとか持ち直す。

バイブ音は相変わらず鳴り続けていたが、電話など、出ている場合ではない。

環は、掴んだ窓ガラスを、そのまま力づくで閉めた。


(……もう少し……)


そして次は、施錠のため、鍵の金具に手を伸ばす。


あと、3センチ。


「……うっ……」


僅かに呻き声を漏らしながら、渾身の力を振り絞って、不安定な椅子の上で思い切り背伸びをする。

窓枠を掴んだ手が、強く圧迫されて、指先が白く変色する。


あと、ほんの、1センチ。


――ふと、環の指に、突起のついた、冷たい金属の感触が伝わる。


(……届い、)


届いた。そう思い、ほんの少し気が緩んだ、まさにその瞬間だった。

ギリギリで保っていた椅子の重心が崩れる。再びキャスターが滑り、足場が大きく揺らいだ。

心臓が、これ以上ないほどに、大きく跳ね上がる。

足は、まだかろうじて椅子に乗っている。

だが最早、窓枠を掴む腕の力だけで、どうにか落下を免れている状態だった。


(……もう…限界……)


諦めかけた、その時。


スマートフォンのバイブ音が、止んだ。


――ガチャッ、バタン!


そして、突如、入り口の扉が勢いよく開かれる。


「―――月村さん」


少しだけ焦りを滲ませた、低い声。

珍しく息を乱しながら、会議室に飛び込んできたのは、千草だった。

素早く周囲を一瞥すると、すぐに環の姿を視界に捉える。そして、ほとんど反射のように、その足元に駆け寄った。


「動かないでください」


落下寸前の環の足が乗った椅子の背を押さえつけると、もう一方の腕を伸ばす。


「固定しました。掴まりながら、ゆっくり降りて来てください」


環は言われた通りに、慎重に千草の腕に掴まると、それを支えにして、体勢を立て直した。

続いて、本当にゆっくり、ゆっくりと、まずは椅子の上にしゃがみ込む。

その後、片方ずつ、確実に足を床に下ろしていった。


千草は、環がようやく完全に椅子に座り込んだのを確認すると、大きく息を吐き出した。


「危険です」


そして、一言。

床に膝をついて、環に視線を合わせた。

外から羽織ったままのコートの裾が、微かに床を引きずっている。


「届かない場所は、呼んでください。戻って来ます」


怒っている様子ではなく、ただ、淡々と告げる。


「………どうして?」


環は、ただ呆然と、短く尋ねた。

同時に、最後にそうしたのが思い出せないほど、久々に千草の顔を直視して、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。


「社内チャットを見ました。本日、残っているのは月村さんしかいません」


千草は、証拠を示すように、胸ポケットからスマートフォンを取り出し、社内チャットを立ち上げた。

その直前、一瞬だけ、通話アプリの画面が表示される。

そこには、ほんのつい先ほど切れたばかりの、環への発信履歴が残っていた。


「月村さんが既読になってから、返信がありませんでした。自力で戸締まりを行っていると判断し、戻りました」


そう言って、件の社員のチャット履歴を開き、環の眼前に掲げる。

現在、既読がついているのは、環、そして千草の二人のみだった。


説明を終えた千草は、ゆっくりと立ち上がると、無言で会議室の窓を閉め始めた。

環は、気まずそうに視線を逸らし、床に置いた靴を履こうと、そっと手を伸ばした。

次回更新は6/5(金) 20時の予定です。

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