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隣の例外プロトコル  作者: 白鶴
第2編 断裂
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第9章 仕様変更

人の悪意というのは、どうしてこうも伝わりやすいものなのだろう。


――じろじろと、舐るような視線。

――くすくす、という笑い声。


それらは、真正面から、堂々と向けられているわけではない。

だが、標的を逃がすことは、絶対に無い。

平気な顔をして防御壁を作ってみても、細い穴を針がすり抜けるように、心を刺すのだ。


環が物心ついた時からずっと晒されてきたそれらは、同級生たちが大人になるにつれ、きっと自然に落ち着いていく。

そう淡く期待していた――だが、中学に上がって既に1年以上が経過した今も、結局、状況は何一つ変わらずじまいだった。


次の移動教室のため、杖を取り、立ち上がる。

その瞬間、響いていたひそひそ声は、その動きに即座に反応して内容を変え、新たな針となり飛んでくる。

「今の見た?」「うん、変な動き方〜」


――何も見えない。

――何も聞こえない。


環はそう自分に言い聞かせ、心の目と耳を閉じて、教室の出口を通り抜けた。



◇◇◇



新学期になって、席替えがあった。

そこで隣の席になった男子が、声をかけてくる。


「月村さん、俺、××。隣になるの初めてだね、よろしく」


そう気さくに言って、親しみを込めた笑顔を向けてきた。

環は、僅かに目を見開き、慣れない様子で「…よろしく」とぎこちなく挨拶を返した。




ある日、授業中に消しゴムを落とした。

消しゴムは想像以上に勢いよく跳ね、環が上半身を屈めるだけでは取れない位置まで飛んでしまった。

環は躊躇った。取りに行くために立ち上げれば、またその動作が目立ち、誰かの目に留まる。


「はい月村さん、落としたよ」


しかし、環があれこれと考えて動けないでいる間に、××が代わりにあっさりと消しゴムを拾い、環に手渡した。


「あ、ありがとう…」

「どういたしまして」


お礼を言う環に、××が何でもないように、軽く笑った。




その日、環は定期的に回って来る掃除当番に当たっていた。

生徒が次々に下校していく放課後の教室で、机と椅子を少しずつどかしながら、箒で広い床をゆっくりと掃く。

しかし、掃除が残り半分というところになって、環が動かそうとしていた椅子を、突然横から××の手が奪った。


「重いでしょ。俺、動かすよ」

「……あ、でも」

「いいっていいって」


そう言って、あっという間に椅子を持ち上げ、教室の隅に寄せた。

結局その日は、××が机と椅子を全て動かしてくれたおかげで、環の掃除当番はいつもよりずっと早く終わった。




「ねえ月村さん。もしかして今日、なんか体調悪い?」


またある日の授業中、××が突然小声で環にそう声をかける。

環は、俯いていた顔をゆっくりと上げた。その頬は真っ赤で、瞳は潤んでいる。

その様子に××はぎょっとしたような顔をして――環の額を、ほんの少し、指で触れた。


「……っ!」

「うわ、めっちゃ熱いじゃん。無理しない方がいいよ」


環が驚いて言葉を失っているのも束の間、××は椅子から立ち上がり、黒板に向かっていた教師に向かい、声を張り上げた。


「先生、すいませーん!月村さんが、体調悪そうです!」

「あら、月村さん!大丈夫?」


すぐに環の傍まで駆けよった教師は、その状態を見るなり、慌てて環を保健室へ連れて行った。

保健室のベッドの中で、環は、熱だけが原因ではない心臓の高鳴りを感じていた。



◇◇◇



放課後の部活動――美術部で、環はいつも通り、油絵の制作に励んでいた。

同じ部員であるゆかりも、環の横に並んで座り、同様に制作に集中している。

しかし、ふと、ゆかりが環の横顔を見てあることに気づき、声をかける。


「ねえ環、その髪飾りどうしたの?」


普段、まるで飾り気の無い環が、珍しく頭に髪飾りをつけていた。

金属製の白と赤の小さい花が二輪、艶々しい黒髪に乗って、控えめにきらきらと輝いている。


「ええと…この間、たまたまお店で見つけて、良いなって思って…」


環は、キャンバスから目線を外すことのないまま、しどろもどろにそう答えた。

その様子に、何かを察したらしいゆかりが、にやにやとした笑いを浮かべる。


「……はは〜ん」

「ゆ、ゆかり!」


慌てて顔を真っ赤にした環が、ゆかりの方を振り向き、頬を膨らませて抗議する。


「ふふ、冗談だよ。環、かわいいよ」


ゆかりは、そんな親友を慈しむように、目を細めて優しげに笑った。



◇◇◇



ある日、環は、放課後に部活に行く途中、忘れ物をしたことに気がついた。

慌てて来た道を引き返し、教室に戻る。

しかし、辿り着いた教室の扉を開けようとしたところで、中から何やら人の声が聞こえてきて、環は反射的にその手を止めた。


「この間転校してきた隣のクラスのYちゃん、すげー可愛いよな」

「分かる。あれはレベル高いよな。あー、俺もあんな彼女欲しいわ…」

「あはは、お前、この間別の子に告白して振られたばっかりだろ」

「うるせえよ」


クラスメイトと思われる男子数名が、放課後の教室内で、恋愛に関する雑談をしているようだった。

――その中に、隣席の、××の声が混じっている。

良くないと思いながらも、環は無意識に、中の雑談に耳を傾けた。


「なあ××、お前は好きな人とかいないの?」


ふと、一人の男子が放ったその問いに、環の肩がぴくりと揺れた。


「いや、今は特にいないな…」


××のその答えが耳に入った瞬間、緊張で強張っていた身体から、力が一気に抜ける。

同時に、本来の目的である忘れ物のことを思い出した。

だがこのままでは、とても教室内には入れそうも無い。一旦諦めて、後でまた取りに来よう。

そう思い、立ち去ろうと一歩踏み出しかけた、その時だった。


「嘘つけよ。お前、隣の席の月村さんは?」


――環の心臓が、大きく跳ねた。再び、ぴたりと足を止める。


「……なんで月村さん?」

「いやいや、普段から仲良さそうに話してるし、しょっちゅう助けてるじゃん」


先ほどの仕返しとばかりにからかい返す男子に、××が「うーん…」と唸る。

そして、少し躊躇いがちに、口を開いた。


「すごくいい子なんだけど、恋愛対象としてはちょっと…。友達ならいいんだけどな。……ぶっちゃけ言って、彼女にして隣歩くとかは、恥ずかしい。絶対、周りに変な目で見られるじゃん……」





環は、気づいたら、校舎内の一番隅に位置するトイレ内で、立ちすくんでいた。

一体、どこをどのように歩いて、ここまで辿り着いたのか、全く覚えていない。

全身から力が抜け、冷たいタイル張りの壁に寄りかかり、ずるずるとしゃがみ込む。

ぼた、ぼた、と、大粒の涙が、床に止めどなく落ちていく。


「環、こんなところにいたの?探したよ!」


しばらくそのまま動けないでいると、心配そうな顔をしたゆかりが、トイレに駆け込んできた。

環を探して、あちこちを走り回ったらしく、ぜえぜえと息を切らしている。

ゆかりは「部活もう始まってるよ」と言いながら、ゆっくりと環に歩み寄る――しかし、すぐにその異変に気づくと、血相を変えて環の肩を掴んだ。


「ちょっと、どうしたの!?なんで泣いてんの!?」


環は、うまく出てこない声で、たどたどしく、先ほどの教室での出来事を説明した。

最初は頷きながら、落ち着いて話を聞いていたゆかりだったが、みるみるその顔は険しくなり、瞳は怒りに燃えていった。


「………あいつら、絶対許せない!!」


震えを含んだ声で、叫んだ。

その勢いのまま、ゆかりは、教室に向かってその場を飛び出そうとする。

しかしその腕を、環が咄嗟に掴んだ。


「放して、環!私、言い返してくるから!!」

「ゆかり、やめて……」

「……でも!!」


振り向いたゆかりの顔が、悲痛に歪められる。

環は、俯いたまま、頬を流れる涙も一切気に留めず、再び口を開いた。


「もういいよ、ゆかり」

「『もういい』って……いいわけないじゃん!!」

「ううん」


やけに落ち着いた、単調で、低い声だった。


「もう、いいの」


そう言って、ようやく顔を上げた環を見て、ゆかりは思わず息を呑んだ。

――何か、とてつもなく大きいものを失ったような、光が抜け落ちたような瞳。


「……ごめんね……」

「なんで、環が謝るの!!」


口をついて出た環の謝罪の言葉を、ゆかりが問いただす形で、強く否定する。

しかし、そう言った瞬間のゆかりの瞳も、大きく揺れ、やがて涙が溢れ出した。

二人はその後、言葉を交わすことのないまま、数十分、ただその場で泣き続けた。


環の頭についていたはずの髪飾りは、ここに来るまでにどこかで落としたのか、既に消失していた。



◇◇◇



――暗転。


目を開けた環は、広がった暗闇に、突如電源を落とされたような錯覚を覚えた。

ゆっくりと、上体を起こす。

掛け布団をめくり、足をベッドから下ろしたところで、全身にびっしょりと、尋常ではない量の汗をかいていることを自覚する。

枕元に置いたスマートフォンの電源を入れて、時刻を確認する。午前2時47分。


(………夢?)


頭から頬、そして顎に、溢れた汗が伝い、布団に落ちる。


その瞬間、途切れたはずの夢――過去の映像が、再び環の脳裏に高速で再生される。

視線。笑い声。ゆかりの顔。教室。

――××の、声。


「………う、」


急激に、胃の奥底からせりあがって来る不快感に、呻き声が漏れる。

環は、慌ててトイレに駆け込み、ほとんど残っていない胃の中身を全てひっくり返した。


「……はあ、はあ……」


環は、荒い息を吐き出しながら、トイレの壁に寄りかかり、弱々しい光を放つ電灯を眺めた。

ここはもう、夢とは全く別の場所で、何の関係も無いはずだ。

しかし、それは、あまりにも夢で見た校舎内のトイレの光に、酷似しているような気がした。

次回更新は5/22(金) 20時の予定です。


2026/5/17 表記ゆれ等修正

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