第8章 サンドボックス
カラン、と軽やかなベルの音が響いて、カフェの扉が開く。途端、飛び込んでくるコーヒーや料理の香りと、人々の賑やかな話し声。
休日の昼下がりという最も混雑する時間帯、店員たちは大忙しで、入店案内はすぐには来ない。出入口の扉の前で足を止めた環は、きょろきょろと人混みを見回して、とある人物の姿を探した。
「環! こっちこっち」
しばらくすると、少し離れた奥の席から、明るく活気のある声で、名前を呼ばれる。慌てて声の方を振り向くと、テーブル越しに手をひらひらと振る女性の姿。
環は、女性の座る席へ早足で近づくと、その向かいに腰を下ろした。
「遅くなってごめん」
「ううん、全然。道が混んでてさ、私もさっき来たばかりだから」
座るなり謝罪する環に、全く気に留めない様子で軽快にそう言い、ニッと口角を上げた。少し茶色がかったショートカットと、ふっくらした唇が、快活さと温もりを同時に感じさせる。
数か月ぶりに会った、幼馴染の親友――森川 ゆかりの笑顔を見た瞬間、環は、胸の奥が軽くなった気がして、ふっと顔を綻ばせた。
「本当、会うの久しぶりだよね。半年ぶり……いや、もっとかな……」
ゆかりはそう言って、コーヒーカップを受け皿に置くと、口元に指を当てて最後に環と会った日の記憶を探る。呻きながら真剣に思い出そうとするゆかりの様子に、環はくすりと笑いを零した。
「お互い忙しかったもんね」
「まあね。でも環、全然そんな感じに見えないね。前より随分顔色がいいよ」
「そう……? 確かに最近、早く帰れてはいるけど……」
今日、環に会った瞬間から感じていた違和感。その指摘に対し、何気なく零した環のその一言に、ゆかりが目を丸くした。
「そりゃすごい。超がつくほど仕事人間だった、あの環が?」
「うん……まあ、色々あって……。ゆかりの方こそ、最近、仕事の調子はどう?」
何となく説明に困り口籠った環は、半ば強引に話題を逸らす。しかし、ゆかりは深追いせず、むしろ待っていましたとばかりに会話の流れに乗り、自身の話を切り出した。
「……実は私、初めて後輩の育成担当に就いてね」
「え、そうなんだ。大変だね」
「そうなの!! いやもう、これが全っ然上手くいかなくて……」
ゆかりは、はああ、と大きく溜息を吐きながら、額に手を当てる。その眉間には、深い深い皺が刻まれていた。
「勝手に指示してないことするわ、締め切りは守らないわ……。この間なんて、取材に行った専門家の先生相手に『失礼ですけど、このご意見は今の時代に合わないと思います』なんて正面切って言っちゃってさ。もう大変だったのよ、その後のフォロー。結局、うちの編集長まで一緒に謝罪するはめになって……」
日頃の鬱憤が相当溜まっていたらしい。一度口に出した途端、愚痴が怒涛の勢いで溢れ出す。
環は苦笑しながら相槌を打ち、特に止めることなく、ゆかりの話に耳を傾けていた。
――ゆかりが、出版社の編集記者という仕事に並々ならぬ情熱を注いでいることを、環はずっと昔から知っていた。
「……私が悪いのかなぁ。勢いと熱ばっかりで、鬱陶しい先輩って思われているのかも」
しかし、一通り話し終えると、視線を落とし、急に弱気な口調になってぽつりと呟く。
「大丈夫だよ。そこが、ゆかりの良いところでもあるんだから」
コーヒーをティースプーンで混ぜながら、環は事も無げに言い切る。その言葉に、嘘や慰めの色は全く見られない。
「……ありがとう。環だけだよ、そんなこと言ってくれるの……」
少しだけ照れたように視線を泳がせながらも、ゆかりは嬉しそうに微笑んだ。
「ねえ、環は後輩の育成とかしてないの?」
ふと、全ての鬱憤を吐き出して溜飲が下がったらしいゆかりが、頬杖をついて環に話を振った。
――その瞬間、環の脳裏には、たちまち特定の一名が思い浮かんだ。
「……育成担当ってわけじゃないけど、一緒に働いてる後輩の男の子が、一人いるよ」
「へえー。どんな子? もしかして、その子も問題児だったり?」
「いや、真面目だし、ものすごく優秀。……でも、ちょっと変わってるんだよね」
「変わってる……?」
ゆかりが首を傾げながら、そう聞き返す。
環は、その後輩――千草の人となりについて、果たしてどう説明したらいいものかと暫し考え込んだが、やがて一つ一つ順を追うように、慎重に言葉を選んで言った。
「……決まった時間になると、必ずコーヒーを差し入れしてくれるよ」
「すごく気が利いた、いい後輩なんじゃないの?」
「でも、私のデスク周りとか改造しちゃうし……」
「改造? 何それ」
「うん……まあ、意味が分からないよね」
予想通り、ゆかりには訳が分からないといった顔をされて、環は苦笑する。環は、千草の行動について、もう少し詳しく、実際の具体例を挙げて説明することにした。
「私が動きやすいようにって、棚とか杖立てとか置いたり……」
「それって、環がお願いしてることなの?」
「ううん。私の知らない間に、勝手にやってる」
「…………えっ?」
さらりと返された環のその言葉に、ゆかりは思わず眉を顰める。しかし環は、話に夢中で、そんなゆかりの不穏な気配には一切気づかず、更に続けた。
「最近じゃ、とうとう私の仕事の管理まで始めてね。『残業禁止』って言って、業務タスク一覧まで作っちゃうし。さっき私、最近は早く帰れるようになったって言ったけど、原因はこれ」
「………」
「他にも、行く先々でついてきたり、待ち伏せされてたり……正直、何がしたいのかさっぱり分からないの」
そこで一度、説明を止める。改めて言葉で整理して並べてみると、やはり千草の行動は本当に不可解だと、環は内心で首を傾げた。
「……ごめん、環。もしかして私、今ちょっと怖い話されてる?」
しかし一方で、目の前のゆかりは『不可解』どころの話ではなかったらしく、完全に恐怖に顔を引きつらせて、そう環に確認してきた。
顔を上げ、ようやくゆかりの異変に気づいた環は、「えっ?」と戸惑いの声を漏らした。
「いや、『えっ?』じゃなくて。どう考えても普通じゃないよ、その後輩くん」
「そ、そう……? どの辺が?」
「全部」
即答でスパッと一刀両断され、環は呆気に取られた。
だが、ゆかりはここで、更に何かに思い至った様子ではっとする。青ざめた顔で、再びおそるおそる口を開いた。
「ねえ、あんたまさか、職場以外でも付き纏われてるとか……」
「……確かに一度帰り道に待ち伏せされたことはあったけど、それは駅前までの話で――」
「はあ? 帰り道で待ち伏せ!?」
話を穏便に済ませようとして墓穴を掘った環に、ゆかりが深刻な顔になり、食ってかかる。
「ちょ、ちょっと待って! あの、本当に違くて――」
それに本気で慌て出した環は、両手をゆかりの目の前で振りながら、必死に否定した。
――『何を』否定したいのか、自分でもよく分からないまま。
「別に、嫌なことをされてるわけじゃないの! 仕事でも、さっき言った身の回りのことも、なんだかんだで助かってて……」
「………」
「あ、あの、ゆかり?」
ゆかりは、何かを感じ取ろうとするように、じっと環の顔を見つめていた。急に黙り込んだゆかりに、環は様子を窺いながら声をかけるが、ゆかりはそれを受け流し、重々しく口を開いた。
「……あのさ、環。その後輩くん、なんでそんなことするのか、ちゃんと教えてくれた?」
唐突な問いかけに、環は困惑した。だが、決してふざけて尋ねているとは思えないゆかりの様子に、環も真剣に考え、そして答えた。
「ううん……はっきりとは。でも一度だけ、らしくないことは言ってたなぁ」
環は思い出す。
過去に一度、千草が千草らしからぬ狼狽と論理の崩壊の果てに発した、一言。
「私に壊れる前提で動かれると、すごく困るって言ってた。『基準が狂う』んだって」
環は「やっぱり、よく分からないよね」と言って肩を竦める。
しかしゆかりは、その一言で全てが腑に落ちたとでも言うように、目を伏せて、深く息を吐き出した。そして、更に問いかけた。
「……環、どうしたい?」
「え……?」
質問の意図が分からず、聞き返す環。ゆかりは、再び環に視線を合わせると、すかさず付け加えた。
「その後輩くんだけどさ、余程のことがない限り、今後も環から離れることはないと思うよ。……まぁ、私の直感だけど」
「ええ……ゆかりの直感は当たるからなぁ」
引きつった笑いを浮かべる環を見て、ようやくゆかりの顔にふっと笑みが戻る。
「……まあ、環がしたいようにすればいいよ。何を選んでも、きっと正解になるから」
結論は出ないまま。しかし、これから進む道に、静かに明かりを灯していく。
「でも、私も一つ、その後輩くんには感謝かな」
「感謝……?」
「うん。色々突っ込みどころはあるけど、環がまともに休んでくれるようになったの、結局その後輩くんのおかげなんでしょ。おかげで今日、こうしてまた会えた」
ゆかりは、視線をテーブルに落とした。
何か遠い昔を思い出しているような、ぼんやりとした眼差し。
「壊れる前提で動く……か」
「そんなの、いいわけないでしょ。バカ」
◇◇◇
「今日はありがとう。本当に楽しかったよ」
数時間ほど話し込んだ後、環とゆかりは、会計を済ませてカフェの外に出た。
カフェの出口前で、環が笑顔でゆかりに礼を言う。それは、山積していた重圧が全て取り払われたような、すっきりとした笑顔だった。
「……ねえ、環」
別れ際、ゆかりが今一度、環に語りかける。
「後悔だけはしないようにね。あんたさえ納得できるなら、私はそれでいいと思うよ」
それだけ言い残し、ゆかりは「またね」という挨拶とともに、その場を立ち去っていった。




