side a-3
ピン、ポーン。
間の抜けた音が鳴ったことを確認すると私はボタンを押していた指を離す。そのまま右手を胸に当てて、心音を確認してみる。大丈夫、ひとまずは落ち着いている。
一輝の家にくるのは初めてだけれど、私は彼の家を知っていた。別にストーカーとかそういうことではなく葵の家に遊びに来たことが一度だけあったので、その際に彼の家の場所を聞いていたのだ。まあ、聞いていたといっても隣なのだから、表札を見れば一発でわかることだったのだけれど。
案外、普通の家だった。彼がいつも話している両親の話から想像していた家とは全く違う、特に目立つところのないただの一軒家だ。住宅街の建売を買ったというのだからそれはあたりまえなのだけれど、それでも、もう少し変でもおかしくないかなと思うくらい彼の話す両親像は奇妙だったというわけだ。
チャイムを鳴らしてからしばらくして、インターホンから応答があった。女性の声だ。
素性を訪ねる声に一輝の友人だと告げると、不在との返答がなされた。まだ帰っていないだけだというので、待たせていただけないかと頼むと少しの考える間の後に、承諾してくれた。ガチャリという開錠の音がドアからしたと思うと、中学生くらいの女の子が顔をのぞかせる。
「どうぞ」
素っ気ない声だが、不快ではない。むしろ少し懐かしい。一年以上前、私がなにくれとなしに彼にちょっかいをかけていた時に聞いた声色だ。顔はまったく似ていないけれど、やっぱりこの子は一輝の妹なのだろう。
開かれた扉から滑り込むように中に入る。
「おじゃまします」
玄関に入り、靴を脱いだところで妹ちゃんが来客用のスリッパを出してくれた。ふと、妹ちゃんの足を見ると裸足である。普段は使わないものなのだろう。気を利かせてくれたのだろうか。ありがたくスリッパに足を通すと、妹ちゃんに二つの選択肢が与えられた。
「リビングとお兄ちゃんの部屋、どっちがいい、ですか」
待つ場所だろう……って、部屋に勝手に入っちゃっていいの!?
「お兄ちゃんの部屋に勝手に入ってもいいの?」
アイツの部屋だ。散らかっていたり、服が脱ぎ散らかっていてもおかしくない。ひょっとしたら見られたくないあれやこれやが転がってるかもしれないのだ。選択肢に入れちゃってもいいのか?
「お姉ちゃんはいつも勝手に入ってるから」
……お姉ちゃん? 一輝に姉がいるという話はついぞ聞いたことがない。それにもしいたとしても姉が勝手に入るのと私が勝手に入るのじゃ全然事情が違うだろう。それとも、身内じゃない人間でお姉ちゃんと呼ぶような存在がいるのだろうか?
そう考えたところで一人、その条件に当てはまりそうな人間を思いついた。葵だ。
なるほど、兄の幼馴染というのはお姉ちゃんと呼ぶにふさわしいかもしれない。それに、葵は時々早起きした時に彼を起こしに行っていたりしているということは聞いている。そういうことであれば部屋に勝手に入っているといえるだろう。確かに、幼馴染とはいえ同級生が入ってくるかもしれない部屋ならば彼も見られて困るような状態にはしていないだろう。
「じゃあ、部屋で待たせてもらおうかな」
その方がスムーズに話に入れそうだし。それにアイツの部屋っていうのにも興味があるしね。
こくりと頷いた彼女は玄関から直接廊下で結ばれている階段を上り、二階へと向かった。特に合図はなかったが、案内してくれているのだと解釈しついていくと、似たような扉が三つ。階段から見て右手の扉を彼女は少しだけ押し開き、首だけを突っ込んで中を覗きまわした。ちょっとの間、そうしていた。
そして、なにかはわからないが何かの確認が終わると、扉の隙間を大きく広げて私を招き入れる。妹ちゃんはこっちを見ることはなく、俯いていた。私も人見知り気味なので特にそれは気にせず、部屋の中に入った。
意外にきれいな部屋だ。もしも散らかっていたら、妹ちゃんも私を入れることはなかったとはいえ、少し拍子抜け。よくある小学校入学時に買ってもらうような引き出しの多い勉強机と、窓際にはフカフカの羽毛布団が目立つベッド、それに壁には備え付けのクローゼットがあり、扉の横には棚が一つ。特筆するべきは棚の上に置かれたCDコンポだろうか。結構立派なもので、一輝の部屋にそんなものがあるとは思わなかった。確かに音楽は良く聞いているけれど、ポータブルミュージックプレイヤーで聞いているのだとばかり思っていたのだ。
棚の中ものぞいてみると一段の半分くらいはCDが入っている。どれもこれも洋楽ばかりだ。そういえば邦楽は聞かないとか言っていた覚えがある。いまどきこんなテンプレな中二病がいるのかと感心してしまったものだ。CDの段以外には大体文庫本が入っていた。ライトノベルばかり読んでいるのかと思っていたけれど――そういう話をよくしていたし――意外にも一般文芸も嗜んでいるようだ。軽めのが多いが、少し見直した。
あれこれ物色しているうちにいつの間にか妹ちゃんは一度下に降りていたようで、気づいた時にはお茶を淹れてきてくれていた。薄めのティーカップに入ったその紅茶は香りもよく、あまりそんな短時間でいれれるようなものではない気がして妹ちゃんの顔をちらりと見ると、少しバツの悪そうな表情を見せる。
「さっき、自分で飲むために入れてたもの、ですけど」
なるほど、ちょうどアフタヌーンティーの時間をしようとしていたところで私が来たというわけだったのか。
彼女は紅茶とクッキーの乗ったお盆を勉強机の上に置く。スッと手を伸ばして置かれたティーカップを手に取り、口に運ぶ。実はのどが渇いていて、ちょうど飲み物がほしかったところだったのだ。
砂糖もレモンも添えてなかったからてっきりストレートなんだと思って口に含んだのに、意外にも甘く、爽やかなフルーツの香りが口の中に広がった。
「あ、甘い?」
「えっ! あ、甘かったですか」
顔を真っ赤にして、驚く妹ちゃん。
「甘くないはずなの?」
「えっと……甘くしたのは私の分だけのはず、です」
どうやら間違えて持ってきちゃったらしい。そそっかしいなー。
でも私は紅茶を飲むとき、結構甘くするのが通例なので、そんなに気にしなくても大丈夫だよ。
「これはなにが入ってるの? 砂糖ではないよね?」
「今、紅茶用の角砂糖が切れてて、それは、アプリコットジャムが入ってます」
「ふーん、ロシアンティーね」
ジャムが入っているなら甘いはずだ。本来はジャムを添えて、紅茶と一緒に食べるのだけれど、ずぼらな人は結構ジャムをお茶に入れて混ぜ混ぜしちゃうらしい。確かに、結果としては変わらないんだけど、乱暴な話よね。
会話が切れると、妹ちゃんは部屋から出て行ってしまった。自分の分のお茶も入れたといっていたし、最初からそういうつもりだったのだろう。
紅茶のカップをソーサーに戻すと、私はベッドに腰掛けた。そして、昼休みのことを思い出す。
昼休み、中庭に出るともう葵はそこにいた。
中庭には自販機があり、横には休憩用のベンチもあったのだが、葵はなぜか立って待っていた。
私が来るのを確認した彼女は口を開くでもなく、自販機に向き直って暖かい紅茶缶を二本購入し、一本を私にくれた。それから、彼女はベンチに座って不味そうに紅茶飲料を飲み始め、私はどうすればいいか困った結果、同じようにベンチの隣に座ってもらった紅茶を口に含んだ。不味くはなかった。
しばらくの間、そこで黙って紅茶を飲み続ける時間が続いた。三組ほどの生徒が自販機に飲み物を買いに来て、寒空の下、女二人で黙って飲み物を飲んでいる私たちに変な目を向けて去って行った頃、葵がようやく立ち上がり、私のほうは向かずにこう言ったのだ。
「どうしたいの?」
私が突然の言葉に困惑し、反応を取りかねていると、彼女は私の返事を待つでもなく缶をゴミ箱に滑りいれ、そのまま校舎のほうに去って行ってしまったのだった。
たったそれだけ。
彼女はわざわざ私を寒い中庭に呼び出しておきながら、それだけで帰って行ったのだ。
けれど、それだけで、私はなにをすべきなのかがわかったような気がした。
彼女の真意もこんなことをした理由もわからなかったけれど、彼女の言葉は、私を押し出すには十分だった。
たぶん、彼女が言いたかったことは最初からずっとそれだけだったのだろう。それだけを言ったのではなく、それだけが言いたかった。
私が昨日電話して、彼女が思ったこと。それがこの一言だったんじゃないだろうか。
嫌われるとか好きだとか不安だとか彼女に相応しいとか彼女とか取っちゃうとかネガティブとか似た者同士とか浮気とか本気とか前向きとか後ろ向きとか自己中心とかとか幼馴染とか確信犯とか自己嫌悪とか弱さとかプレッシャーとか武器とか気遣いとか建前とか本音とか友達とか責任とか、そういうことは関係ない。親友も同級生も人間関係も、全部無視して自分がどうしたいのか。どうしてそうしないのかと、彼女はそういったように私は聞こえた。
私がどうするのか、なにをするのかが問題なのだと気づかされてしまった。私がどういう人間かではなくてどう行動するのかがすべてを決める。
なぜ私は彼のことを好きになったんだったか。
じゃあなぜ彼が私のことを好きなのか。
それを考えれば、自ずと答えは出たはずなのに。また、彼女の手を借りてしまった。
彼女はそうしていた。修学旅行の時とその前と、そして今日。
でも、今日までは違ったのだ。
だったらなぜ違ったのだろうか。
そんなのは考えるまでもなく簡単に分かってしまった。それが、どんな意味を持つのかも。