side a-2
尾崎一輝が学校に来たのは一時間目も終わりに差し掛かるところだった。
昨日のことでやきもきしていたのは私だけだったのだろうか。彼は悠々一時間目に遅刻してきたどころか――これはいつも通りともいえる事柄であるが――なんと葵と一緒に登校してきたのだ。もちろん、私は彼氏だからって朝ほかの女とともに登校してくるななどというつもりはない。平時の朝であればそれは問題になどならないようなことなのだ。あの二人は家も近いのだから登校時間が被ったってなにもおかしくはないことであるし。
しかし、今回は別だ。喧嘩した次の朝にいきなりほかの女と一緒にいるというのもあるが、それ以上に私が気になるのは、二人が一緒に遅刻してきたという点だ。
だっておかしいでしょ! 一緒に遅刻って! いったい朝に何をしていたっていうのよ!
そうやって怒鳴ってやりたいのはやまやまなのだが、しかし喧嘩している以上、声をかけるわけにもいかない。いつものようにやはりケンカの原因はアイツなのだ。些細なことに私が反応してしまったということはあるのかもしれないけれど、大本の原因を作ったのだから、やすやすと声をかけてしまっては良くない。そんなことをしてしまって割を食うのは私なのだ。小さなことでも、謝らなくても許してもらえるという認識をさせるのはよろしくない。
しかし気になりはする。特に昨日の葵の発言のこともあり、ひょっとしたらあの時間に一輝は葵のものにされてしまったのではないか、それはなくともそういった布石を打たれてしまったのではないかという不安なんだか嫉妬なんだか被害妄想なんだかいまいち分類しかねるような気持に悶々としながら、一時間目が終わるまではじとーっと一輝に視線を向けていた。
ため息ばかりが出てくる時間は楽しくないということを学んだ。
とはいえ、後から考えると、私としてもその時は事態を甘く見ていたといわざるを得ない。
私は高を括っていたのだ。例え彼女が、葵が実際に昨日の宣言通りに動いていたとしても、私の目の前ではやるまいと。アプローチをかけるとしても公衆の面前ではなく、もっとこそこそとしたものだろうと考えていたのだ。そして、彼らは幼馴染で隣人なのだからむしろその二人の時間こそが問題だと思っていたのだ。
しかし、その考えは間違っていた。
一時間目が終わった後の休み時間。学校に来て十五分もたっていないだろう頃にはもう彼女のアプローチは再開していた。
その行為自体は明らかに男女間のスキンシップという範囲を超えているというわけではなかったが、だからこそそれは悪質であるといえたかもしれない。もしもそんなレベルであったら私は周囲の目も気にせずに一輝を張り倒していただろうが、そういった展開を許すほどに彼と彼女の行為はクラス内の公序良俗を冒してはいなかった。ただ、それは無関係な人にとってという話であり、私にとってみれば当然話は違った。
クラスメイトにとってみれば葵と一輝の仲が良いというのは前々からわかっていることだし、さらに今日は一輝の唯一の男友達である谷中のヤツも遠征で公欠だったことで、彼らが二人で一緒にいることはそこまで違和感はなかったろう。むしろ、その間に入っているべき私が一人で不機嫌そうな顔をして席に座っていることのほうが真新しく見えたかもわからない。
恐らく葵にとってそうなることは想定済みだったのだろう。入学以来同じクラスで仲良くなってからは大体一年ほど、共に過ごしてきてわかったことは彼女が醸し出すふわふわした雰囲気ほど彼女はかわいい人間ではないということだ。とはいえ、あのぽわぽわしたキャラクターというのが全き偽というわけでもないこともよくわかっている。決して取り繕った外面としてふるまっているのではなく、あれはあれで彼女の中にある葵自身なのだろう。しかしそれはそれとして、変えることなく打算的な行動をとることもできるというだけなのだ。そして頭が良く、人の感情の機微に聡い彼女からしてみれば、自分の行動がどのようにみられ、どう影響を与えるかを一定の範疇で想像するのは難しいことではないはずだ。
そう考えると随分と手ごわい相手と戦っていたのね……。小さいころからずっと一緒にいた幼馴染で、さらに自分の価値をわかって最大限に利用する美少女だなんて、どう考えても反則よ……自分を最大限に使える上にアイツは彼女が打算的に動くことにマイナスイメージを持っていないんだもの。今更ながらに自分がどうして勝てたのか不思議。
勝てたなんて言い方が間違っているという可能性もある。ひょっとしたら私はただ、彼女に譲ってもらっただけなのかも。そう考えると少ししっくりきてしまう状況が少し嫌だった。
一輝が私を選んでくれたのは確かに、間違いなく真実で、そこだけは弱気で後ろ向きな私にとっても疑うことのない事柄なのだ。清水寺での出来事は――今から思い返してみても自分の身勝手さに身もだえしたくなるのだけれど――あの一輝がどんなに流されやすくて、考えなしのバカだったとしても人から言われてできるようなことじゃない。ただただ、私のわがままに答えるためだけに命をかけてくれたのだ。その事実は私が彼を想っている限りいつまでも生きていく、ある種の愛の証なのかもしれない。
…………やばい、愛の証はさすがに恥ずかしすぎる…………。
と、とにかく! あの告白は私にとって何にも代えがたい宝物になったというか……。あー! なんかもっと恥ずかしいこと考えてる!
落ち着け、落ち着け私。授業中であるぞ。
黒板を遠い目で見つめていたと思ったら突然顔を真っ赤にしたり頭を抱えたりしている女子生徒は大分怪しいとは思うが、この学校の先生は生徒の機構にはきっと慣れている。だから大丈夫。クールに行こう……。
えーとえーと、そう! 兎にも角にも、アイツが私を告白の時点で好きであったということだけは確実なんだっていうことが言いたかったのよ!
アイツは、いつも一言多いし(かわいいって言ってくれるだけならいいんだけど爬虫類に似ているってどういうことよ!)、考えなしに口を開くし(前髪失敗したことくらい黙っててくれてもいいじゃない)、コミュ障だし(私が口を開かないと平気で一時間とか黙っていることもある)、冬休みには全然連絡よこさないし(いくら正月だからって年賀状どころか十日もメールすらしてこないのはちょっとへこむのに)、探しても全然見つからないし(いくら暇だからって使われていない屋上前のスペースで寝るなんて非常識よね)、一緒に帰ろうって言ったのに先に行っちゃうし(それも何回も!)、すぐに葵と比較するし。
それ以外にもいろいろとあるけれど、これ以上上げても仕方ないのでやめておくとする。あんまり人の悪口言うのもよくないしね。
ざっとあげてもそれだけいろいろな不満はあるのだけれど、それでも私は彼を好きでいてしまう。
修学旅行よりも前、つまり私が彼と付き合うようになる前のこと。私と葵はどうして一輝みたいなろくでなしのことを好きになってしまったのかということについて話し合ったことがある。より正確には私が葵に教授してもらうような状況だったけれど。
私は聞いたのだ。先輩たる幼馴染に。「アイツのどこが好きなの?」と。
彼女はなんの迷いも躊躇いも、衒いも戸惑いもそれから屈託もなく応えた。彼女にとっては幾度も自問した結果だったのかもしれないし、ずっと昔から当然のように思ってきたことだったのかもしれない。
「一輝君はわたしが本当に欲しいものを本当に欲しいタイミングでくれるんだよ」
その言葉を聞いたとき、思わず微笑んでしまったことを覚えている。確かにそれは私が彼に心を揺り動かされた理由に関してぴったり当てはまるものだった。彼の意識があるにしろ無意識にしろ、肝心なところで彼が“外す”ことはなかった。
まあ、だから、言ってしまえば単なるタイミングの問題なんだといえる。
アイツは欲しいものを欲しいタイミングでくれた。私が彼を好きな理由はそれだけで、結局のところ単なる巡りあわせだ。身も蓋もない言い方をしてしまえば
別にアイツじゃなくたってよかったのだ。
でも、だからこそ、彼が私にそのタイミングでそれをくれた、というただそれだけの事実に意味がある。それがあるからこそ今の私は存在しているだとそういえる。
修学旅行の時もそうだったし、クリスマスもそうだった。出会ってからのこと考えたら幾度そのタイミングが存在しただろう。そして、これからどれだけ訪れるのだろうと楽しみに思ってしまうのだ。
そして、こうも思ってしまう。私は彼にいろいろなものをもらっているのだけれど、私は不満を言うばかりで何もあげられていないのではないか、と。
それが、私が不安に思う理由だった。やっぱり、私の問題じゃないか。授業中にも関わらず、大きなため息をついてしまう。ごめんなさい笹原先生、別に先生の授業がため息つくほどつまらないわけじゃないですから。
それから、私は膝の上に置かれた携帯の画面に目を落とす。そこに開かれていたのはついさっき授業が始まった後に受信されたいつものそれとは違ってそっけない呼び出しメール。
昼休み、中庭に来いとのことだ。