第16話 二人だけの時間 ★
ほどなくして渡ってきたウィルズの顔は憔悴しきっていた。
普段は疲れを顔に出さず四六時中ニコニコしている彼が今日はどうしたことか、わたしの前でふうとため息をつくのである。
顔色もよくない。
ここ最近は園遊会に向けて仕事詰めの日が多かったから疲れもたまっているんだろう。
アーシェと二人でぶらぶらしていただけのわたしでもこのザマなのに、二次会にも参加して数百人規模の客人の接待をしなければならない彼の苦労は計り知れない。
(こんな時は妻として労わってあげるべきかしら)
「お顔色が優れませんが、大丈夫ですか?」
ウィルズは上着を脱いでソファーに放り投げると、わたしの方を見てクスッと微笑する。
「心配してくれてる?」
「さあ。旦那さまを心配して申し上げたのか、単に思ったことを口にしたに過ぎないのか、そこの解釈はお任せします」
「じゃあ前者でとっておこう」
「実は後者だったりして」
わたしの冗談染みた笑みにつられ、ウィルズの口端も上がる。
「君のそういう素直じゃないところも好きだよ」
「わたしはいつだって素直です」
「今日も相変わらず強情だね」
ウィルズは語尾に力を入れ、その勢いでわたしの体を強引に自分の方に引き寄せた。
そしてそのままわたしの後頭部に手を当てて唇を寄せてくる。
抵抗する気はない。
四肢も全て彼に委ね、わたしはただ彼の動きに応じるだけ。
こないだまでキスさえ拒んでいたというのに、一体いつからわたしは彼を受け入れるようになっていたのだろう。
アーシェと出会ってからというもの、自分にもあんな可愛い子がいたら――と思い続けている。
家族が欲しい。
所詮は国家間の政略による関係だとしても、子を産んで今まで通り幸せに暮らせるならそれでいい。
誰もいない静かな部屋。
たった二人だけの誰にも邪魔されない時間。
わたしたちは互いの唇を押し付け合うようにして口づけをかわした。
舌同士が絡み合う。
熱く、そしてとろけるように甘い。
鼻先が触れウィルズの手がわたしの胸から下腹部にかけて滑り落ちる。
貪欲な身体はわたしを急かすようにして疼く。
口では強がっても身体は正直だ。
無意識に彼を求めてしまう。
もう何も考える気にもならない。
もっと長く唇を合わせていたい。
もっと強く抱きしめて欲しい。
もっとわたしを見て欲しい。
色欲、愛欲、我欲、利欲、そして独占欲。わたしの脳を支配する邪な欲望。
彼との口づけはわたしのすべてを満たしてくれる――
――でも唇が離れると、その愉悦は墨を水の中に落とした時のように薄れてしまう。
「今日は僕を拒まないんだね」
ウィルズはわたしが受け入れてくれたと思ったらしく、やや警戒した手つきで胸を指先でなぞる。
でも急にその手が下半身に移動したため、わたしは急に恥ずかしくなって振り払ってしまった。
「す、ストレートに触りに来ないでくださる?」
「大丈夫。誰も見てない」
(そういう問題ではないんだけど……)
酒が入ってやや酔っているらしく、彼は何ら懲りた様子もなく振り払ったはずの手を戻してきた。
しかも今度は背中→腰→お尻の順に下りてくる。これがまた、かなりしつこい。
「へんたいっ」
「サナギから蝶に?」
「理性ある 蝶から色欲に満ちた蝶に」
「言ってくれるね。――じゃあ色欲の蝶は蝶らしく“花”を愛でるとするか」
「あら、全ての“お花”に甘い蜜があるとは限らなくてよ」
ふとももの付け根に伸びてくる嫌らしい手をバシッと叩いてやる。
「せっかく蝶が飛んで来たのに蜜を隠すなんて。ヒドイ花もあったもんだ」
「すべての蝶に蜜を提供するほど軽いお花じゃないってことです」
「じゃあ試してみよう。君が誰に花開いてくれるのかを――」
わたしが「あっ」と間抜けた声をあげるのと、ベッドに押し倒されたのは同時だった。
またこの前のようにわたしの上に乗り、腕を押さえて自由を奪おうとする。
――もうそんなことしなくてもいいのに。
「愛してるよ、リミュー」
トクン、と胸に熱い何かが流れる。
でもそこで「わたしも」とは言わない。
女は結婚しても恋をし続けたい生き物。
それは決して男性には分からない特異な感覚。
そもそも男性の恋に対する定義と女の定義では根本が違う。
ここでわたしがウィルズを完全に受け入れるのもまた、一つの幸せなのかもしれない。
それでもまだ“ゴール”にしたくない。
女は恋をしているあいだだけ美しく輝き続ける花でもある。
相手と完全に結ばれて『夫婦』というレッテルの中で生きていくとなると、その輝きは瞬く間に色褪せてしまう。
まだわたしは美しく咲いていたい。『色』を持ったままでいたい。
だからわたしはこう返す。
「そう。嬉しい」




