前編
エリザが高熱を出して倒れたらしい。明日、俺達は一緒に港に行って船を見る約束だったので、大事を取ってその予定をキャンセルしたいと伝えた彼女の家の使用人が教えてくれた。
エリザは生命力にあふれている。俺が知る誰よりもたくましくて健康的な女性だ。幼馴染として二十年近くの付き合いがあるが、病気に負けたところなんて一度も見たことがなかった。
せっかくだ、見舞いに行ってやろう。どうせ退屈しているだろうしな。
エリザのお気に入りのパティスリーで、カスタードプディングを買っていく。これなら喉が痛くても食べられるだろう。
ついでに花も用意していくか。あまり匂いがきつくなくて、邪魔にならないよう小ぶりなものがいいな。花屋で目についたピンクのガーベラを三本包んでもらう。確かエリザはガーベラが好きだったはず。ピンクにしたのはエリザの髪と同じ色だからだ。
「ラウル様! ようこそおいでくださいました」
「突然の訪問になって申し訳ない。エリザ嬢の容態はどうですか?」
エリザの家の扉を叩くと馴染みの使用人が出迎え、恭しく一礼した。
「はい。先ほどお医者様の診察を終えたところです。原因ははっきりとは不明なのですが、恐らく神経と精神の疲れによるもので、人に伝染るものではないとのことでした。しばらく安静にしていればよくなるそうです」
「それはよかった。では、これをエリザ嬢に渡しておいてくれますか?」
見舞いの品を渡すと、使用人はいやいやと首を横に振った。
「ぜひラウル様から直接お渡しになってください。お顔をお見せになられれば、お嬢様もきっとお喜びになるでしょうから」
「……そうですか? それなら上がらせてもらいましょう」
応接間で少し待たされたあと、エリザ本人から会う許可が出たので寝室に案内される。
互いの家に行くのはそう珍しいことでもない。異例なのは、今日の目的がエリザの見舞いということだけだ。だからか、エリザの寝室に向かう一歩一歩がいやに緊張した。
「ご、ごめんなさいラウル、こんな格好で」
寝間着から急いで着替えたであろう飾り気のない部屋着のワンピース姿のエリザは、確かにいつもより元気がなかった。顔が燃えるように真っ赤だし、声もか細い。思っていたよりも重病なんだろうか。
「申し訳ありません。無理をさせてしまいましたか」
いつもポニーテールに結い上げているチェリーピンクの長い髪が、今日はそのまま下ろされている。見慣れないその姿に、なんとなく目のやり場がわからなくなった。
「ううん、大丈夫。来てくれて嬉しい。……心細かったから」
「エリザ!?」
ボルドーの目が潤み、あっという間に涙がこぼれる。驚いた俺はとっさに土産をテーブルに置き、ハンカチを差し出した。
「ど、どうしたんですか。そんなに不安だったんですか? 確かに木から滑り落ちてもケロッとしていた君が熱ごときに倒れるとは俺も予想外でしたが、死ぬような病ではないんでしょう?」
「いつの話してるのよ……」
ハンカチを受け取ってエリザはくすりと笑う。だが、すぐに憂うように目を伏せた。
「ねぇ。もしも、もしもよ? もうすぐわたしが殺されるって言ったら、信じてくれる?」
「なんですって?」
急に何を言い出すんだ。それだけ精神的に参っているということだろうか。
「誰が君を殺すというんですか」
「……あなたのことが好きな人」
「はぁ?」
俺を好きな人、だって?
まったく心当たりがな──い、いや、まさか、何かの比喩か!?
つ、つ、つまり、エリザも俺を!?
確かに人を愛し愛されるということは、当人を大きく変えるきっかけになる。好きな人に好きになってもらいたい、釣り合う自分になりたい……そんな考えから、それまでの自分とは別の自分になろうとするのなら、それは“自分を殺す”と言ってもいいだろう。
だっ、だが、俺は別にエリザの個性を殺そうとは思っていない!
おてんばなところも、大食いなところも、ちょっと抜けているところも、色気より食い気なところも、全部全部好ましい!
ありのままのエリザが一番だ! 俺はエリザのすべてを受け止める! 惚れた女のことぐらい受け入れられなくてどうするんだ!
「何を言っているんだか。エリザが死ぬ必要はありませんよ」
「ラウル……」
「無理に何かを変えようとしなくても、君は今のままでいいんです」
「その……う、嬉しいんだけど、たぶん話が噛み合ってないかも」
「え」
エリザは目を泳がせた。ただでさえ赤かった顔はもはや耳まで真っ赤になっている。熱が上がっているのかもしれない。
「えっと……最近、外国の貴族令嬢とお見合いしなかった?」
「縁談自体はいくつか来ましたが、どれも顔合わせはお断りしていますよ」
我が家の当主夫妻である両親は、俺の結婚については俺自身に一任するというスタンスを取っている。どこぞの権力者の家から俺宛に縁談が持ちかけられても、俺はそのすべてを断っていたし、それで両親から文句を言われたことは一度もない。
「その中に、シャルロッテ・フリュゾンっていう令嬢がいたと思うんだけど。デラジェイス王国の公爵令嬢の」
「さぁ。釣書きの中身までは見ていませんので。いちいち名前や家柄などは覚えていませんね」
デラジェイス王国の公爵令嬢? シャルロッテ? 誰だ?
確かに、二週間ほど前、デラジェイス王国の王太子が主催するサロンに顔を出したが……。もしかすると、その時にいた令嬢の誰かだろうか。
「その公爵令嬢が、君を殺そうとしているんですか?」
「結果的にそうなるというか……」
エリザは口ごもりながら、上目遣いで俺を見上げた。
「わっ……わたしの勘違いだったら、はっきりそう言ってほしいんだけど」
貸したハンカチをぎゅっと握り、エリザは意を決したように口を開く。
「……ラウルってわたしのこと、好きなの?」
「!?」
好きなの?
「すっ」
好きなの?
「す、す、すすす」
好きなの──?
「すっ──き、な、な、な、なんて」
「はっきりして! 大事なことなんだから!」
気迫に飲まれる。初恋を自覚してからこの十五年間、温め続けてずっと言えなかった一言が、とうとう。
「好きですよ! いけませんか!」
六歳の誕生日に、エリザからボロボロのクッキーを贈られたことがある。
エリザが初めて作ったお菓子。ジャリジャリしていて苦かった。お世辞にも美味しいとは言えなかったクッキーを、俺は悪態をつきながら食べていた。
エリザは怒って、自分も一口食べて……それで、俺の言いたいことを理解したらしい。エリザはあまりの不味さに思わず笑っていた。
そのエリザの笑顔を見てわかった。ああ、俺は、彼女が一生懸命作ったクッキーだから残さず食べようとしたんだと。
あの時からずっと、俺はエリザのことが好きだ。
今のエリザは、あの時とは比べものにもならないぐらい料理がうまくなった。丁寧に焼かれたエリザの甘くて香ばしいあのクッキーを、俺以外の誰かに食べさせたくはない。
「君は恋愛に興味がないでしょう。俺から君に告白でもしようものなら、君に俺との結婚を強制することになる。それは俺の本意ではありません」
俺の家は、この国で一番と言っていい権力を持つ。正確には我が家と同等の権力を持っている家があと六つあるが、この七つの家は対等だ。同率一位と言って差し支えはないだろう。
世界中の国から信仰を集める世界的な宗教、聖泉教の中枢を成すのは大天使達の末裔である七使徒家。我がアヴァーロ家はその、七体の大天使を祖とする一族の一角であり、富と繁栄の天使マモナの末裔だ。
七使徒家にはそれぞれ得意分野があり、教会における様々な役割を分担して担当している。
たとえば眠りと癒やしの天使ファゴーロンを始祖に持つコルツィオーネ家なら、治療院や救貧院といった教会直営の福祉施設の運営。
たとえば裁きと正義の天使サタナスを始祖に持つグエリエーロ家なら、聖地ルドを初めとする教区の防衛と聖職者の護衛のための聖騎士団の指揮と訓練。
そしてアヴァーロ家の役目は、教会の財政を管理することだ。教会に財を還元する目的で、アヴァーロ家は自分達でも商売を行っている。塩と香辛料、そして鉱物の交易を一手に担いながら銀行として国とも取引するアヴァーロ家は、世界でも有数の大富豪だ。
そんな家に生まれた俺が何かを望むなら、それは必ず手に入る。たとえ人間であろうとも。それだけの力を持つことを理解しているからこそ、俺は常に自分を律している。相手の意思を無視してまで手に入れようとは思わないからだ。
その一線を越えてしまえば、きっと歯止めが効かなくなる。少なくともその欲深さは、好きな人に向けてはいけなかった。
エリザの実家は確かに裕福な資産家ではあるが、財産も社会的地位も信用も我が家のほうが上だ。客観的事実として、俺の家からエリザの家に縁談を打診しようものならエリザの家は拒めないだろう。
「きょ、興味がないというか、ガラじゃないと思ってただけで……」
鈍感でごめん、と蚊の鳴くような声で囁き、エリザは布団に顔をうずめた。
「わっ、わたしも、ラウルのこと、好きだよ」
「エリザ!?」
「ラウルはいつも、男女っていじめられてたわたしを助けてくれたよね」
エリザと過ごした毎日はどれも俺の宝物だ。それを忘れて失うことは許せない。
エリザは昔から男勝りな性格だからか、同世代の女子からガサツな乱暴者だと思われていた。富裕層の少女達が集まるような場ではいつも浮いていて、大人達の見ていない場所で言いがかりをつけられたり嫌がらせを受けたりするから、いつも俺が目を光らせていたっけ。
「それに、さ。メリジーン夫人の家でラウルが『輝く星の夜』を弾いてから、『輝く星の夜』を聴くたびにあの日のことを思い出すの」
エリザが言っているのは、八歳の時に参加した音楽会のことだろう。
主催の家には、エリザと同い年の意地悪な娘がいた。その少女はいきなりエリザを壇上に上げてピアノを弾かせ、最後の一音を間違えてしまったエリザを皆で笑いものにした。
だから俺もピアノを弾きたいと言って、てんででたらめな演奏をしたんだっけ。エリザを笑いたいなら先に俺を笑えばいい、と。結局誰も俺を笑おうとはせず、もうエリザを馬鹿にする奴もいなかった。
「たぶんあの日からずっと、わたし、ラウルのこと……」
エリザはやっと顔を上げる。
「恥ずかしくて言えなかった。ラウルは人気者なのに、誰に言い寄られても相手にしてなかったから。わたしまでそんなこと言い出したらラウルに嫌われて、友達じゃなくなるかもって思うと怖かったの」
「俺はエリザが好きだから、それ以外の女性からの誘いはすべて断っていたんですよ」
アヴァーロ家の嫡男という立場は魅力的らしく、政略的な恋の駆け引きを持ちかけられることは多々あった。これまでは商売に専念している朴念仁のふりをしてかわしていたが、もうその必要はないということだろうか。
「エリザ。エリザは俺が強引に命令したからではなく、君自身の意思で俺を選んでくれるんですか」
「うん」
エリザが病床に伏していなければ、力の限り抱きしめてキスをしていたところだ。
さすがに病人相手にそんな無体を働いてはいけないと、理性が警告する。おかげで、すんでのところでとどまれた。




