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敵と味方  作者: 天秤座
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9/9

敵を敵として見る

 

 ここまで、敵と味方について考えてきた。


 最初に確認したのは、


 敵と悪は同じではない。


 味方と善も同じではない。


 ということだった。


 敵とは、自分や守りたい存在に対して、害や不都合をもたらす存在である。


 味方とは、自分が守りたいと思う存在である。


 そして、どちらにも当てはまらない存在もいる。


 ここで重要なのは、敵味方という概念が、


 その存在そのものの絶対的な性質ではない


 ということである。


 誰にとっての敵なのか。


 誰にとっての味方なのか。


 何を守ろうとしているのか。


 どの目的が衝突しているのか。


 それによって敵味方は変わる。


 同じ人間が、自分にとっては味方であり、別の誰かにとっては敵であることもある。


 ある場面では協力者であり、別の場面では競争相手になることもある。


 だから、敵味方とは関係によって成立する。


 そして、その関係が変われば敵味方も変わる。


 では、なぜ敵が生まれるのか。


 その根本には、


 守りたいものがある


 という事実がある。


 自分自身を守りたい。


 家族を守りたい。


 友人を守りたい。


 動物を守りたい。


 植物を守りたい。


 財産を守りたい。


 何かを成し遂げたい。


 何らかの利益や目的を守りたい。


 守りたいものがあるから、それを害する存在や妨げる存在が敵になる。


 だから敵という概念そのものをなくそうとすれば、


 守るという行為そのものまで否定することになりかねない。


 自分を害する存在すら敵として認識してはいけない。


 味方を害する存在すら敵として認識してはいけない。


 そのような考え方では、守るために必要な判断ができなくなる。


 敵が存在することそのものが問題なのではない。


 問題は、


 敵をどう判断し、どう扱うのか


 である。


 敵にも種類がある。


 すでに害を与えている敵。


 これから害を与える可能性がある敵。


 自分の目的と競合しているだけの敵。


 そして、情報が足りず、敵かどうか判断できない存在。


 これらをすべて同じように扱うことはできない。


 命を狙ってくる相手と、同じ大会で優勝を争っている相手は違う。


 どちらも広い意味では敵になり得る。


 しかし、必要となる対応はまるで違う。


 だから、


 敵であるという判定と、敵に何をしてよいかという判定は分けなければならない。


 これは、この話全体でも特に重要な部分である。


 敵だから害してよい。


 この考え方を認めてしまえば、非常に広い範囲の加害が正当化できてしまう。


 競争相手が邪魔だから傷つける。


 自分に反対する人間が邪魔だから排除する。


 自分より評価されている者が邪魔だから中傷する。


 自分にとって不都合だから攻撃する。


 敵という言葉を使えば、それらを一つの理屈にまとめることができてしまう。


 しかし、それでは、


 相手が敵であるという事実を、自分の加害を正当化する道具として使っているだけ


 である。


 正当な競争相手なら、正当に競えばいい。


 警戒すれば足りるなら、警戒すればいい。


 距離を取れば安全なら、距離を取ればいい。


 害する必要がないのであれば、不必要に害する理由はない。


 一方で、反対方向へ極端になることもできない。


 敵を害することは悪である。


 だから、どのような敵にも害を与えてはいけない。


 これも成立しない。


 自分を殺そうとしている者がいる。


 味方を傷つけている者がいる。


 守りたい存在への害を止めなければならない。


 そのとき、相手へ一切の不利益を与えずに問題を解決できるとは限らない。


 押し返す。


 拘束する。


 排除する。


 隔離する。


 逃げ道を塞ぐ。


 能力を制限する。


 必要な場合には、さらに強い対応を取らなければ安全を確保できないこともある。


 だから、


 敵を害したかどうかだけでも善悪は決まらない。


 重要なのは、


 その害が必要だったのか


 ということである。


 何を守ろうとしていたのか。


 どのような危険が存在していたのか。


 その危険はどれほど大きかったのか。


 他に現実的な手段はあったのか。


 どこまで行えば安全を確保できたのか。


 そして、その必要性を越えて害していないか。


 そこまで考えなければならない。


 ここで善悪と敵味方が接続する。


 敵味方は、


 誰を守り、何と対立しているのか


 を判断する。


 善悪は、


 その関係の中で、自分や相手がどのような害を生み出しているのか


 を判断する。


 この二つは関連している。


 しかし同じではない。


 だから、


 善でありながら敵である存在


 もあり得る。


 正々堂々と競う好敵手がそうである。


 自分の勝利を妨げる以上、勝負では敵だ。


 しかし、不必要な害を与えているわけではない。


 反対に、


 悪でありながら味方である存在


 もあり得る。


 自分を助けてくれる者が、他者へ不必要な害を与えている場合である。


 自分にとって味方だからといって、その害まで善になるわけではない。


 ここで必要なのは、


 敵にも味方にも同じ基準を使うこと


 である。


 敵が同じことをすれば悪だと言う。


 味方が同じことをすれば仕方がないと言う。


 それでは善悪を判断しているのではない。


 単に自分の陣営を擁護しているだけである。


 そして、この基準は自分自身にも向けなければならない。


 自分は当然、自分の側にいる。


 自分を守ろうとする。


 味方も守ろうとする。


 しかし、


 自分が自分の味方であることは、自分が善であることを保証しない。


 敵から守るために必要な行為をすることはできる。


 しかし、必要性を越えて害すれば、その害は自分の行為として評価しなければならない。


 相手が先に悪かった。


 相手が敵だった。


 相手が危険だった。


 それらが事実であっても、


 その後の自分のすべてを無条件に善へ変えることはできない。


 自分も評価対象から外さない。


 それが、善悪と敵味方を分けて考える意味でもある。


 そして、この考え方は社会にも適用できる。


 社会だから善とは限らない。


 法律だから善とも限らない。


 制度だから中立とも限らない。


 社会も、


 実際に何を守り、何を妨げ、何を存続させているのか


 によって判断する。


 悪による害を保存し、その害を止めようとする行為を妨げる社会であれば、その部分において善にとって敵として機能することがある。


 反対に、その構造によって守られている悪にとっては味方になることがある。


 社会という言葉にも特権はない。


 しかし、


 社会が敵だから社会を害してよい


 ともならない。


 ここでも原則は同じである。


 どの構造が害を生んでいるのか。


 何を変える必要があるのか。


 どこまで対応する必要があるのか。


 無関係な者まで害していないか。


 社会という大きな対象を相手にするときほど、敵を正確に特定しなければならない。


 さらに、敵と味方は変わる。


 一度敵だったから、永久に敵とは限らない。


 一度味方だったから、永久に味方とも限らない。


 過去は判断材料になる。


 しかし、過去の判定に現在を縛る必要はない。


 危険が消えれば敵ではなくなることもある。


 味方が害を与え始めれば敵になることもある。


 協力関係が終わり、敵でも味方でもなくなることもある。


 一つの分野では敵であり、別の分野では味方であることもある。


 だから敵味方について必要なのは、


 一度決めた分類を守り続けることではない。


 新しい情報に応じて判断を更新することである。


 ここまでを一つにまとめれば、敵と味方について私は次のように考える。


 自分には守りたいものがある。


 だから味方が存在する。


 その味方や自分を害し、不都合を生み出し、目的を妨げる存在は敵になり得る。


 しかし、敵であることは悪であることを意味しない。


 敵であることは、害してよい理由にもならない。


 反対に、敵を害することそのものが悪なのでもない。


 必要なら、自分や味方を守るために敵へ害を与えることもある。


 そこで問われるのは、


 誰を守るのか。


 何から守るのか。


 どこまで対処する必要があるのか。


 その必要性を越えて害していないか。


 ということである。


 そして、その同じ基準を敵にも、味方にも、自分にも、社会にも適用する。


 敵だけを厳しく評価しない。


 味方だけを甘く評価しない。


 自分だけを評価から外さない。


 社会だけに善や中立という特権を与えない。


 そうして初めて、


 敵と味方という関係と、善と悪という評価を分けて考えることができる。


 敵がいることそのものは悪ではない。


 味方を持つことそのものも善ではない。


 敵と戦うことそのものも悪ではない。


 敵を許すことそのものも善ではない。


 何を守るために、何をしているのか。


 そして、その行為によってどのような害が生まれているのか。


 そこを見る必要がある。


 敵と味方。


 善と悪。


 この二つは似ている。


 どちらも人間が誰かを判断するときに使うからである。


 しかし、その役割は違う。


 だから、最後に最も単純な形へ戻そう。


 敵は、悪とは限らない。


 味方は、善とは限らない。


 敵だから害してよいわけではない。


 味方だから守るために何をしてもよいわけではない。


 そして、


 誰が敵なのかという判断と、誰が悪なのかという判断を混同してはいけない。


 守るためには、敵を見なければならない。


 正しく守るためには、善悪も見なければならない。


 どちらか一方だけでは足りない。


 だから私は、敵を悪と決めつけるのではなく、味方を善と決めつけるのでもなく、


 守るべきものを守るために、敵と味方を判断し、そのうえで善悪を判断する。



 そして、読者にも一度考えてみてほしい。


 誰かを敵だと思ったとき、その相手が本当に悪なのか。


 誰かを味方だと思ったとき、その相手が本当に善なのか。


 自分が守ろうとしているものは何なのか。


 そのために、本当に相手を害する必要があるのか。


 必要だとすれば、どこまでなのか。


 そして、自分の行為は、その必要性を越えてはいないだろうか。


 反対に、害することを避けるあまり、本来守るべきものを害されるままにしてはいないだろうか。


 敵という言葉だけで相手を悪にしないでほしい。


 味方という言葉だけで相手の悪を見逃さないでほしい。


 善を名乗る個人や集団、制度や社会そのものについても、その名前だけで善だと決めないでほしい。


 そして何より、自分自身だけを判断の外へ置かないでほしい。


 敵にも、味方にも、自分にも、できる限り同じ基準を向ける。


 過去の判断が現在も正しいのかを考え、状況が変わったなら判断を変える。


 敵でなくなった者を敵にし続けず、味方でなくなった者を味方だと思い続けない。


 そのうえで、守る必要があるものは守る。


 戦う必要のない敵とは、不必要に戦わない。


 戦わなければ守れないのであれば、必要なだけ戦う。


 私は、敵をなくすことが正しいとは思わない。


 誰も敵だと思わないことが優しさだとも思わない。


 守りたいものがある以上、敵が生まれることはある。


 だからこそ大切なのは、敵が存在しないふりをすることではない。


 誰が敵なのかを考えること。


 なぜ敵なのかを考えること。


 その敵に何をする必要があるのかを考えること。


 そして、自分自身が新たな悪へ転じていないかを考えること。


 敵と味方を正しく見分けることは、誰かを憎むためではない。


 自分が何を守るのかを理解し、それを守るために必要な行動と、必要ではない害を見分けるためにある。


 だから、敵を敵として見ることを恐れないでほしい。


 同時に、敵という言葉に善悪の判断を預けないでほしい。


 味方を大切にしてほしい。


 同時に、味方という理由だけで悪を許さないでほしい。


 そして、自分が善でありたいと思うのであれば――


 敵か味方かではなく、何を守り、そのために何をしたのかまで、自分自身の頭で判断してほしい。


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