第72話『全員』
第72話『全員』
【アルケー ―― Theia Mania/テイア・マニア】
獣王の国へ続く街道を、馬車が一台揺れていた。
後ろには、荷車が何十台と連なっている。
大転移で放り出され、行き場をなくした人々を乗せた荷車だ。
箱の中に、三人。
市王ルミエル・ヴァンドーム。
グラン・ボルク。
リア・ルヴァン。
ルミエルは窓の縁に凭れ、扇を緩く揺らしていた。
「ほんと、不便な旅だこと。あたしの回廊が使えれば、こんな荷車の行列、要らないのにねえ」
「その回廊、まだ戻らねえのか」
グランが低く言う。
「戻るも何も。大転移のあとから、大陸ぜんぶ、転移系統のアルケーが狂ってるの」
ルミエルは扇の先を、西へ向けた。
「あたしの回廊も、他所の転移持ちも、根こそぎ暴れて使い物にならない。――あたしの勘だと、教皇のお膝元。証拠はないけどね」
リアは剣を膝に抱えたまま、窓の外を睨んでいた。
「近いな。獣王の国だ」
「攫われた連中が、この先にいるんだろう。なら、斬り込んで取り返すだけだ」
話は、単純なはずだった。
獣王はもう死んでいる。
スイが、あの闇市で沈めた。
なのに獣王の国は動き、大転移で散った帝国の民を、片端から攫っている。
その玉座に座った男の名は――ヴィス・ノーレン。
やがて、馬車が止まった。
獣王の国は、滅んでなどいなかった。
石造りの街は、ちゃんと息をしている。
人がいる。
店が開き、煙が立ち、子どもが路地を駆けていく。
ごく当たり前の、国の景色だ。
グランは、その光景を感慨深そうに眺めていた。
ただ――その当たり前の顔の裏で、空気が張りつめていた。
壁という壁に、牙を剥いた獣の紋章。
新しい王の紋章だ。
すれ違う民の目には、怯えと、押し殺した反発が、半分ずつ溜まっている。
少なくとも、グランがいた頃のこの国とは、明らかに違っていた。
グランが真っ先に向かったのは、国の外れの要塞だった。
元は獣王が捕虜を入れていた、古い石の檻。
攫われた帝国の民は、ここに集められているはずだった。
だが――門は、開いていた。
中は、空だった。
鎖も、藁束も、食い残しの椀も、まだ生々しく残っている。
つい先日まで、確かに大勢がここにいた。
いた、はずなのに――誰もいない。
「……もぬけの殻だ」
グランの声が、硬くなった。
「大勢いた。それが根こそぎ、運び出されてる。つい最近だ」
リアが、檻の奥を見据えた。
「どこへ」
「西だよぉ」
答えたのは、グランではなかった。
檻の梁の上に、男が一人、だらしなく腰かけていた。
痩せぎすで、顔色が悪い。
腹のあたりが、妙に膨らんでいる。
何か硬いものを埋め込んだような、不自然な膨らみだ。
「みィんな、西へ運んでったよ。生きたまま、ぜぇんぶ」
男はへらへらと笑った。
「オイラはズニ。ズニ・ガロ。ヴィス様の駒で、ここの留守番。――不死身のズニって呼んでくれていいよ」
リアが、立ち上がった。
剣の鯉口が、鳴る。
「生きたまま、どうする気だ」
「さあ? オイラは運ぶ係じゃないからねぇ。知らなぁい」
ズニは、梁からぽんと飛び降りた。
音もなく着地する。
腕は細い。
だが、そこに乗っている圧は、細くなかった。
「ただ、ヴィス様に言われてんだ。ここを嗅ぎ回る奴が来たら、片づけとけって」
にたり、と笑う。
「安心して。オイラ、死なないからさ。何度でも付き合えるよぉ」
市王が、扇をぱちりと閉じた。
「今回は、グランちゃん、あなたが戦いなさい。――カルロス」
市王の後ろに控えていた男が、音もなく一歩出た。
市王の部下、カルロスだ。
「周りを巻き込まないよう、鎖で囲ってあげて」
「御意」
グランの姿が、ゆらりと薄れた。
「……ようやく出番か」
リアが、半歩前に出た。
「すまないが、私も戦う。少し試したいものがあってな。いいか、市王」
「大丈夫よ。だって貴女……随分と良い剣を、手に入れたみたいだから」
アサナルドへ近づくほど、魔獣の数は増えていった。
根源力が、一方へ流れている。
あの廃墟の一点へ、大陸中の力が吸い込まれていく。
その匂いを嗅ぎつけて、魔族も魔獣も、同じ方角へ下っていく。
その流れの途中に、灰色の外套の一団が踏みとどまっていた。
横隊。
数は多くない。
向かってくる魔獣の方が、ざっと十倍。
先頭に、顔へ古い爪痕を三本走らせた男が立っていた。
灰色機関の現場を預かる男、ダグ・ロウレン。
灰の猟犬と呼ばれている。
「右が割れるぞ。ミルカ下がれ。ヨナ、縫え」
名を呼ばれた二人が、淀みなく動く。
崩れかけた列が、また一本の線に戻った。
ダグは部下を番号で呼ばない。
必ず名で呼ぶ。
名で呼んだ者は、生きて帰す。
それが灰の猟犬の流儀だった。
魔獣は核を持たない。
突いても刺さらない。
削り、断ち、潰す。
そこまでして、ようやく一匹が消える。
面倒な駆除だ。
だが面倒なだけだった。
一匹ずつなら、こいつらは雑魚でしかない。
怖いのは、数だ。
「数で来るなら」
ダグは魔獣の首を、肩ごと断ち落とした。
「技で削る。焦るな。崩れた線から死ぬぞ」
削っても削っても、流れの上手から新しい群れが湧いてくる。
この川の源を断たないかぎり、駆除に終わりはない。
遠く、帝国の旗を立てた一団が、同じ西へ向かっているのが見えた。
――皇帝のお出ましか。
ダグは旗を一瞥しただけで、また刃を返した。
共に西を目指す。
だが仲間ではない。
灰色機関は、誰の旗の下にもつかない。
化け物を駆除する。
それだけの集まりだ。
戦線のずっと後ろで、別の静けさが張られていた。
崩れた石壁の内側に、攫われずに逃げ延びた者たちが身を寄せている。
その周りを、薄青い膜が囲っていた。
結界だ。
膝をつき、両手を地につけ、祈るように頭を垂れて膜を支える女がいた。
頭の上で、長い純白の耳が、張りつめた空気にぴくりと震える。
雪兎族の獣人。
北の小国ニーヴェから来た
境理会の結界師、ミナ・ティエ。
「この内側までは、何も入ってきません。境界は、わたくしが引いています」
だが、西の地平が黒く埋まり始めていた。
魔獣の群れだ。
一つの濁流ではない。
地平そのものが、端から端まで蠢く肉で塗り潰されていく。
ありえない数だった。
――保たない。
ミナは静かに覚悟した。
この結界は、内側の人を守り、これ以上の戦力を入らせないための壁だ。
あの数を止められるほどの、盾ではない。
時間はない。
緊迫が張り詰める、その中で。
「やっほ〜、ミナ」
膜の内に、いつのまにか女が一人立っていた。
オレンジ色の髪。
毛先が、光に透けて金色になっている。
境界を、あってないように歩く女。
アズライ・ソーングレイ。
「あ――あの方」
ミナは思わず背筋を正した。
白い耳が、ぴんと立つ。
アズライは、地平を埋める黒い壁を一瞥した。
「うわ多すぎ。ミナの結界じゃまだ無理かも」
「ですが、わたくしには、これしか」
「うん。だから、ちょっとだけ手伝う」
「手伝う……?」
指を一本立てて、それから面倒くさそうに付け足す。
「今日は、ここだけね。私が派手に動くと、もっと面倒なのが"外"から覗きに来るの。そっちの始末のほうが、よっぽど人が死ぬから」
意味は、ミナには分からなかった。
分からないまま、その言葉を咀嚼しようとする。
アズライが、地平へ指をなぞった。
なぞった空間が、きんと澄む。
「――うん。あっち側に、生きてる人はいないね。なら、ただの掃除だ」
指を、閉じた。
音はしなかった。
光も、風もない。
ただ、そこにあったはずの地平が、無くなっていた。
群れも、群れの立っていた大地も。
削れたのでも焼けたのでもなく、もとから何も無かったことにされている。
乾いた断面だけが、残った。
ミナは、声を失った。
「で、ひとつだけ」
アズライが、西の穴を指さす。
「あれが食ってるのは、肉じゃないよ。みんなの怯え。――それで受肉を早めてるんだ」
にっ、と笑って。
「ばいば〜い。あとは、がんばってね。みんななら、上手くやれるさ」
姿が、境界の向こうへ溶けた。
ミナは、切り取られた地平を見つめた。
あの方の"ちょっとだけ"が、国ひとつぶんの大地を消す。
それでも、ここだけだと言う。
これが天理。
理すらも超える、その次元。
本当は、ずっと頼っていたい。
だが、それだけでは、いつまで経っても前に進めない。
――ならば、この地獄を押し返すのは、わたくし達だ。
ミナは膝をつき直し、結界へ力を注いだ。
西の果て、アサナルドの地下に、その声は響いていた。
「ああ――ごらんなさい。今朝で、また一回り育ちました」
度の強い丸眼鏡の奥で、両目が濡れたように大きく見える男がいた。
アサナルドの生き残り
首席研究者ファウス・ケレル。
大穴の縁に立ち、底を見下ろして、うっとりと手を擦り合わせている。
穴の底に、肉の塊があった。
腕とも翼ともつかぬものが生え、また萎れ、別の場所から生え直す。
形が定まらない。
定まらないまま、あちこちで受肉し、互いを喰らい、ただ巨大になっていく。
「私たちは何十年も、使徒を人の手で組み上げようとしてきた。器を作り、力を注ぎ、祈るように待った」
ファウスは、底へ指を伸ばした。
「もっとも――それは、たった一人に台無しにされたわけですが」
「ですが、今はどうです。誰も着けていない装飾品が、ひとりでに肉を纏っている。――お分かりか? これは私の仕事じゃない。神の仕事だ。人の手では、ここまで美しくはならない」
「育つのは構わん」
背後の声には、温度がなかった。
「問題は、いつ仕上がるかだ。仕上がりの読めん駒は、盤に置けん」
戦場に背を向け、携帯用の小さな盤に駒を並べている男がいた。
雇われの軍師、オルグ・ザイフェルト。
穴の底には、一瞥もくれない。
興味があるのは、数字と刻限だけだ。
オルグは、盤の上に新しい駒を置いた。
同じ獣の形をした駒が、整然と何百も並んでいる。
「十王の中で、最も実践データの取りやすかった獣王。それを模した機械だ。元より八分どおり出来ていた。足りなかったのは、中身だけ」
「ヴィス殿が港から運ばせた骸。あれで、最後の一枚が嵌まった」
「死んだ王の体を開いて、ようやく、です」
ファウスが、嬉しそうに引き取った。
「もとはといえば、この国の悲願だ。アサナルドは一夜で、たった一人に滅ぼされた。――その帝国へ、今度こそ牙を剥く。死者の王も、きっと喜んで働きましょう」
「量産に回しました。もう何百と立ち上がっている。――お分かりか? 王というのは、骸になってようやく、万人の役に立つのですよ」
オルグは、盤の端を指で叩いた。
底の肉塊が、ぶるりと震えた。
まるで、二人の話を聞いていたように。
西へ向かうのは、皇帝たちだけではなかった。
鏖魔ヴァラクが歩くと、魔獣が道を空けた。
同族ですらない。
餌を漁る獣が、桁の違う何かに、本能で道を譲る。
ヴァラクはもう、根源石を十分に食っていた。
帝国が乱れ、国がいくつも砕けたおかげで、骸に埋まった石を好きなだけ拾えた。
腹は満ちている。
力は足りた。
――帝国は、もう用済みだ。
石を落とすために割れてくれた、器にすぎない。
割れ終われば、用はない。
自分を十王の番付へ縛りつけていた枷も、今はもう、どこにもない。
残ったのは、ただ一つ。
――皇帝の首だ。
「目障りだ」
足を止めずに、腕を振るう。
前方の群れが、まとめて地面にめり込んだ。
踏み潰したのではない。
そこだけ、下へ落ちる力が、何十倍にもなっただけだ。
異質な威圧が、通り過ぎた空気を軋ませる。
人の理の、外側にいる塊。
それが誰に阻まれることもなく、ただ皇帝の首だけを見て、西へ下っていく。
別の尾根では、まるで違う音が鳴っていた。
魔獣の群れが、一撃ごとに吹き飛んでいる。
「がはははっ! 湧くわ湧くわ! 退屈せんのう!」
豪快に笑いながら拳を振るう大男がいた。
武神レオニス。
十王5位。
獅子のたてがみのような髪を逆立て、無精髭の顎を上げて吠える。
「しかしまあ、ひどい流れじゃ。これだけの化け物が一方へ下るとは。西に、よほどの馳走があるとみえる」
レオニスは、拳を鳴らした。
「あやつも来ておるかのう」
弟子の顔が浮かぶ。
雷の小僧、ライ。
「まあ、来るか。あの馬鹿が、こんな祭りを見逃すものか。――儂も、行かねばなるまい」
武神は、西へ駆けた。
踏み出すたびに、地が鳴った。
アサナルドの外縁、涸れた谷のほとりで、男は足を止めた。
谷の底を、西へ向かう根源の流れが、細く這っている。
ここまで来ても、力は一方へ落ちていく。
逆らうものが、何もない。
その流れの正面に、女が一人、立ちはだかっていた。
背が高い。
赤い髪を無造作に刈り上げ、片頬から首筋にかけて、古い火傷の痕が走っている。
両手の甲に、びっしりと鉄の鋲。
剥き出しの腕も肩も、歴戦の傷で埋まっていた。
憤怒の七戒、イグニス=カレン。
彼女は、黒衣の男を見るなり、唇の端を吊り上げた。
「――おっ」
喉の奥で、笑うような、唸るような声がした。
「なんだお前。いい面構えじゃねえか」
「気配がねえ。強いのか弱いのかも読めねえ。……ぞくぞくするじゃねえか」
戦いの匂いに、カレンの肌が粟立っていた。
この地獄に来てから、くだらない雑魚ばかり相手にしてきた。
久しぶりに、歯ごたえのありそうなのが立っている。
――それだけで、彼女の機嫌は天井知らずだった。
「名乗りな。あたしはカレン。憤怒だ」
両の鉄鋲が、じりっと赤熱する。
「殺し合いの前に名を交わす。それが、あたしの流儀でね」
黒衣の男は、答えなかった。
カレンの顔も、灼け始めた拳も、見ていない。
ただ西を見たまま、問うた。
「教皇は、どこだ」
抑揚のない声だった。
怒りも、昂りも、何もない。
ただ、確かめているだけ。
カレンの笑みが、止まった。
「……あァ?」
「あのお方の居所? そんなもん、あたし達ですら、呼ばれて初めて知るんだよ」
一歩、踏み込む。
「それよりだ。あたしが名乗った。お前も名乗れ。そんで、やろうぜ。――お前、絶対にいい。久々に本気で焼けそうだ」
黒衣の男は、まだ、彼女を見ていなかった。
「用は済んだ」
低く、そう言った。
「お前は、ここで終わる」
それは、宣告ですらなかった。
道の先に、石が落ちていた。
どかすか、踏むか。
ただ、それだけを確かめる声だった。
カレンの中で、何かが、ぶちりと切れた。
憤怒の七戒だ。
受けた屈辱が、そっくり火に変わる女だ。
そして、戦士にとって、これ以上の屈辱はなかった。
強いと認められることでも、恐れられることでもない。
――"見られてすら、いない"こと。
「……は」
声が、怒りで震えた。
「ふざけるな」
全身の鉄鋲が、白く灼ける。
谷の岩が、熱でぱきぱきと爆ぜ始めた。
「あたしを見ろ。あたしを――道端の石ころみたいに、通り過ぎるな!」
業火が、彼女を包んだ。
受けた侮辱のぶんだけ、火は際限なく膨れ上がる。
涸れた谷が、真昼のように明るくなった。
それでも。
黒衣の男は、炎の照り返しの中で、ようやく彼女を見た。
布の奥の、感情の削げ落ちた目が、ほんの少しだけ、細められる。
憐れむように。
懐かしむように。
「昔、お前のような女を、知っていた」
それは、答えではなかった。
答えの形をした、別の何かだった。
燃え盛る谷の底で、男の輪郭だけが、冷たく、揺らがずにいた。
同じ頃、アサナルドの際に、皇帝アルド・グラインは立っていた。
眼下に、かつて技術大国と呼ばれた国の屍があった。
塔は折れ、街は裂け、地の半分が陥没している。
だが、更地ではない。
崩れた建物の影、半壊した街路、剥き出しになった地下。
原形を失った骸が、見渡すかぎり続いていた。
その中央に、穴があった。
近隣の国々から流れてきたすべての力が、一本の川になって、そこへ注いでいる。
穴の底で、何かが膨らんでいた。
形のない肉の山が、呼吸のたびに、また一回り膨れる。
そして、その周りに――人がいた。
無数の人間が、鎖で繋がれ、ただ座らされている。
牢に入れるでもなく、囲うでもなく。
生きたまま、穴の縁に積まれていた。
六万。
通達で聞いた時は、四万だった。
幾日も経たぬうちに、それが六万だ。
眼下の景色に、その数が重なる。
それでもまだ、息をしている薪のほうが多い。
アルドは、帝国の民を取り返しに来た。
その民は、取り返される日など、待ってはいなかった。
くべられる順番を、待っていた。
現に今、目の前に立つ自国の王にすら、気づきもしない。
隣で、虚空が低く息を吐いた。
「……腹立たしいな」
珍しく、達観の抜けた声だった。
「わざわざ生かしてある。優しさに見せかけて、その実、いちばん長く苦しむ形を選んでいる。趣味が悪い」
アルドは、答えなかった。
眼下の薪の一人が、ふと顔を上げ、こちらを見た。
助けを求める目では、なかった。
もう、何も待っていない目だ。
皇帝の姿を認めても、そこに光は戻らなかった。
アルドの胸の奥で、何かが音もなく軋んだ。
この男は、力を檻に入れ、知恵を回し、国を回してきた。
その国が今、目の前で溶けている。
溶けた先に、こんな景色があった。
「……間に合わなかった、では済まさん」
ひとり、そう呟いた。
誓いでも、演説でもない。
ただ、腹の底で決めただけだ。
受肉を止めるのが、先だ。
でなければ、民は救えない。
核となる装飾品は、まだ奥。
そして、尾根を下りた。
虚空が続く。
ブラッドの一席ガウェン・ドルツが、無言で最後尾を固める。
二席ノエル・ハインが、鋭い目で左右を測りながら前へ出た。
崩れた大路を進むほどに、薪の怯えが濃くなった。
穴が近い。
あれの呼吸が、聞こえるほどに。
やがて一行は、崩れた王城の――玉座だけが残った広間に出た。
その中央に、男が一人、待っていた。
ヴィス・ノーレン。
目を閉じ、近づいてくる足音の一つ一つを、目方として量っている。
アルドが広間へ踏み入ると、ヴィスは静かに目を開けた。
「よくおいでくださいました」
測るように、目を細める。
「――ずいぶんと、重くなられた。少し昔、帝都で量った時よりも」
「滅んだ国。攫われた民。その一つ一つが、あなたの背に乗っている。重い。実に、重い」
声が、平坦に落ちた。
「ですが、あなたは一つ思い違いをしている。民を救いに来たつもりでいる。怪物を止めに来たつもりでいる。――ですが、違うのですよ」
ヴィスは、ゆっくりと広間を歩いた。
床を、西へ向かう細い根源力の川が横切っている。
それを踏まないよう、歩を選ぶ。
「ラグナロク。帝国が百年前に拵えた、終わりを裁くための仕組み。勝った者が世界の形を決め、帝国の暴力がそれを保証する。ただ一つ許された、公正な殺し合い」
ヴィスの目が、虚空へ流れた。
「原初派の頭まで、わざわざ出てきてくださった。――盤を崩すには、ちょうどいい」
「元より教皇様は、あの盤で勝つおつもりがない」
帝国という審判を崩し。
原初派という相手を散らし。
市王の流通網を断つ。
盤を支える脚を、一本ずつ外していく。
盤そのものが無くなれば、裁定もない。
保証もない。
勝ち負けを決める者が、どこにもいなくなる。
残るのは、ただ一つ。
最も強い意志が、世界の形を好きに描くことだけだ。
「ラグナロクを勝つのではない。ラグナロクという仕組みごと、作り変えてしまうのですよ」
――舞台を、根こそぎ。
「このアサナルドは、その一手。あれは、そのための窯でしてね」
広間の奥。
地の底から、肉の膨らむ気配が伝わってくる。
西へ流れ込むすべての力が、そこで一つの災厄を太らせている。
「あなたが一歩踏み込むごとに、あれは育つ。止める算段でいらしたのでしょうが――」
ヴィスは、薄く笑った。
「受肉はもう、止まりはしませんよ。測るまでもない」
その右に、いつのまにか、男とも女ともつかぬ、痩せた影がいた。
だが、立っているのではない。
足元の瓦礫がひとりでに積み上がり、崩れた梁がせり出して、その体を抱え、宙へ掲げている。
本人は、指一本、動かしていない。
まるで、世界のほうが自分を運ぶのは当然だとでも言うように。
目の下に、深い隈。
無造作な髪の隙間で、黒く沈んだ金の耳飾りが揺れた。
怠惰の七戒、ベルフェゴール・フォン・エデン。
「はぁ──── 皇帝が、わざわざ自分の足で──── 」
心底、面倒そうな声だった。
「そういうの、見てるだけで疲れるんだよなァ──── 俺様の代わりに、瓦礫が全部やってくれるのに──── 」
梁がきしみ、彼の体をわずかに持ち上げる。
「ま、いいさ。お前らが動くぶんには、俺様は動かなくて済む──── 」
その左。
――いなかったはずの場所に、小男が一人、立っていた。
矮小で、顔の印象が、見た端から薄れていく。
気配はずっとそこに在ったのに、たった今まで、誰も気づかなかった。
強欲の七戒、オーヴ・カスティロ。
皇帝を見て、小男は、帳尻の合ったような顔をした。
「また会ったね。言った通りだ」
夢で交わした話の、続きを引き継ぐ声だった。
「"次はアサナルドで会うことになる"。そう言ったはずだ。君は、ちゃんと来た」
「約束を守る人間は、好ましい。余計な手続きが、省けるからね」
オーヴは、指を折って数えた。
「皇帝に、十王に、ブラッド。これだけのものが、自分から歩いて来てくれた。僕は、無駄が嫌いでね。わざわざ回収に出向かずに済むのは――実に、効率的だ。そうだろう?」
三人。
虚空が、すっと前に出た。
皇帝を背にかばい、三つの影を見据える。
「皇帝。先へ行け」
「装飾品を引き剥がして、受肉を終わらせろ。――ここは、私が引き受ける」
ノエルが、鋭く振り向いた。
隊の進退を即座に読む、斥候の目だった。
「引き受ける――? お一人で、一体、どれをです」
「三体のうち、どれを虚空様が受け持つ。残りは、こちらで捌きます」
「いや。必要ない」
虚空は、振り返らなかった。
三つの影を見据えたまま、短く言った。
「私が相手にするのは――全員だ」
─────第72話 完




