第三十五話「誰が為」
空が夕暮れへと傾き始めていた頃、戦闘魔術の授業を終えたラクアは居残りで片付けをした後、終礼の為一人で教室へと戻っていた。
曇り空の中、ラクアは校庭を横切って行く。芝生を踏み締めながら進んでいたその時、ふと顔を上げたラクアの青い瞳に、フィリアが映った。授業で激しく動いた後だったはずだが、その容姿に乱れはない。生ぬるい風が整えられた長い髪を僅かに揺らしていた。
「遅かったわね」
「ああ、今日休んでるガルフの代わりに日直の仕事を引き受けたから、ノルダートを手伝ってたんだ。……それで、俺に何か用でもあるのか?」
「ええ、まだあなたにお礼を言って無かったと思って」
突然、フィリアは両腕を前に畳み、上品に頭を下げた。
「ありがとう……ソフィを助けてくれて」
深々と下げられた頭。その際一瞬見えた彫刻のように端正な顔。閉じた目から伸びる長いまつ毛は、彼女の冷たい美しさを際立たせている。
「別に……人として当然の事をしただけだ」
「そうね……確かにその通りよ。私にとっては耳が痛い言葉だけれど……」
顔を上げたフィリアは、しばらくラクアを見つめていた。その目に宿っていた感謝はやがて静かに薄れ、代わりに何かを見極めようとする鋭さが戻ってくる。
「でも――本当にそれだけかしら」
さりげなく向けられた鋭い眼光がラクアを捉える。
「どういう意味だ」
「ソフィを救ってくれたあなたに、こんなことを聞くのは恩知らずなことだって自覚してる。でもどうしても引っかかってしまうの」
フィリアの細い足が動き、二人の間が縮まった。身長の大小によって出来た高低差を埋めるように、下から上へと視線がぶつかる。
「必死にあの子の為に尽くすあなたを見て、私は疑問に思ったわ。あなたの行動は異常なのよ。普通そこまで他人のために動こうとする人間なんていない」
フィリアの探るような目を、ラクアは真正面から見つめ返す。何か返答すべきか思案したものの、そのまま沈黙を選択し、ラクアはフィリアの出方を伺うよう決め込んだ。
「何があなたをそこまで突き動かすの?……まさか、下心であの子に近づいたわけじゃないでしょうね」
飛び出した言葉はラクアの想定から少し外れたものだった。だがその突拍子もない発言の意図が、ラクアには手に取るようにわかった。
「下心無しに女子に近づく男がいるのか?」
躊躇なく返したラクアの言葉に、フィリアは目を見開いた。きっとそのように返答してくることが予想外だったのだろう。普通なら否定するべき問いをラクアは肯定した。そうしなければ、他の理由をさらに探られる事になり、話の落とし所をつけられなくなる。フィリアの問いに頷くことが、最も自然にこの場を収めることができると判断したからこそ、ラクアは迷わず首を縦に振ったのだ。
「意外ね……あなたが普通の男子生徒みたいな事を言うなんて」
「不満か?」
「いいえ、そういうことなら納得したわ。……それに、あなたならあの子を安心して任せられる」
言葉とは裏腹に、フィリアの表情は陰り、物思いに耽るように目を細めた。
「これで私は……あの子から離れられる」
誰にも聞こえないような小さな呟きを、ラクアは確かに拾った。そして、その耳を疑った。少し勢いのある風が吹き抜け、芝生が煽られてざわざわと音を立てる。
「お前とソフィは親友なんじゃなかったのか? なんでそんな事を言うんだ」
誰よりもソフィを気にかけていたはずのフィリアがその関係を否定するような発言をしたその意図が、ラクアには分からなかった。それを悟らせないかのような落ち着いたラクアの問いを、フィリアは俯いたまま聴いている。まるで世界から、校庭に立つ二人以外が消えてしまったかのように隔絶された世界がそこにあった。
「貴方の言う通り、私とソフィは親友よ。でも――私みたいな臆病者は、あの子の側に居るべきじゃない」
言い切ったフィリアは苦々しく歯噛みをした。その考えが不本意である事は、その様子から見てとることができる。それほどまでに、少女の表情は暗く憂鬱なものだった。
「……臆病者?」
「私はソフィの苦しみを取り除こうと動くことが出来なかった。十二年も隣に居たのによ……。あの子に向けられる痛みが、私に向く事を恐れて何もしなかった。形だけ親友を気取って、私はあの子の力になれなかった。――なろうとしなかった……」
ラクアには、いつもは凛としている少女が、驚くほど小さく見えた。手を固く握り、自分自身に対して煮え滾っているものを押し殺している。
「でも貴方は違う。あの子が抱えている痛みに気づいた途端、すぐに行動に移した。私なんかより、よっぽどソフィの支えになってる……。それに、また私との関係のせいでソフィが辛い目に合うかもしれない。だからもう、私はあの子に必要ないのよ」
自分自身を傷つけるように、言葉を並べた後、フィリアは力無く息を吐いた。
「ソフィが、そう言ったのか?」
フィリアの肩がぴくりと跳ねる。その質問が否であることはラクアには分かりきっていた。フィリアの返答を待つこと無く、ラクアは口を動かし続ける。
「あいつはきっと、そんな事を望んでいない。お前がしようとしてるのは贖罪でもなんでもない。ただの独りよがりな現実逃避だ」
朗読のように抑揚もなく言葉を紡ぐラクアに、フィリアは言葉を失っている。紫紺の目だけが茫然とラクアを見つめていた。
「お前が居なくなったらあいつはまた間違いなく精神的に病む。そんな事はお前だって分かってるはずだ。お前はあいつのことを何も考えちゃいない。残酷な現実から目を背けようとしただけだ」
「なら、――どうしたらいいの」
正論をぶつけるラクアに、フィリアは俯いたまま、八つ当たりするかのように静かに問いを吐いた。
「この罪悪感は、どうすれば無くなるの? あの子はどうしたら幸せになれるの? 何か方法があるのなら教えてよラクアくん……」
垂れた前髪で表情を隠したまま言葉を紡ぐ少女を、ラクアは冷たく見つめる。
(自暴自棄……いや、何が正しいことなのかわからなくなっているのか。いつもは落ち着いていて、誰よりも俯瞰して物を見ているように見えるこいつも、所詮思春期の子供に過ぎず、折れた心の修復もままならないほど未熟……だが好都合だ)
――この機を利用して、俺がこいつの添木になればいい
俯く彼女の表情は読み取れない。その目に涙を浮かべているのか、それとも失意から無表情を貼り付けているのか。それはラクアにはわからなかった。
「……ソフィが立ち直ることが出来たのはお前がいたからだぞ」
音の無い空間を破ったラクアの声に、フィリアの力無く降ろされた肩が揺れた。
「俺がした事といえば、あいつの目を身近な人の想いに向けただけだ。そして結果的にソフィは信じたんだ。支えてくれる人からの――お前からの愛を。だからあいつは生きるという選択をしたんだ。お前がいなきゃ、俺はきっとあいつを救えなかった」
フィリアは固まったまま、ゆっくりと繰り出されるラクアの言葉を聞いていた。沈黙する姿も、小綺麗な西洋人形のような不思議な優艶さがあった。
「お前は頑張ったんだ。ずっと側で、言葉にする必要がないくらいあいつを愛して支え続けたんだ。……その頑張りを、お前は自分の手で無かった事にするのか? ソフィが見つけた生きる意味を、また奪うつもりなのか?」
ラクアはフィリアを励ますような言葉を送った後、あえて責めたてるように言葉を続けた。
「……どうしたら……いいの?」
フィリアはほんの僅かに顔をあげた。前髪から覗く目が、すがるように、ただ答えを求めるようにラクアを見ている。
「ソフィの話を聞いてやれ。自分はどうすればいいのか、どうやって罪を償うべきなのか、あいつと相談すればいい。お前は贖罪の対象と、言葉を交わすことができるんだから」
不安定な精神を刺激しないよう、ラクアはできるだけ柔らかい言い方でフィリアを諭した。天を覆っていた暗雲が割れ、校庭に燃えるような夕日が差す。
「それでも、消えない罪悪感に苦しめられるようなことがあったら、その時は俺を頼ってくれればいい。話し相手くらいにはなってやる」
その言葉に、フィリアはゆっくりと顔を上げた。ラクアの口から出た言葉自体は、フィリアを完全に立ち直らせるには至らないだろう。だが行き詰まった時ほど、人は新しく与えられた答えにすがるものだ。それをラクアは誰よりも理解していた。
「……それが、あなたの思う正解なのね」
「どうだろうな……そもそも正解なんてないのかもしれない。自分が納得出来るかどうか。それ以外の結果なんてあってないようなものだぞ」
フィリアはラクアの言葉を受け止めながら、体を硬直させていた。だが不意に肩の力を抜くように息を吐く。顔がゆっくりと上がり、陽の光がその紫紺の目を照らした。
「そうね……あなたの言う通りなのかもしれない。参考にさせてもらうわ」
そう言った少女の表情は暗いままだが、ラクアをまっすぐ見つめるその表情には、先ほどまで微塵も感じなかった温かみが確かにこもっている。
「悪いな、少し差し出がましいことを言った気がする」
ラクアは強く踏み込んだ足を引き戻すように言った。プライドの強そうな彼女のことだ。身の回りの事をとやかく言われるような状況に良い気はしていないだろう……。そう思い、沈黙を破る手段に謝罪を選択した。
「いいのよ。……貴方みたいな人が、私には必要だから」
穏やかな風が、桔梗色の髪を揺らした。そう言ったフィリアの表情はまだ暗い。だが、絶望一色だったその瞳に、わずかな迷いが戻ってきたように思えた。
「これからも、ソフィと仲良くしてあげて。私には勿体なくらい良い子だから」
フィリアはそう言い残し、その場を去っていった。夕日に照らされたその背中は少し頼りなくみえたが、
ラクアにはそれ以上どうすることも出来ず、ただ二つの青い目でそれを静かに追っていた。
(言われなくても、ソフィエルは俺が隣で支える。俺がお前を必要としなくなる、その時までは……)
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放課後、ラクアは図書室に赴き、いつも通りソフィと静かな時間を過ごした。一心に本を読み耽った後、日が落ち閉門時間になると、二人はそのまま寮塔までの帰路を共にした。あたりはすっかり暗くなり、他の生徒の姿も無かった。
「良かったのか? フィリアと帰らなくて」
「うん。元々今日は用事があるらしくて、先に帰るって言ってたから」
「そうか……」
少し冷えた空気の中、ラクアはソフィと肩を並べて校門をくぐり、月明かりに照らされた下り坂を降りていく。
「あ、見てラクアくん。 月がすごく綺麗だよ」
ソフィの細い指が差した先の空には、大きな銀色の満月が浮かんでいた。割れた雲の間から覗くそれは、若干の冷たさをもっており、同時にこの世から二人以外の存在を掻き消してしまうような奇異な迫力を秘めている。
「ああ、ソフィの髪に似てるな」
「……えっ」
空模様について話すようなさりげなく発せられた言葉に、ソフィは思わず素っ頓狂な声を上げた。
「……悪い。あまり髪については触れて欲しくなかったか」
「う、ううん。そうじゃなくて……初めて、言ってもらえた言葉だったから」
ソフィは目を逸らしながら口籠った。白い頬が赤く染まり、それを隠すように片手で顔の下半分を覆っている。しばらくコツコツという固い地面を鳴らす足音だけが響いていた。
「……俺も昔、髪の色で苦労したことがあった」
耐え難い沈黙を破るようにラクアが呟いた。
「た、確かに……ラクアくんの黒髪も結構珍しいよね」
「それに加えて両親のどちらとも違う色だったから、不吉な子供だなんて言われたこともあったな」
「そうなんだ……なんだか私たち、結構似てるのかもね」
「かもな」
くすぐったそうに笑ったソフィの声が闇に溶ける。穏やかな風がラクアの頬を撫でた。
「……ラクアくん、ありがとう」
ソフィは今までの話を両断するように、落ち着いた声で前触れなくその言葉を口にした。
「どうしたんだ急に」
「みんなに私を助けるよう言ってくれたのラクアくんなんでしょ?」
柔らかな笑みを浮かべたまま、見透かすように青い瞳がラクアを捉える。
「誰から聞いたんだ」
ため息を吐きながら、ラクアはゆっくりとソフィに問い詰める。
「カルナちゃんだよ。最初は話してくれなかったんだけど……カルナちゃんは優しいし押しに弱いから、頼み込んだら教えてくれると思って」
「……意外と打算的なとこあるんだな」
自分が言えたことではないことは重々承知の上でラクアは言った。
「みんな良い人たちだったなぁ。今までずっと、勝手に私がみんなから目を逸らして、勝手に敵だと思ってた。――もっと早く気づいてれば……」
言い淀み、寂しげな笑みを浮かべるソフィはいつになく儚い雰囲気を放っている。ソフィのこれからがどれだけ華やかなものになろうとも、過去は消えない。積みかねてきた憂鬱の日を無かったことには出来ない。その事実がソフィの心に重くのしかかっていることが、ラクアには見てとれた。
「……これから取り戻していけばいい」
「……え?」
「ソフィが取りこぼしてきた時間も思い出も、あの馬鹿たちと一緒に一からかき集めていけばいい。今までの空白の時が、全て埋まるくらいにな」
いつのまにか二人は足を止め、向かい合って立っていた。
「そっか……そうだね。みんなと一緒に……」
胸の前でぎゅっと手を結びながら、ソフィは噛み締めるようにラクアの言葉を繰り返した。
「ありがとう……ラクアくん。私を助け出してくれて」
ソフィは泣きそうになっている顔をなんとか捻じ曲げて笑顔を作った。そのぎこちない笑顔を見て、ラクアは深く息を吐いた。
いじめの主犯だったローラは、学校から突如として姿を消した。その不自然な出来事は同じくソフィを攻撃していた者たちへの抑止力になったに違いない。ソフィへのいじめは間違いなく終わりを迎えるだろう。だがそれは矢の雨が止むだけの話であり、通常であれば突き刺ささった矢や傷がが消えるわけではない。
……通常であれば、だ。
ラクアは知っている。ソフィエル・ルナレインという少女の強さを。
「もう大丈夫か?」
分かりきった事を聞き返すラクアの口は自然と緩み、本人の意志と無関係に、ごく僅かだが穏やかな目をしていた。
「うん! だってラクアくん、言ってくれたよね。大切な人の為に生きろって……」
そう言いながら、ソフィは少し足を早め、ラクアより少し前に進み出た。そしてくるりと振り返ると、弾けるようにラクアに笑いかけた。その頬は微かに赤く染まり、少し潤んだ瞳にラクアが映る。
「私、――誰の為に生きるかは、もう決めたから」
銀色の光が照らす闇の中、あの日粉々に壊れてくすんでしまった蒼の宝玉が、満月に負けないほど煌びやかに輝いている。
その光景にラクアは思わず息を忘れ、心の奥底を照らすような輝きに目を奪われた。
――まるで自分が何者であるのかを忘れてしまうほどに。
今話で第一章は閉幕となります。
続く第二章の投稿ですが、多忙のため投稿ペースを少し落とさせていただくことになりました。
毎週金曜日の20時頃を予定しており、次話は一週間後の9月18日の20時頃に投稿予定です。
また、評価やブックマークを頂ければ大変励みになりますし、モチベーション次第で投稿頻度が再び上がることもあるかもしれません。これからも、激化していくラクアの物語をどうぞお楽しみください。




