⑥
確かに、それ自体はおかしなことではない。シャルロットだって知っている。
(やっぱり、常識とかはわかるのよね。ないのは私に関する記憶だけ……)
なんらかのきっかけがあったとして、こんなピンポイントに記憶を失うのだろうか?
小首をかしげると、手をぎゅっと握られた。
「本当にすまない。俺がもっとしっかりしていたら……」
苦悶の表情を浮かべる彼に、シャルロットは反応することができない。
(……記憶を失う前の私は、この人とどうかかわっていたんだろう)
シャルロットは傲慢だったという。もしかして、彼のことも見下していたのだろうか?
たぶん、傲慢な人間だったら彼を責めるべきなのだ。しかし、それはどうにもはばかられる。
迷った末に、シャルロットは目を伏せて首を横に振った。
「お気になさらず。私は大丈夫ですから」
静かに告げる。顔をあげた彼の瞳がシャルロットを射抜いた。
美しい瞳だった。吸い込まれてしまいそうなほどにきれいなのに、昏い色が見え隠れしている。
その昏い色が、彼の瞳の美しさを引き立てるのだ。
「……私には、今までの記憶がありません」
言葉をこぼす。ディートリクはなにも言わず、ただ言葉を待っていた。
「私が一体どういう人間だったのか。何者だったのか。生い立ちも、性格も、趣味嗜好も。私にはなにもわかりません」
自分のことがなに一つとしてわからないのは、気持ち悪くてたまらなかった。
「以前の私は傲慢だったのでしょう。使用人をいじめ、散財を繰り返し、周りを困らせていたはずです」
クローゼットの中の衣服は、すべて高級品だった。同時に、室内の家具も同様。これは相当お金を使ったに違いない。
「レノンから聞きました。あなたは周りから頼られる素晴らしい人なのだと」
「……そんな人間ではない」
「いいえ、少なくとも私よりはできている人だったはずです。だから、私は知りたいのです。――なぜ、あなたは以前の私と結婚したのですか?」
彼はシャルロットを『好き』だと言っていた。けど、それだけではないはずだ。
(貴族の結婚は恋愛感情だけで決まるものではない。家や領地にコネ。そちらのほうが重要だもの)
いくら彼がシャルロットに恋をしていたとしても。それだけで結婚が決まるはずがない。
「シャルロット」
「あなたは先ほど、私を『好き』だとおっしゃいました。ですが、それだけではないはずです」
儚く笑うと、ディートリクは悲しそうな表情を浮かべた。彼の表情に、シャルロットの胸が痛む。
悪いことをしているみたいだ。
「貴族の結婚とは、そういうものでしょう――?」
気づくと、強い力で抱きしめられていた。驚きすぎて、瞬きを繰り返す。
「……どうして、そんなことだけを覚えているんだ」
「それは」
シャルロットにもわからない。こんなピンポイントの記憶喪失など、自然発生するものなのだろうか?
「シャルロットが俺を愛してくれなくてもよかった。側にいてくれるのなら、それでよかった」
「……はい」
「だが、どうしてなんだろうな。ほかのことを覚えていて、俺のことは忘れているというのは――いささか、不快だ」
声のトーンが低くなった。背筋を震わせて、シャルロットは彼の瞳をじっと見つめる。
彼の美しい瞳に宿る仄暗い感情が、どんどん膨れ上がっていくのを肌で感じた。ごくりと息を呑むと、抱きしめられる力が強くなる。
骨が音を立てている。痛みと苦しみ、恐怖を与えてくる。
「――こんな限定的に忘れてしまうくらいなら、全部忘れてくれたほうがよかった」
耳に届いた小さな声に、シャルロットの心臓はきゅうっと締め付けるような痛みを感じた。




