六章 連なる決意 十八話
18、芍薬の場合
「・・・いかがされましたか、芍薬さま?」
風蘭たち反乱軍が襲撃してきたのは宵の刻。
ちょうどそのとき、芍薬は自室にはいなかった。
彼は、妃の一人である薄墨の室にいた。
床で寝るわけでもなく、ただ黙って薄墨の室でおとなしく彼女が出したお茶を飲んでいた彼がふと顔を上げたので、薄墨は小さく彼に問い掛けた。
「芍薬さま・・・?」
鋭い眼差しで室の外を睨み付ける彼が、何を見ているのかは薄墨は知らない。
けれど、朝廷内が騒いでいるように、後宮内もたったひとつの話題で常に持ちきりだった。
反逆者、風蘭の話題で。
恐れる者、不安に思う者、期待する者、抱くものはそれぞれ違えど、風蘭たちがいつこの水陽を襲撃してくるのかを人々はじっと様子を見ていた。
だから、こうして芍薬が何か、望まぬものを迎え入れたかのように朝廷の方向を睨み付けるのを見て、薄墨は気づいていた。
風蘭軍が夜襲してきたのだと。
きちんと耳をすませば、朝廷からの喧騒もわずかに聞こえる。
まだ、遠い。
こちらに来るにはもうしばし時間がかかる。
「芍薬さま。明日もお早いのですから、もう床に入りましょう?」
何でもないふりをして薄墨がそう言うと、芍薬はやっと顔を彼女に向け、そして苦笑した。
「わたしに『明日』はあるかな」
「芍薬さま」
「・・・薄墨、わたしは君に言っておきたいことがあったんだ」
「どうしたのですか、改まって・・・・・・。お話ならこちらでうかがいますよ?」
すでに寝台で彼を待つように腰かけて、彼女はそう答える。
室外の喧騒を無視して。
彼を危険の中に向かわせたくはないから。
そうしてしまったら、きっと・・・・・・。
「いや、ここで話すよ。薄墨はそこにいればいい」
芍薬は、薄墨の気遣いに優しく笑って答える。
彼は、そんな彼女に伝えておかなければならなかった。
きっと彼女は、勘違いをしたままだから。
「わたしが君を妾妃に迎え入れたのは、君が双一族だからではないのだよ、薄墨」
「え・・・?」
突然の話に驚く、予想通りの彼女の反応を見て、思わず笑みを浮かべてしまう。
「君がわたしと似ていたから。だから、わたしは君をここに迎え入れたのだよ」
「どういう・・・・・・ことですか・・・?」
「君もわたしも、叶わない場所に手を伸ばしていたから」
その一言で彼女はわかったのだろう。
ぴくりと表情を変えて、少し悲しげに俯いた。
そんな彼女を見つめながら、彼は思い出す。
彼女を後宮で見つけたときのことを。
第一公子でありながら、妾妃の公子であるがゆえに、不確かな玉座を望んでいた芍薬。
その傍らで、玉座など気にも留めていない風蘭が、羨ましかった。
なぜ、正妃の公子でありながら、ああも無欲で野望もなく、笑っていられるのだろう。
彼が抱いているのは、朝廷を洗い直せという夢物語だけ。
一番現実的な玉座には、一番消極的に見えた。
なぜ、こんなに違うのだろう。
どろどろと渦巻くような暗い感情が襲いかかってくるのを隠すだけで、芍薬は精一杯だというのに。
そんな暗い感情すら無縁のように見える風蘭は、それは彼自身が立っている安定した地位ゆえか。
正妃の公子、桔梗の子、ただそれだけで、人々は頭を下げる。芍薬には持ち得ないもの。
第一公子という立場以外には、何も。
そんな嫉妬にも似たような感情をもて余していたときだった。
芍薬の衣女として配属されてきた、薄墨と出会ったのは。
芍薬や木犀、風蘭に専属で仕える女官たちは、少なからず妾妃として召し上げられることを望んでいる者が少なくない。
ああにもこうにも尽くして気に入られて、好意を持ってもらおうと必死な様子が窺えてしまう。
薄墨もまたそんな女官のひとりだったのだが、その野心剥き出しな態度と、周りの女官たちへの牽制が激しく、一際目立っていた。
そんな薄墨が桔梗と同じ双一族と聞いて、芍薬は二重に驚いた。
純粋に桔梗と同じ一族であることと、なにより、双一族はあまり女官出仕に積極的ではない一族であったから驚いたのだ。
それでも、薄墨の気高い矜持と気品は、やはり桔梗を思わせるところがあった。
だが、数多仕える女官の中で薄墨に手を出したのは、彼女が桔梗と同じ一族だからではなかった。
彼女が彼と似ていたから。
彼が風蘭を羨み嫉妬するように、彼女は周りの出世していく女官を羨み、嫉妬していたから。
他の女官たちよりも高く上を目指しているように見えたから。
けれど、芍薬が風蘭のように安定した地位に手に届かないように、分家の娘である薄墨が本家の姫と同じにはなれない。
ふたりとも、叶わぬ望みに手を伸ばしていたから。
だから、芍薬は薄墨を選んだ。
「薄墨、逃げなさい。逃げて、双一族の屋敷に戻るんだ」
「え・・・・・・?」
「ここはやがて戦火に見舞われる。・・・わたしは、決着をつけなければ」
「それで、なぜ双一族の屋敷に戻らねばならないのですか・・・!!まるで・・・・・・まるで・・・」
芍薬は戦いに敗れ死んでしまうかのように。
「心配はいらない。後宮内が落ち着いたら必ず迎えに行くから。紫苑にも同じことを伝えたのだよ」
「紫苑姫にも・・・」
「だから、待っていていればいい。安全な場所で」
「芍薬さま・・・・・・」
この状況下だというのに、彼はにこりと優しく微笑むと、立ち上がって扉に向かった。
その向こうの戦場に向かうために。
「お茶、おいしかったよ。また淹れてくれ」
「・・・はい」
「じゃぁ、いってくる」
「・・・・・・ご武運を・・・・・・」
消え入りそうな小さな声で薄墨がそう言ったのを背中で聞きながら、芍薬は室を出た。
向かう先は、おそらく風蘭も向かっている場所。
そしてきっと、そこには執政官、蠍隼 蘇芳もいるはずだ。
まだ襲撃は始まったばかりのようで、喧騒は遠い。
芍薬は目的の扉を開け、中を見渡した。
玉座がある、政堂の中を。
薄暗い政堂の中を照らすのは、窓から洩れる月明かりだけ。
下弦の月の今夜は、その光も弱々しい。
決してここが好きではなかったはずなのに、まるで愛でるように芍薬はひとつひとつ灯りをつけていく。
王となり、玉座を得ても、芍薬は何も満たされなかった。
何一つ、望んでいたものは手に入らなかった。
王となってもなお、遠く理想に駆ける風蘭を羨んでいた。
もしかしたら、風蘭が桔梗の子であるから羨ましいのではなく、風蘭が風蘭らしくあることが、羨ましかったのかもしれない。
何にも流されず、屈せず、己の信念を貫く姿勢が。
だからこそ、風蘭に惹かれ集う者たちがいた。こうして軍をつくるほどに。
星華国をいい国にしたい。
そう思う気持ちは、芍薬にもあったのに。
「・・・思うだけでは・・・だめだな」
自嘲するように笑い、ゆっくりと玉座に続く階段を昇る。
この玉座に座るようになって1年が経とうとしているのだと気付く。
幼い頃からたったひとつの望みであるかのようにすがっていた玉座を得て、芍薬は何か変わったのだろうか。
否、変えられたのだろうか。
すとん、と彼は玉座に座り、誰もいない、がらんとした政堂を眺める。
いつもここに座れば、横に蘇芳がいた。
政堂に集う官吏たちは、芍薬ではなく蘇芳を見ていた。
芍薬は、まるでその場にいない影のようだった。
いてもいなくても等しい存在。何一つ、意見など聞き入れられない、執政官の独裁場。
「居心地が悪い」
そう言っていた父王芙蓉も、蘇芳の独裁ぶりに辟易していたのだろうか。
だが、父王と同じ立場になり、同じ目線で見るようになって、芍薬は時々思う。
芙蓉は、もっと何か大きなものを抱え、芍薬たちには考えもつかないほど先の先を見越していたのではないかと。
賢妃と名高い桔梗が、膝をつき頭を下げ、敬い続けた父王。
彼は、みなが言うような愚王ではなかったのではないか。
・・・・・・今となってはそれを確かめても仕方のないことだが。
ゆったりと芍薬は玉座に深く座り込む。その傍らの空席に目をやり、ふ、と苦笑を漏らす。
王妃の席。一度も並んで座ることのなかった席。
紫苑はまだ幼さの残る姫だが、頭はいい。
嫁ぐ王が違えば、もっとその秘めたる能力が発揮されたことだろう。
彼女が、芍薬ではない誰かを想っているのは薄々感じていた。
だから、彼は彼女に手を出せなかった。
どこかでわかっていたのだ。いつかこういう日が来ることを。
風蘭が逆賊になったと知らせを受けてから?それとも、風蘭が冬星州に行ったときから?
いや、おそらく彼が芍薬に公の場で膝をついたときからだ。
「・・・第28代星華国王・・・・・・か・・・」
自らに確認するかのように呟く。ひとり静かに。
すると突然、ギギッと政堂の扉が開く音が響いた。誰かがこちらに向かって来る。
それが誰なのか、彼は確かめるまでもなく、わかっていた。
「夜分にこのような場にどのような用件だ、蠍隼執政官?」
しばらくの沈黙。
やがて、くぐもった笑い声が響いた。
「あなた様こそいかがされました、陛下?朝儀はとうに終わっていますよ?」
「聞いているのはわたしだぞ、執政官。それとも、答えられぬ理由でここに来たのか?」
「これは失礼いたしました、陛下」
灯りのついた政堂は、昼間のように明るい。何かを企んでいるかのように笑う蘇芳の顔がよく見える。
「わたしはある方を待っているのです。今夜、ここに来るはずなのですよ」
「それは奇遇だ。わたしも人を待っているのだ。・・・・・・っっ」
立ち上がろうとした芍薬を襲った突然の目眩。
よりによって、こんなときに・・・・・・!!
「いかがされました、芍薬陛下?」
「大事ない、いつものことだ」
力のない声で芍薬は答える。
そう、いつものこと。
玉座に座るようになり、度々目眩や倦怠感に襲われるようになった。
ひどいときは起き上がれないこともあった。
日に日に弱っていく自分の身体が、まるで病弱だった芙蓉と重なるようで、彼は怖かった。
心配になり、筆頭侍医である長秤 南天に相談すると、彼は心労が身体に負担を与えているのだと言った。
玉座が、芍薬を蝕んでいくのだと。
ぐるぐると目眩で回る視界を、強く目を瞑ることによって、なんとかやり過ごそうとする。
こんなところで、倒れる訳にはいかない。
今は。
「芍薬陛下?お加減が優れぬようであれば、後宮でお休みになられてはよろしいかと存じますが」
言葉だけ聞いていれば、芍薬を労るかのような蘇芳の台詞も、冷たく無感情に淡々と告げられればそうは聞こえぬのだから不思議である。
思わず、芍薬は喉奥で笑ってしまう。
「芍薬陛下?」
「そうして父のようにわたしを後宮に押し込めて、おまえひとりの政を行うつもりなのか、蠍隼執政官?」
「おっしゃる意味がわかりませんが?」
「そのままの意味ではないか。玉座の横で・・・王の隣に立ちながら、おまえはこの座を望んでいたのだろう?」
傲慢なほどの態度で、芍薬は蘇芳を見下ろす。
蘇芳の表情は少しも変わらぬ無表情だったが、芍薬にとってはどうでもいいことだった。
さらに彼は蘇芳に言い捨ててやる。今までの鬱憤を晴らすかのように。
「残念だったな、執政官?貴族の身分での最高位は、執政官、もしくは星官までだ。この座に座ることを許されているのは、我々獅一族だけだ」
「・・・えぇ、存じ上げておりますとも」
子供をあやすかのような小馬鹿にした口調で、蘇芳は静かに返してくる。
だが、そんな蘇芳の態度も気に留めず、芍薬は問い掛ける。
まだおさまらぬ目眩を堪えて、ゆっくりと瞼を開き、蘇芳を見据えて。
「蠍隼 蘇芳。おまえに聞きたいことがあったのだ」
「・・・なんでしょうか」
「これには何の根拠もない。ただのわたしの勘だ」
「何のお話かわかりかねますが?」
「本当にそうか?もはや、わたしが何を問いたいかわかっているのではないか?」
芍薬が薄く笑えば、蘇芳は不敵に笑い返してくる。そして、芍薬は彼に尋ねた。
「霜射元民部長官の殺害、蠍隼 蘇芳、おまえが一枚噛んでいるな?もしくは、おまえがどこかの兇手に命じたか・・・・・・」
「これはこれは・・・。何の証拠もなく何をおっしゃいますやら?」
「言ったろう?これはわたしの勘だと。ただ、おまえにとって、あの頃の民部長官は邪魔だった。当時の民部長官は祖父王同様、華美な生活にどっぷり浸かっていた。おまえはそれが邪魔だったのだ。違うか?」
くくくっと笑い、芍薬は蘇芳の返事を聞かずに話し続ける。
「民部長官の死を謎めかせて、目障りだった風蘭を冬星州に追いやり、謀反を起こしたとなれば、風蘭の護衛である連翹を民部長官殺害の嫌疑で捕えた。その隙に風蘭を始末するために。霜射元民部長官は、生きているときよりも死んでからの方がお前の役に立ったようではないか?」
芍薬が話している間、蘇芳は何も言わない。じっと彼の言葉を聞いているだけ。
「ただの好奇心だと思ってくれても構わないさ。なぁ、蠍隼 蘇芳、おまえは本当は知っているのだろう?霜射元民部長官を殺した相手を」
芍薬の問いに、蘇芳は即座に答えなかった。
だが、やがてその重い口を開き、答えた。
「・・・えぇ、存じ上げておりますよ」
「そうか。ならば、教えてもらおうか」
そう応じたのは芍薬ではなかった。芍薬の視線の先、蘇芳の背後に、その声の主はいた。
政堂の扉すぐ近くに。
芍薬と蘇芳の待ち人が。
「・・・風蘭・・・・・・」
「・・・お久しぶりです、芍薬兄上」
屈託なく笑うその笑顔は、芍薬の知る風蘭の笑顔だった。
だが次の瞬間、風蘭の表情は一変し、鋭く芍薬を見上げ睨んだ。
「その玉座をいただきに来た、芍薬王」
それは、兄と弟ではなく、玉座を守る者と奪う者の立ち位置で。
再会したふたりは、ただ沈黙して睨み合った。
なんだかんだと、彼は結構かわいそうな立場なんですよね・・・(汗)
彼の心情を描くのは、割と共感できるところもあったり、人間臭さがあったりして、風蘭のバカ正直な性格よりももっと繊細な感じがあって切なくなります。
さて、終わりがもう見えてきました。
どうやら8月中には第一部の連載を終えることができそうです。