六章 連なる決意 十七話
17、槐の場合
それは、幼い頃からの夢と誇りだったのに。
そのために、どんな辛い教育でも耐えてきたのに。
それなのに、一瞬で奪われた。
呆気なく。
「槐さま、お早く」
槐付の女官が、焦った様子で彼女を促す。
「・・・木犀さまはどこに?」
「もうすでに、お逃げになっていらっしゃるのではないかと・・・・・・」
「・・・そう」
やはり、こんなときは見捨てるのか、あの男は。
自嘲的な笑みを浮かべ、槐は女官に促されるままゆらりと立ち上がる。
「・・・結局、己だけがかわいかったのだ、あの男は…。そんな男に、わたくしは汚されて・・・」
先王第3公子の襲撃により、後宮が火に囲まれつつあった。
奇妙な話だが、襲撃してきたその敵軍が避難経路を開き、誘導していた。
それでいて避難してきた王族貴族を捕縛している様子もない。
彼らの目的はわからずとも、とりあえず命の危険はないと判断した後宮女官たちは、彼らに従った。
誘導する軍のほとんどが女人であったことも、疑惑が薄れた要因のひとつかもしれなかった。
そうして逃げ惑う後宮内で、それぞれ王族付の女官たちは、彼女たちの主を無事に避難させようと、必死に役目を果たそうとしていた。
そしてそれは、先王第2公子、木犀の妃である槐付の女官たちも同じであった。
しかし、どうしたわけか、槐はすぐさま逃げようとはしない。ぶつぶつと何やら病的に呟きながら、緩慢な動きで女官にされるがままになっているだけだ。
だが、槐付の女官たちには慣れたことだった。
もともと槐は、王妃となるための妃審査の審査途中に、木犀に見初められ妃となったのである。
気位が高く、貴族本家の姫としての矜持も高い彼女が、己の意志とは異なるところで強引に妃審査から降ろされたことは、彼女を支えていた何かを壊したようであった。
そして、彼女はぶつぶつと木犀への恨み言を呟くようになった。
仮にも王族の妃である槐を蔑ろにするわけにはいかず、女官たちは必死に彼女を慰めたり宥めたりした。
だが、芍薬王と女月貴妃のように、顔を合わせることもない夫婦ではなかったのだ。
木犀は女官たちが感心するほど、マメに槐の室を訪れた。
しかし、当の槐は気分によって室に招き入れて短い会話を交わすこともあれば、入室すら拒むこともあった。
それでも木犀は嫌な顔ひとつせず、何度も何度も槐の室を訪れた。
しかし、そうまでされても、槐が心に負ったものは、拭いとることはできなかったのである。
慌ただしく槐の室から逃げる用意を整えた女官たちは、槐を挟むようにして回廊に飛び出した。
夏の暑さとは違う熱気が、ねっとりと彼女たちに襲いかかる。
それにぞっとしながら、避難しようとした彼女たちに声がかかった。
「・・・槐!!」
振り返れば、汗を流しながら必死の形相でこちらを見つめる木犀の姿があった。
「・・・木犀・・・さま・・・」
何の感情もない冷たい声色で、槐は彼の名を呼ぶ。
「よかった、これから逃げるのだな」
・・・そう。一応は夫として槐の様子を見に来たというのか。
それとも自分だけ助かって、槐だけが後宮で逃げ遅れてしまっては、周りへの体裁が保てぬと思ってのことか。
冷ややかに木犀を見返すと、槐はおろおろと為す術もなく立ち尽くしている女官たちに言った。
「あなたたちは先にお逃げなさい」
「え・・・それでは、槐さまは・・・?」
「あとから参ります。木犀さまと共に」
空々しい笑顔で槐は答える。
それが、この緊急事態にはそぐわないほど悟り切った穏やかな笑みで。いっそそれが恐ろしくすら感じてしまう。
「さぁ、行きなさい」
にこやかに再度そう促され、槐付の女官たちは一瞬の躊躇いの後、最後にはふたりに礼をして足早に避難していった。
「槐?俺たちも急がないと・・・」
避難した女官たちの背中を見送ったまま身動きひとつしない槐に、木犀が呼び掛ける。
そして、彼が彼女を連れていくためにそっと手をとると、瞬間、強い力で弾かれた。
「・・・触らないでくださいっっ・・・・・・」
それは、先ほどまで柔らかく笑んでいたはずの槐。
今は、狂気すら感じられる目で、木犀を睨み付けている。憎しみを込めて。
「・・・すまない・・・・・・」
そっと自らの手を退かせた木犀に、槐が笑い声をあげる。狂気に満ちた、高笑いを。
「すまない、ですって?わたくしはこんなことを謝っていただきたいわけではありません!!いいえ、もはや謝っていただいても、すでに手遅れ!!何もかもが手遅れなのですよ!!」
「・・・あのときの過ちが槐をひどく傷つけたのはすまなかったと・・・」
「過ち?出来心でしょう?あなたにとってはお戯れの一度に過ぎずとも、わたくしにとっては、夢も希望も未来さえも奪った一度なのですよ!!」
「・・・わかっている・・・。槐が俺ではなく、芍薬兄上の・・・王の妃となるがためにここに来たことは・・・・・・。だが、あのときは、知らなかったのだ。知っていたら・・・」
「知っていたら手を出さなかったと?それは結果論ですわ、木犀さま。あなたが女遊びの一環として女官の一人をお選びになるのと、わたくしをお選びになるのは、たいした差はなかったのでしょうから」
「女遊びをしていたわけではっっ・・・・・・」
冷ややかに告げた槐の一言に、木犀が反論をしようと口を開く・・・が、そのまま彼は口を固く閉ざしてしまう。
「・・・それに、俺も王族のひとりだ。王族の妃には貴族の本家の姫しか認められていないのだから、槐の一族への立場は守られただろう?」
「それで・・・わたくしが納得をすると・・・!!」
ふつふつと再び怒りが沸き上がっている様子の槐に共鳴するかのように、ふたりが立つ回廊に、さらなる火の熱気が襲いかかってくる。
もしかすると火の手がすぐそばまで来ているのかもしれなかったが、今の槐にはどうでもいいことだった。
「槐、今は急がなければ・・・」
「・・・・・・なぜですか・・・」
「・・・え?」
「なぜ、あなたはわたくしをお叱りにならないのです?!」
触るなと告げたはずの槐が、木犀の衣服にしがみつくように掴みかかってくる。
彼はあえて為されるがままになって、槐の言葉に耳を傾けた。
「なぜ、勝手なことばかり言うわたくしをお叱りにならないのです?!木犀さまの・・・王族の妃となってもなにひとつ務めを果たそうとしないわたくしをっ・・・・・・!!」
「槐に無理強いできるようなことは、俺にはなにもない。俺は、槐から一番大事なものを奪ってしまったから・・・」
「・・・っ。それでも、命令してしまえば、わたくしは従うしかないのにっ・・・・・・。こうして後悔して恨み言を連ねて、あなたを責めているだけなら、いっそ冷酷に命令してくだされば、一点の迷いもなく憎めるのにっっ・・・・・・」
「・・・・・・槐・・・」
「あなたはずるいっっ・・・!!そうして中途半端な態度でわたくしを苦しめて、あなたは自分を守っているだけではありませんかっっ・・・!!」
半狂乱になって、槐は木犀を責める。
それは、槐が木犀の妃となって初めてのことだった。
今までは、ただ無言を貫き、冷ややかな視線で彼を睨み付けているだけだった。
こうして感情を爆発させ、彼への恨み言を喚くのは、初めてだった。
「・・・すまない・・・」
それしか言わない木犀が、槐はなおさら気に食わなかった。
謝れば許されるわけでも、逃げられるわけでもないのに。
それなのに、何度も彼は彼女に誠実であろうとするかのように優しくするから、槐は自分の気持ちをどう扱っていいかわからなかった。
この第3公子風蘭の襲撃があったところで、槐は木犀と共に逃げようとも思いもしなかった。
風蘭の考え方に賛同しているわけでも、芍薬に味方しているわけでもない自分。
そんな自分が、逃げて、どうしようというのだろう。
では、木犀は・・・・・・?
「・・・わかっておられますか、木犀さま・・・」
先程のように半狂乱に叫ぶのではなく、今度は水を打ったかのように静かに、不気味なほど冷静な声で彼女は彼に問い掛ける。
「あなたもわたくしも、この後宮では、いてもいなくても同じ『不要なもの』なのですよ」
それは槐が想像していたよりも深く鋭く木犀を傷つけたようで、顔を歪ませ見たことないほど傷ついた表情を浮かべた彼を見て、彼女は喜びすら感じた。
どうしようもなく歪みきってしまっているのだと自覚ができても、槐は、さらに彼を傷つけるために言葉を紡ぐ。
もっと、もっと傷つけばいい。苦しめばいい。
わたくしがそうだったように、あなたも絶望を知ればいい。
「あなたもわたくしも、どちらも中途半端な立ち位置。芍薬陛下に必要とされるでもなく、風蘭さまに付く度胸もなく。ただ後宮でのうのうと過ごすだけ。わたくしもあなたも、ここに必要でしょうか?誰に必要とされているでしょうか?妾妃の公子で、第2公子である木犀さまが、後宮で・・・・・・朝廷で必要とされていますか?」
槐の容赦ない言葉の攻撃が終わるかどうかの刹那、彼女は右頬に焼け付くような痛みを感じた。
目の前にいる木犀に叩かれたのだと気付くのに、少し時間がかかった。
見れば、彼は苦痛と激昂を押さえつけるかのような複雑な表情を浮かべている。
「・・・わかっている・・・っ。芍薬兄上には必要とされず、風蘭のように蘇芳と対峙するだけの度胸もない。俺にはどうすることもできないんだ!!父上のように、ただ後宮に引き込もって1日を過ごすしかないんだ」
「・・・あなたがそうして拗ねながら後宮でのんびりと過ごす傍らで、汗水流して働く者たちがいたとしても・・・ですか?」
「・・・それが格差というものだろう。11貴族とて、俺と違うとは言わせない」
「・・・そうですわね。貴族もまた、民が汗水を流して働くのを眺めているだけですわね」
「・・・なにが言いたい?まるで風蘭のような物言いだな」
「いいえ。事実しか述べておりませんわ。わたくしは、民と貴族に格差があることは、当然だと思っておりますから」
「当然・・・な・・・・・・」
ふたりを取り巻く熱気が増す。
火はすぐそばまで来ているのかもしれなかった。だが、槐は急いで逃げようとは思わない。
このまま逃げ遅れれば炎に飲まれて死ぬかもしれないのに。
けれど、こんな緊迫した状況の中、加えて、木犀の逆鱗に触れ、険悪な雰囲気になっていても、なぜか槐の心はかつてないほど穏やかだった。
なんだか、なにもかもを受容してしまうような、そんな気持ち。
複雑な表情を浮かべ、王族貴族と民の格差を告げる木犀の言葉には、たしかに槐は同意していた。
槐もまた、生まれた家によって、辿る運命が異なることは仕方のないことだと思っている。
どんなに民が貧困に喘ごうと。
それは、そこに生まれたその民の運命なのだ。仕方ない。
だから、貴族本家の姫として生まれた槐は、なにもかも恵まれた運命を辿るのだと信じて疑わなかったのに・・・・・・。
木犀と話していて、穏やかな気持ちになった槐は、静かに笑った。
何かが彼女の中で終わった。
「・・・これまで、ですわね」
「・・・なんだって?」
「あなたもわたくしも、ここで果てても誰も困りません。あなたもわたくしも、誰からも必要とされない運命なのですから」
「なにを言って・・・・・・っっ」
彼の言葉は最後まで続かなかった。続けられなかった。
あまりの衝撃で。
木犀の顔が苦痛に歪む。
それを見守りながら、槐は一層、穏やかに微笑む。
狂った瞳で。
「・・・え、槐・・・・・・」
回廊の床に、ぽたぽたと赤い染みが増えていく。
よろける木犀の腹に深々と刺さっている短刀。
「槐・・・・・・何をするんだ・・・・・・」
その短刀を握る槐を彼は見下ろす。彼女の微笑みが、ぞっとするような恐怖を運ぶ。
「大丈夫です。あなたおひとりでは逝かせません。わたくしももう、こんな日々は耐えられない。けれど、こんな日々を招いたあなたを許すこともできない。ですから、共にここで果ててくださいませ」
何度も何度も、本気で死のうと考えた。
その度に女官に止められ、彼女の周りを囲う女官が増えていった。
誰にも必要とされていないのに、それでも生き恥をさらせというのか。
この屈辱を抱えて。
その思いは、槐の心を容赦なく蝕み、そして、こんな形で現れた。
突然槐の懐刀で刺された木犀は、痛みと混乱で呆然としている。
そんな彼の反応を見ながら、槐は力一杯、彼の腹に刺さった刀を引き抜いた。
おびただしく流れる血。彼が痛切に叫ぶ。
それを楽しそうに見届けてから、彼女は再度深く彼を刺し、抜いた。
床に真っ赤な水溜まりができあがる。槐の絹の衣も紅く染め上がる。
それから何度刺されても、木犀は逃げることも、槐を止めることもなかった。
ただ、苦痛に叫びをあげるだけ。
やがて、その叫ぶ気力すら失い、がっくりと床に膝をついた彼を見下ろし、彼女は初めて尋ねた。
「なぜわたくしからお逃げにならないのです?」
彼は、虚ろな瞳で彼女を見上げ、口から血を流しながらも答えた。
「・・・・・・もう、いいと思ったから・・・・・・。槐の・・・言うように・・・俺はいなくても・・・・・・いいから・・・」
「そうですわね。あなたもわたくしも不要な存在」
「・・・・・・いや。槐・・・俺は・・・・・・君を必要としていたよ・・・」
「何を・・・」
「許してもらおうとは・・・思わない・・・。けれど・・・・・・夫婦として話していくうちに・・・君を愛しいと・・・君がいればこの苦痛の日々を耐えてもいいと・・・・・・思えたのだ・・・」
「・・・勝手な言い分ですわ」
「・・・そうだな・・・・・・。すまない・・・槐・・・」
それだけ言うと、木犀の体が回廊の床に横たわった。
それを冷ややかな瞳で見届ける槐。
「わたくしが必要だったですって?愛しいですって?それは勝手な言い分ですわ」
そして、手に持っていた刀を見つめる。
木犀の血で汚れた刀を。
「・・・まぁ、それでも、もう、許して差し上げましょう」
それは、泣き笑いのような笑みで。
小さく呟く。
「ごめんなさい」と。
そして首に刀を当て、彼女は強くそれを引いた。
血飛沫をあげて、ゆっくり崩れ落ちる体。
それは、偶然にも木犀の横に横たわり、まるで寄り添い合っているかのように見えた。
真っ赤な回廊の床に横たわるふたりに、真っ赤な炎が襲いかかる。
それでも、ふたりは静かに寄り添い合っていた。
今回の話は、賛否両論になるかと思います(汗)
ですがこれは、このふたりを登場させたときから、考えていたので・・・(汗)
ここには載せないと思いますが、第二部で補足はする予定ではいます。




