一章 始まりの宴 五話
5、沙雛
「・・・では、行ってまいります」
夏の暑い日。
木蓮が住み慣れた璃暖から旅立つ日がやってきた。
その日が訪れるまでは、毎日不安と期待を繰り返し続けていた。
幼い頃から願い続けていた朝廷へ出仕できることへの期待。
病の父を残し、住み慣れたこの地をひとり離れなければならない不安。
書斎で本を開いても、その内容が頭に入るのに、ずいぶんと時間がかかっていた。
そんな様子を見るに見かねて、イライラした様子でそれを指摘したのが梅だった。
「木蓮、勉強に集中できないなら、ここに来るな」
ぴしゃりとそう言われ、木蓮自身もそれに気付いていただけに、恥じ入ったようにしょんぼりして謝った。
「ごめんなさい、梅おじさん・・・。もうすぐここを離れるんだと思うと不安で・・・」
「なにを今更不安に思うことなんざあるんだ?お前は逃げるためにそこへ行くんじゃない。つかむべきものをつかむために行くんだ。そうだろう?」
木蓮は梅のその力強い言葉に瞠目し、そしてすぐに笑顔を見せた。
「そうだね、そうだったよ、梅おじさん。僕は、僕のすべきことをするために行くんだよね」
朝廷に出仕することが目的ではない。
目的はさらにその先にある。
璃暖を離れることへの不安なんて、たかだか少し先のちょっとした一時的な感傷でしかない。
こんなとき、木蓮はいつも梅を尊敬せずにはいられない。
心を油断させているときは、ぴしゃっと厳しい一声をかけるのに、こうして不安で不安で仕方ないときは、見失いそうな希望をもう一度見せてくれる。正しい道標を示してくれる。
梅ほど、人の心を読み上げて、その人の持つ力を引きあげる術を知る人はいないだろう、と木蓮は思っていた。
それほど、彼はこの老人に信頼を寄せていた。
11年前に出会ったときのまま、彼の何の素性も知らないというのに。
「梅おじさん・・・・・・」
沙雛に向かう馬車に乗りながら、木蓮はつぶやく。家族もいない、さびしい老人。
出仕が決まってから、一度、木蓮は梅に提案したことがあった。
梅も、羊桜の屋敷で暮らさないか、と。
両親も来るもの拒まずの性格なので、梅を喜んで招き入れるだろうと思っていたのだ。
だが、梅の反応は木蓮が想像するよりも厳しかった。
「俺の素性も知らないくせに、簡単にそんなこと言うな。俺が殺人鬼だったらどうするんだ。おまえの大事な両親を殺すかもしれないんだぞ」
思いもよらない剣幕に、そのときの木蓮は返す言葉がすぐに見つからなかった。
「そんな・・・梅おじさんが、そんな、こと、するわけない」
「おまえが俺のなにを知っているというんだ?俺の姓も知らず、俺の職も知らず、俺の過去も知らず。それで、木蓮、おまえは俺のなにを知ってるんだ?」
厳しいその言葉とは裏腹に、梅の表情はまるで泣いているように悲しそうだった。
「僕は、『今』の梅おじさんを知っているよ。おじさんは、そんなことしないって僕は信じてる」
そう言った木蓮に、梅は何も言わなかった。
ただもう一度、「それはできない」と、木蓮の申し出を断っただけだった。
過ぎ行く見慣れた町並みを馬車の窓から見ながら、木蓮は考えていた。
梅が自分のことをあんな形とはいえ、語ったのは11年間一緒にいてこれが初めてだった。
彼は、なぜあんなにも孤独なのだろうか。
過去になにがあったのだろうか。
誰も寄り付かない屋敷。
名乗りたがらない姓。
いったい、彼の過去になにが?
木蓮を乗せた馬車は、璃暖を離れ、州都 沙雛に向かっていた。
こじんまりとした町の璃暖とは違い、活気と華やかさを併せ持つ都、沙雛。都の中心を流れる大きな澄んだ川、あちらこちらにある季節ごとに花咲かせる花たち。もしも、天国という世界があるのだとしたら、きっと沙雛が一番それに近い都であろう、と誰もが言うだろう。
それほど、沙雛は誰にも汚されることなく、のびのびとした美しい町だった。
その平和を保ち、民たちを守り続けているのが、春星州の州主、桃魚家だった。
間違えなく王都 水陽よりもはるかに栄え、輝き、安定しているにもかかわらず、この州の人々はみな、王族への絶対忠誠に逆らうことは無かった。
それはやはり、この州を治める桃魚家の手腕と断言してもよかった。
春星州では、その仕えるべき主君のもとへと出仕するために州を離れるときは、必ず州主である桃魚家へ挨拶することになっていた。
木蓮も、水陽に向かうための挨拶をするために、沙雛へと向かっていた。
朝一番に璃暖を出発したというのに、沙雛に到着したのは、夕刻の頃だった。だが、木蓮にとっては、それはたいした問題ではなかった。
いよいよ、始まる。
漠然と、そう思った。
桃魚本家の前で止まった馬車を降り、彼は門番に取り次いだ。するとすぐに、屋敷から本家当主が現れた。
「遠いところからよく来ましたね」
人のよい笑顔で、当主は木蓮を向かい入れた。
桃魚 華鬘。
歳は50に届くか届かないかの年齢なのだが、その柔和な雰囲気と頭の先から足のつま先までの完璧な身だしなみのせいで、実年齢よりも10は若く見せていた。
未だに奥方のいない、少しもの寂しさを感じさせる屋敷の主人は、細い目をさらに細くさせて笑い、木蓮と共に屋敷の中に入った。木蓮はがちがちに緊張した顔を無理やり笑顔にして、華鬘と他愛ない話を交わした。
お茶が出てくると、華鬘はそれを一口すすり、向かいに座った若者に声をかけた。
「さて、羊桜 木蓮殿。これから水陽へ出仕のために向かわれるということですが」
本題に入った華鬘の話に、木蓮は居住まいを正した。
「はい。幼い頃から、朝廷で文官として出仕することを目標としてきました」
先ほどまでのおどおどした青年とは打って変わり、その言葉を発するときの木蓮の決然とした態度に、華鬘は一瞬瞠目した。
「なるほど。では、木蓮殿が所属される予定の采女所が、朝廷での地位が低いことも、覚悟はできているのですね」
「はい」
木蓮の答えに、満足に何度かうなずくと、華鬘はさらに、言葉を続けた。
「それでは、いまからわたしがいくつか質問をいたします。それに答えることができれば、水陽への出仕の推薦状も添えましょう」
兄2人もこの関門を突破したのだ。ここで立ち止まるわけにはいかない。
木蓮は無駄に力を入れて、華鬘の言葉にうなずいた。
華鬘からすれば、ここまで警戒されてしまうと、少々やりづらい。
今までこうして何人もの若者に簡単な『試練』を課してきたが、どの者も、飄々としていて、まるで世間話をするかのようにこの質疑応答も終わってしまった。
もとより、華鬘はそれでいいと思っているのだ。
ここで確かめたいのは、最低限の教養の確認と、王への忠誠があるかどうかの確認。
それ以上は期待していない。あとは、現場で本人たちががんばるしかないのだ。
けれど、どうしたことか、目の前の若者は、まるで一世一代の難関に挑むかのように、がちがちに緊張して目にも肩にもあちこちに無駄に力をいれてしまっている。
これでは、彼本来の姿を見ることができない。
だが、今の華鬘がどう声をかけても、彼の緊張がほぐれることは無いだろう。
この青年にとって、華鬘は『春星州州主 桃魚 華鬘』でしかないのだから。
「では、最初に。この国初代王、獅 牡丹王について、知りうることをお話しください」
木蓮は、一呼吸して、答えた。
「獅 牡丹王は、かつて12の国に分かれていた星華国をひとつの国にまとめあげた王です。12の国を1つの国に、そして4つの州に分け、12の国の国主たちを朝廷に招き入れました。獅家を王族として頂点に、11の国主を11貴族として位置づけ、星華国の運営に共に携わる同胞とされました」
そうして、300年経った今、この星華国がある。
今までの者たちと変わりのない答えを返してきた木蓮の答えに、とりあえず華鬘も黙ってうなずく。
だが、木蓮はまだ言葉を続けた。
「そうして国を1つにされた牡丹王ですが、陛下にはもうひとつの事実があり・・・・・・」
木蓮が言った『事実』に、華鬘は思わず顔色を変えた。
この『事実』を知る者は本当に少ない。
牡丹王の子孫である王族の中でも、知る者はごくわずかであろう。
それを載せている資料が限られた数しかないのだ。
華鬘は、おもしろそうに笑った。木蓮は変わらず、緊張の面持ちだ。
「では次に、朝廷においておかれている官位について、ご説明くださいますか」
間をおかずに、木蓮はすぐに答えた。
「まず、すべての官吏を束ねる執政官を頂点に、中部、民部、式部、兵部、刑部があります。また、宮廷を司る中部のなかには、采女所、典薬所、神祇所があります。また、これらとは別枠に、11貴族当主の方々だけに授けられる官位として、星官というものがあります」
つらつらと、淀みなく木蓮は答える。華鬘もおとなしく聞くだけだ。
その後、いくつかの質問を華鬘が投げかけ、それを木蓮が答える、という質疑応答が繰り返された。
どれもこれも、木蓮は完璧に答えた。完璧すぎるほどだった。
いったい、どれだけの書物を読んでここまでの知識を得たのだろう・・・。
本家とはいえ、3男でありながら、この知識量。たしか、彼の兄2人はここまでではなかったはずだ。
華鬘は、今まで誰にも言ったことのない言葉を、木蓮にかけてみることにした。
「なにか、わたしに聞きたいことはありますか?」
思えば、今まで誰にもそう尋ねたことは無かった。
知らぬことは自らで手に入れるべし。
それが、華鬘の考えだからだ。だが、不思議と、木蓮に対しては、『華鬘が』そうたずねてみたくなった。
「ひとつだけ、あります」
少し緊張のほぐれた木蓮が、顔をあげて華鬘に尋ねた。
「星官だけでなく、朝廷すべてが11貴族により成り立っている現在、この体制を崩す方法はございませんか?」
華鬘は、椅子から転げ落ちるかと思った。
まさか、そんなことを聞かれようとは。
だが、木蓮を見れば、彼は真剣な面持ちで華鬘を見ている。一縷の望みでも逃さないように。華鬘ならば、その希望への糸口を知るのではないかという期待とともに。
咳払いをひとつすると、華鬘は口を開いた。
「牡丹王の伝説を、あなたはよくご存知です。それならば、牡丹王をお助けしたのは、ほかならぬ11貴族であることも、よくわかっているはずです。それなのに、あなたは11貴族を朝廷から引き摺り下ろそうというのですか?」
木蓮はすぐに首を横に振った。
「違います。11貴族が星華国建国におおいに貢献したのはわかっています。けれど、11貴族だけが星華国の民ではありません。もっと他にも、国を想う民たちは多くいるのです。なぜ、彼らにも朝廷という公の場を等しく設けないのか、僕は不思議に思うのです。11貴族を引き摺り下ろしたいのではありません。さらなる多くの見解を、視野を持つべきだと申し上げているのです」
木蓮の反論に、華鬘は若かりし自分の姿を重ね合わせた。
そう、華鬘も若い頃はそう思ったときもあった。
桃魚家次期当主という重荷がありながら、朝廷に出仕する前はよく考えていた。なぜ、星華国を支える民たちにも広く門戸をあけないのだろう、と。11貴族のほかにも、彼ら以上に国を憂い、繁栄させようと意気込む者たちは多くいるはずなのに。
けれど、華鬘は実際に出仕して、11貴族以外の者を朝廷に受け入れることは不可能だと実感した。
あまりにも、矜持が高すぎる。
傲慢、といってもよかったかもしれなかった。
あのとき、若かりし華鬘はひどく落胆したものだった。まだ、現王ではなかった時代だった。
その後に起こった『事件』。そして、現王 芙蓉の王位継承。
華鬘は心のどこかでは、芙蓉がこの国を変えてくれるのではないかと望みをかけていた。
だが、26年経った今も、国の情勢は悪化するばかりだ。
「残念ながら、わたしにはどうすべきかはお答えできません。ですが、可能な限り、考えを尽くしてみましょう。・・・・・・それからひとつ、わたしからあなたへお聞きしてもよろしいですか?」
この質問は、いつも華鬘が出仕する若者たちへ投げかける最後の問いだった。
いつもと変わらない。
けれど、華鬘は、どうしても彼には本心でその答えを言ってほしかった。
「正直にお答えください。現王 芙蓉陛下に、絶対の忠誠を誓えますか?」
木蓮は、少し押し黙ったあと、静かに口を開いた。
「では、華鬘さまは、芙蓉陛下に絶対の忠誠を誓われておいでですか?」
この返しには、さすがの華鬘も言葉につまった。
26年もの長い間、政に関心を示さず、執政官の独裁政権を暗黙し続けている王。
どれだけ国が乱れようとも、民に目を向けることは無い。
華鬘の、若かりし頃の望みも、果たされることはない。
けれど、春星州の者たちには、王への絶対忠誠を教え込んでいる身として、忠誠を誓わないとは言えない。
言えない・・・・・・が・・・。
「おかしな話ですが、わたしはわたしの考えがよくわかりません。王族を支えたいという思いはあります。けれど、国と民を思えば、もっと王には政に関心を示していただきたく思います。今の陛下に完全なる忠誠をお誓いするわけにはまいりません。けれど、いつか王が政をされるとき、王をお支えするためにも、わたしは星官を退くわけにはまいりません」
あいまいな、けれど正直な華鬘の本音を、木蓮は意図せず見事に引き出させた。木蓮はそんな華鬘の言葉を聞き、彼の本音を告げた。
「僕も、お会いしなければ、絶対の忠誠を誓えるかはわかりません。けれど、星華国のため、王家のためにも、僕は僕のできることをするのみです」
きっぱりと告げた、木蓮の姿勢に、華鬘は思わず口走っていた。
「あなたが導く王政を、見てみたいものですね」
あなたが掲げるその未来を、理想を、遂げられる日を。
すると、木蓮は急に顔を赤くしてうつむいた。
「若輩者が生意気を申しました。申し訳ありません」
「いいえ、木蓮殿。わたしは、あなたと共に、国のため、民のために歩いていきたいと思いましたよ」
今まで出会ってきたどの若者とも官吏とも違う。
穢れの無い純粋な理想を掲げる若者。
朝廷へ出仕し、その理想がつぶされるか、変わらずそれを抱いていけるか、それは木蓮次第になる。
「羊桜 木蓮殿。あなたの水陽への出仕を認可しましょう。あなたの目で、今の朝廷を見てきてください」
「はい」
華鬘と話すことで、木蓮はいっそう、自らの願い、望みの思いを膨らませた。
おそらく、華鬘も木蓮と同じ理想を掲げたことがあるのだろう。
けれど、当主という立場と、現王の振る舞いにより、あきらめざるをえなかった。
木蓮は、あきらめるわけにはいかない。
梅と、約束したのだ。
春星州のように、のびのびとした安穏とした国を築き上げたいと。
民と貴族との垣根を低くしたいと。
星華国を支える多くの民に、もっと多くの選択肢を与えるべきだと。
だから、木蓮は進むことにした。
振り返ることなく、掲げる未来のために。
羊桜 木蓮と桃魚 華鬘。
ふたりの出会いは、神が用意した奇跡のようだった。