二章 交わる絆 三話
3、君子危うきに近寄らず
27代国王 獅 芙蓉の葬儀が終わり、宮廷が落ち着きを取り戻したのは、芙蓉の死からふた月も経った頃だった。
その間の朝廷の動きもほとんど停止状態で、外朝でどんなときでも毎日欠かさず聞こえる軍の訓練の怒声も、その間は、兵部大将と中将の過酷なしごきに耐えかねた武官たちの小さな叫び声しか聞こえなかった。
海燈で行われていたはずの妃候補の審査試験も、芙蓉の死と重なり、妃候補たちはそのまま水陽へあがり、後宮にて審査試験を行うこととなった。
だが、妃候補の審査よりも、もっと早急に決めなければならないことは多くあった。
まず、王位継承問題だった。
王宮の者たちはみな、第1公子芍薬がその継承を行うものだと思っていた。
だが、従来の慣わしに従えば、正妃の公子である、第3公子風蘭に、その継承権はあった。
星華国国王の跡目は、誰が。
夏星州の民は、『誰』が王となろうとも構わなかった。
王が『何』をしてくれるかが、民には関心があった。
王政を放棄し続けた27代国王のせいで、国内は乱れていた。生活するための食糧の価格も、まるで貧しい者は死ねとばかりに、高騰していった。
職もなく、食糧もなく、けれど、巻き上げられる税金。
助けを求めても、どの貴族も見て見ぬふりをした。
夏星州には州主はなく、治めるのは国王その人だった。その国王が治めることを放棄し、臣下たちにそれを委ねた26年間の乱れは、もう、どうすることもできないほど、荒れていた。
誰でもいい。
この出口のない暗黒の日々を誰かが救ってほしかった。
この声を、誰か、聞いてほしかった。
「3公子さまがた、お話がございます」
執政官長、蠍隼 蘇芳が後宮に立ち入り、芍薬、木犀、風蘭にそう告げた。
「明日、朝議にて王位継承について論議を行います。つきましては、3公子さまがたにもご参加いただきたいのです」
「王位継承?そんなもの、決まっているではないか」
室に入り込んできた蘇芳の姿を見ると、風蘭は心底嫌そうに答えた。
「芍薬兄上が王となられること、それはとうに決まっていることではないか」
「それを、ここで決めるわけにもいかないのです。星官、高官、そして神祇官たちの同意がなければ、その王位を認めることにはならないこと、ご存知ですね、風蘭公子さま。どうぞ明日は、お戯れの官服ではなく、正装でご参加いただけますよう、お願い申しあげます」
蘇芳の嫌味に、風蘭は黙って聞いていることもできない。
「王位王位と、父上が亡くなって間もないというのに、熱心なことだな」
「この国に関わることでございます。執政官として当然のことかと」
不敵な笑みを浮かべる蘇芳を、風蘭は睨み付ける。そのやりとりに、うんざりした口調で割って入ったのは、芍薬だった。
「いい加減にしろ、風蘭。・・・・・・蠍隼長官、朝議の件は承知した。星官の賛同を得るとのことだが、各11貴族の当主たちが朝廷に集うのか?」
「いいえ、芍薬公子さま。各星官より文を受け取ってございます。そちらをもってして、星官の任意とさせていただきます」
「どうせ、紙っぺら1枚に『執政官のご自由に』としか書いてないんだろう?というよりは、星官が来れないように仕向けたか?」
蘇芳に食って掛かる風蘭のさらに奥の扉の向こうに向かって、芍薬は声をかけた。
「連翹。風蘭をここから連れて行け」
すると、すぐに連翹が室に入り込み、簡略な礼だけとると、風蘭の腕をひいた。
「な、なにするんだよ、連翹?!」
「命令です。どうぞこちらへ」
「おま、おまえ!!おまえは芍薬兄上のではなく、俺の護衛だろう?!」
ぎゃぁぎゃぁわめく風蘭を強引にひいて、連翹は室から退室した。
「連翹!!なぜ兄上の命令をきくようなことを!!」
「落ち着いてください、坊ちゃん。執政官長に対して、そんな態度だから芍薬公子もあの場から坊ちゃんを退出させるしかなくなったのですよ」
ぐいぐいと連翹は風蘭を引っ張っていく。力は連翹よりも劣る風蘭は、抗うけれど腕を振り払うことはできない。
「あいつが俺を目の敵にしてるんだ!!いちいち嫌味を並べて!!だから俺もあいつを目の敵にしてるんだ!!」
「わけのわからない理屈を並べないでくださいよ、坊っちゃん・・・。とにかく、いったん桔梗様のもとへ行きましょう?」
「おまえはすぐ母上の指示を仰ぎに行くな。おまえが仕えるのは俺か、母上か?!」
どうも今日の風蘭は気が立っているらしい。
突然連翹に突きつけてきた、おまえの主は誰なんだ、という問いに、連翹も思わず風蘭をいじめてしまう。
「それは、『花』をいただいたのは桔梗様ですから」
連翹の言葉に、風蘭がぐっと言葉につまらせる。
「だったら・・・・・・母上のもとにいればいいだろ!!」
すごい力で連翹を押しのけると、風蘭はその場から駆け出していった。
からかいすぎたことに後悔する間もなく、風蘭はあっという間に連翹の前から姿を消してしまった。
「・・・まったく、いつまでも子供のままですね」
途方に暮れた連翹のうしろで、優しい声が聞こえた。
「桔梗さま」
背後に現れた、双 桔梗に礼をとり、連翹は申し訳なさそうに頭をさげた。
「申し訳ありません、桔梗様。風蘭様をからかいすぎてしまったみたいで・・・・・・」
「気にすることはありません、連翹。風蘭が子供すぎるのです」
ため息をひとつつくと、桔梗は風蘭が走り去った方向を眺めた。
「王も亡くなり、あとは公子たちでこの国を支えなければならないというのに・・・・・・」
「風蘭様は、まだ、芙蓉陛下が亡くなられた悲しみから立ち直られていらっしゃらないのかも・・・・・・」
「そんな弱いことを言ってはいられません」
風蘭を庇う連翹の言葉を、桔梗はぴしゃりと撥ね退けた。
「この国の行く末は、風蘭たちにかかっているのです。いつまでも悲しみに暮れているわけにはいかないのですよ」
風蘭も、それはきっとわかっている。
けれど、自分たちの力の及ばないところで、執政官長である蠍隼 蘇芳が立ち回っていることが、風蘭は気に入らないのだ。
王という支えを失った今の国の状態を、支えるべき公子ではなく、執政官が取り仕切っていることが。
「連翹、あなたが風蘭のそばにいるかどうか、それはあなたが決めなさい。わたくしが昔、あなたに差し上げた剣は、もはやあなたには小さなものとなったのですから」
母のような優しい瞳で、桔梗は連翹に告げる。連翹は、それに笑みを浮かべて応えた。
「風蘭様は、きっと立派なお方になられると、わたしは信じています。わたしは、わたしの意志で風蘭さまのお傍にいるのです」
迷いない連翹の言葉に、桔梗はほっとしたような笑みを浮かべる。
「あなたは、わたくしにとって最後の希望です、連翹」
「恐れ多いお言葉です、桔梗様」
空よりも広い心を持つ彼女のもとに跪きながら、連翹はそう言った。
『花』を授けた者に生涯の忠誠を。
初めて、風蘭が母から『花』の話を聞いたのはいつだったか。
信じる相手に、信頼できる相手に、その自らの『花』を授けなさい。
母は常にそう風蘭に言い続けた。
けれど、生涯1人にしか『花』を授けなかった父。
一方で、『花』に溢れたという祖父。信じられる者にはみな『花』を与える母。
『花』のもつ意味を、その力を、風蘭はわかりかねていた。
『花』を与えることで、相手を縛り付けるようで、彼はそれができなかった。連翹に『花』を渡すのは簡単だった。
けれど、それで彼を風蘭に縛り付けてしまうことに、抵抗があった。
「母上と俺と、おまえはどちらに仕えているんだ」
そんなこと、言うつもりはなかった。まるで、おもちゃを奪い合う子供のようなこと。
「・・・俺、最低だな」
「本当、最低ね」
回廊でつぶやく風蘭のすぐ横で、少女の声が聞こえた。
「蓮姫?!いたのか?!」
「いたわよ、さっきからず~っと。なのに、風蘭お兄様ってば全然気付いてくれないんだもの。最低だわ」
ぎょっとする風蘭の隣で、蓮姫はぷっと頬を膨らませた。
「連翹も連れずに、こんなところでどうしたの、お兄様?」
欄干に手をかけて、蓮姫は心配そうに風蘭を見上げた。彼は、そんな顔をする妹姫の鼻をつまむと、ひらりと身軽に欄干に腰掛けた。
「なんでもないさ。連翹を、自由にしてやろうかと思っているだけだ」
「連翹に『花』を渡さないの?」
「『花』を渡せば、連翹はきっと断らない。だけど、それじゃぁ連翹はずっと俺のそばにいなくてはならない。・・・縛り付けたくない」
瞑目する兄の横顔を、蓮姫はじっと見つめる。
「連翹に、『花』を渡さないのね?」
確かめるように、再度彼女は彼に尋ねる。
「今は、渡すつもりはない」
風蘭の返事に、蓮姫は小さく頷き、欄干に身を預けるようにもたれた。
「明日、王位後継について朝議を行うのでしょう?」
「形だけだ。もう、芍薬兄上に決まっている」
優しく蓮姫の髪を撫でる兄の手のぬくもりを感じながら、彼女は小さく本音を漏らした。
「私は、風蘭お兄様が王におなりになればいいと、思っているわ」
思わぬ妹姫の言葉に、彼は瞠目した。
「俺が?まさか。双一族は諸手を挙げて喜ぶだろうが、俺はその器じゃないよ」
幼い頃から、王位は第1公子の芍薬だと言われ続けた。
そのため、自分が王位につくことなど、考えたこともなかった。正妃の公子であるから、王位につきたいと思ったこともなかった。
もとより、父王が妾妃の公子だったこともあり、正妃の公子だの妾妃の公子だのと、大きな差別も特になかった。
ゆえに、風蘭は自身が王になることは想像もできなかったし、望んでもいなかった。
王になることを望んでいない。
だから、その器は自分にはないのだと、そう思い込んでいた。
「器なら、芍薬お兄様より、風蘭お兄様のほうがあるわ」
風蘭にすら聞こえないつぶやきで妹姫はそう言うと、さっと体勢を整えて兄公子に微笑んだ。
「誰が王となろうと、私は風蘭お兄様の味方だわ。風蘭お兄様のこと、大好きよ」
「俺も好きだよ、蓮姫」
片腕で彼女を抱きしめたあと、風蘭はある気配に気付いた。
「覗き見か、連翹?」
「いいえ、微笑ましい兄妹愛を見守っていただけです」
柱の陰からひょっこりと現れた連翹の姿を確認すると、蓮姫の頬が急に紅く染まった。
「あ、じゃぁ、私、これで失礼しますわ、お兄様。ごきげんよう」
なにやら落ち着かなく慌てて逃げるように去っていった妹姫を、風蘭はきょとんとした顔で見送った。
「なんだ、あれ?」
「・・・・・・なんでしょうね・・・」
何事もなかったかのように問いかける風蘭に、連翹もほっとしたように何事もなかったかのようにそう返した。
翌朝の朝議。
集められた高官と、神祇官、そして空席の星官のもとで、王位継承問題が論議された。
「では、みなさまのご意見をうかがいましょう」
もったいぶるように、蠍隼 蘇芳がそう告げた。傍らで座る風蘭は、今日はじっと耐えることに決めていた。
こんな公の場で、二度も三度も蘇芳と言い合いするほど、自分は子供じゃない。
「蟹雷式部長官、あなたはどう思われますか?」
突然火の粉が降ってきた式部長官は、ぎょっとした顔で辺りを見渡したが、喉を一度鳴らすと、しん、とした朝議の場で
「芍薬公子さまがよろしいかと存じます」
とだけ言った。
それを聞いたときの蘇芳の表情を見て、式部長官は自分の言ったことは正しかったのだと胸をなでおろした。
順番に、蘇芳がみなの意見を聞いて回る。それぞれがみな、蘇芳の顔色を伺って、芍薬を薦めていく。そのたびに満足そうに頷く蘇芳の表情を見ていて、風蘭はいらだちを抑えるのに苦心していた。
芍薬が推されることが不満などではなかった。
この場にいる全員が全員、執政官である蘇芳の顔色をうかがっているのが腹立たしかった。
これはいったい、なにを決める朝議なのか。
王か、それとも支配者か。
「私は、風蘭公子を推薦いたします」
蘇芳だけを睨み付けていた風蘭の耳に、思わぬ言葉が入り込んできた。
その場にいた全員が、その声の主に注目した。
兵部大将、双 縷紅だった。
「私は、風蘭公子さまを推薦いたします。私が双一族だからではありません。風蘭公子さまこそ、政務に積極的であり、王たる器をお持ちの方かと思われるからです」
「なるほど、興味深いご意見です」
蘇芳の瞳に、冷たい光が射す。
誰もが、一触即発のその空気に、息を呑んだ。
それを破ったのは、張本人、風蘭だった。
「わたしは、芍薬公子を推薦いたします」
ばっと朝議の場の中央に飛び出し、芍薬の前で跪拝の礼をとった。
「わたしは、芍薬公子を王としてお仕えもうしあげます」
それは、この場にいる全員に、風蘭は王位継承権を放棄したと公示したようなものだった。
その様子を見て、思わず青い顔で立ち上がった者たちがいた。
ひとりは、純粋な思いで風蘭を推した、双 縷紅。
またひとりは、双一族の出世を狙って風蘭を推すつもりだった、双采女所所長。
そしてもうひとり。
神祇所所長、北山羊 柊だった。
「惜しいことを・・・・・・!!」
突然立ち上がった彼女に、蘇芳は冷たい視線を送った。
「北山羊神祇所長、どうされました?」
彼女は蘇芳の視線とぶつかると、さらなる冷たい瞳でそれに返した。
「いいえ、蠍隼執政官殿」
「神祇所長の賛同なくば、王位継承式は執り行えません。北山羊さまは、どなたを推されますか?」
今更、風蘭を推したところでどうにもならない。
それをわかっている上で、あえて蘇芳は彼女に聞いているのだ。
王の継承、王妃の任命、宮廷に関わる決定権の多くを握る、神祇所の所長である彼女の口から言わせるために。
「・・・・・・芍薬公子さまで、異議ございません」
「なるほど。では、芍薬公子さま、よろしいでしょうか」
勝ち誇った笑みを浮かべ、蘇芳は芍薬に振り返った。
内気な第1公子に、それに是非を言う勇気もなかった。
「・・・・・・あぁ」
「では、ここに、第28代星華国国王、芍薬陛下のご即位に、異議ございませんね?」
誰も何も言わなかった。
それが、すべての肯定となった。
「正式な即位式は、芙蓉さまの喪が明ける1年後といたしましょう。では、これにて・・・」
「いまひとつ、蠍隼執政官長」
蘇芳をはばむその声の主に、彼は視線を向けた。氷柱のように冷たい視線を。
「なんでしょう、風蘭公子」
「芍薬公子の王位継承、結構なことでございます。ですが、いまひとつ、決めていただきたいことがございます」
「・・・・・・それは?」
「現高官の人事異動です」
風蘭のはっきりとした声が、朝議の場に木霊した。