番外編:吾妻の話
最初はただ、可哀想な子、という認識だった。
宗佑が片寄の身代わりに付き合ってる女の子。自分が愛されていると疑わない、可哀想な子。きっとこれからも何も知らず宗佑の思うまま、利用されて終わるんだろう、なんて、そんな風に思っていただけだ。
それも他人事であるために、さして興味もない。
秘書課と仲が良いわけでもない。世話になってるわけでもない。傷つこうが幸せだろうが関係がない、という「同期に利用されている恋人」のポジションというだけだったのだ。
「主任、どうしたんですか?」
社食で昼食をとっていると、入社一年目の女の子がやってきた。最初から強く営業を希望していたらしい女の子で、人事が喜んで配属させたという噂がある子である。
今も注目の的である和泉は俺の隣に座ると、視線を追って「ああ」と小さく声をあげる。
「佐原主任と宮岡さんですか。相変わらず仲良しですね」
営業を希望しただけはあって、和泉はあまり動じない。今も二人を興味なさげに見つめてただ、ずるずるとうどんをすするだけである。
教育係に付けた部下が、和泉は恐ろしく手がかからないから怖い、とか言っていたか。まったく何を考えているのか、俺にもよく分からない子だ。
「……まぁ、いろいろあったみたいだけどな」
「ふぅん。…………あれ、別れたんですか?」
「なんで」
「……なんとなく、前とは違う気がして。……ん、でも仲良しなのかな。どうだろう、距離感が少し……」
「やけに気にするな」
「二人に限った事じゃないです。営業として目を肥やそうかと」
――――本当に変わった子だ。
最初にクライアントの心に入り込むこと、と教わっている和泉は、素直にそれを実践しているらしい。だからこそ今だって、相手を見て細やかなこともキャッチする練習をしているのだろう。
とはいえ、別れたとかそんなことまで分かってしまうものか。
「……カレーうどん食ってると、飛び散ってスーツ汚すぞ」
「はい。すでにめちゃくちゃ散ってます」
「おい」
「大丈夫です。非常時のためにスーツは常に二着あります」
「どんな非常時だ……」
会話をしながらも、和泉はまだ二人を見ていた。
目を肥やす、にしても少し気にしすぎではないだろうかと。そう思わなくもないが、まああまり興味もない。
(……別れた、まで分かるか)
二人の距離は変わらないように見える。むしろ表情は以前より晴れやかであるし、ぎこちなさは残るものの悪い雰囲気ではない。
いや、そのぎこちなさをキャッチしたのか。
――――結局、二人の間に何があったのか、詳細は分からない。宗佑はただ「別れたけど、きっとやり直すよ」と言っただけだった。宮岡さんも同じように言っていた気がする。表情は晴れやかで、最後には色々と世話になったと頭を下げられた。
その時の宮岡さんは「片寄の代わりにされていた可哀想な子」ではない。堂々と愛されることを知って前を向いた、凛とした「女性」だった。
(……まあ、笑ってるならいい)
別に激情があったわけでもない。奪うほどの熱い気持ちもない。
ただ、こんなにも一途に想う子に想われたのならどんな心地かと、そんな風に思っていただけだった。
宗佑と別れたら俺が居るから、と思っていたのも事実。それでも彼女にとっては宗佑が良いのだろうからと、試すことばかり言って何度も背中を押していた。
(本当、余計なことばっかり考えてるんだからなあ……)
第三者からすれば、二人の気持ちは明白だった。しかし二人とも少しずつズレていて、両想いなのに気持ちの行き違いがあった。
それも全部、宗佑の責任である。事の発端は宗佑だ。
(別れたっつっても、付き合うこと前提みたいな雰囲気だし)
仲睦まじく並んで昼食を食べる姿は、ぎこちなさを除けば付き合う前となんら変わりない。というか、中学生が初恋の相手とご飯を食べているかのような、そんな初々しい雰囲気だ。
――――本当に、どっちでも良かった。
深入りしたいわけじゃない。強い思いがあるわけでもない。全部本音だ。
ただ泣いているのを思えば、それなら俺が笑顔にしてやるのにと、そんな風に思っただけで。
(……別に、きっと、恋ではない)
激情もない。どうこうしたいと思ったこともない。
宗佑に言った言葉だって、煽るために言っただけで深い意味なんかなかった。
「失恋したんですね、主任」
相変わらずずるずるとうどんをすすって、和泉がちらりと俺を見る。
いったい何を言われたのか。それを理解するより早く、咀嚼を終えた和泉が口を開いた。
「宮岡さん、仕事もできるし愛嬌もあるし、サバサバしてていいですよね。分かりますよ、あれは付き合ってからギャップを見つけて可愛がりたいタイプ」
「……何の話だ?」
「主任の失恋の話です」
俺の、失恋の話。
改めて言われてもピンとこない。
「……あれ。なんですか、その顔」
「いや……何言ってんのかなと」
「あー……なるほど」
じっと、見透かすような目が見ていた。なんとなく読まれたくなくて逸らしたけど、うんと年下の女の子から逃げるとはなんとも情けない。
突き刺さる視線が痛い。なぜそんなに見るんだと思いながら定食を食べていると、少ししてようやくその目がそれる。
「……随分過保護に面倒見てましたね。同期の恋人だからって、ちょっと引くくらい」
「……過保護?」
「はい。見つければ声かけてましたし、頻繁に飲みにも行ってたみたいですし」
「それは宗佑とのことを、」
「いいですよ、それでも」
麺を食べ終えたのか、今度は器ごとあおってカレーを流し込んでいた。スプーンですくって飲む、という選択をしないあたり、本当に豪快な女の子である。
「主任が傷つかないなら、主任は恋なんかしてなかったから失恋はしてないって思っても、別にいいです」
「……まあ、うん?」
「思い当たる節があるなら、認めちゃったほうが楽なこともありますけどね」
「というか、やけに突っかかってくるな。なんだ、和泉は俺が宮岡さんを好きなほうが都合がいいのか?」
もう一度器をあおって、ようやくすべてを飲みきれたらしい。男らしくお盆に器を戻した和泉は、残りの休憩時間は別の場所で過ごすのか、間髪入れずに立ち上がった。
「困るだけです。……失恋してくれないと、次の恋になんていけないでしょう」
いつもと変わらない表情と、いつもと変わらない声音。いつもと変わらない様子のままでそう言うと、和泉はお盆を返却した後、そそくさと社食を出て行ってしまう。
(困る……困る? 俺が失恋しないと困る?)
そう言われても、恋をしていたつもりはないのだけど。――――なんて思いながらそちらを見れば、ちょうど宮岡さんと目が合った。
さすがは秘書課と言うべきか。宮岡さんは焦る様子もなく、すぐに上品に微笑んでぺこりと軽く頭を下げた。そうなるとつられて宗佑も俺を見る。こちらは気心が知れすぎているからなのか、ほんの少しだけ嫌そうにした後、すぐにふいと視線が逸れた。
宗佑が何かを言って、宮岡さんが笑う。それは以前にも見なかった、柔らかい光景だ。
(――ああ、なるほど)
少しだけ、胸が痛いのかもしれない。
ぼんやりとそんなことを思いながら、お盆を持って立ち上がる。
――――別に、本当に激情なんかなかった。
好きだと強く感じたことも、もちろん奪いたいと思ったこともない。
純粋で一途な子に想われている宗佑が羨ましいなと思ったことはあっても、それだけだ。
身代わりを受け入れてまで好きなのかと。確かに彼女が眩しく見えたかもしれないけど、それでもそんなものが「恋」でないことくらい、それなりに恋愛経験があれば分かる。
(……はー……そうか。そういうことか)
きっと、激情ばかりではない。
たとえばさざ波のように、緩やかに柔らかく侵食するような恋もあるのかもしれない。
オフィスに戻る途中、自販機のあるスペースに和泉がいた。意外と優柔不断なのか、どれにするのか悩んでいるようだ。
「おしることかどうだ」
「わ、驚いた。……おしるこは好きじゃないんで無理です。ココアにします」
ここでなぜ即決できるのがよく分からないが、和泉は宣言通りにそのボタンを押す。
「和泉」
「はい?」
「俺は失恋したらしい」
「……へえ、認めちゃうんですね」
にやりと、和泉が不敵に笑う。負けた気がしてなんだか悔しいが、仕方がない。こいつのせいで、と言うべきか、余計なことを知ってしまったために、何かを言わなければ気が済まなかった。
「分からなかったんだよ。本当に、自然とそう思ってたんだ。別に今も落ち込むほどショックなわけじゃないし、奪おうとかも思ってない。……こんな恋もあるんだなって、他人事みたいな感覚だ」
「良かったですね。新しいこと知れて」
「まあ、そうだな」
だけど本当にショックではない。
緩やかに心に入り込んでいたから、もう少ししたら緩やかにショックを受けたりするのかもしれないけど、今はただ二人を見て少しばかり胸が痛むだけである。
「和泉は将来有望だなあ、人を見透かす天才だ。俺は優秀な部下を持った」
「はいはい。ココア奢ってください」
「持ってるじゃないか」
「もう一個」
「……仕方ないな」
このココア一個でやる気を出してくれるのであれば安いものだ。午後からも教育係の先輩について外回りに行くはずである。糖分も適度には必要なのだろうし、一日もたせるには二本あっても良い。
「大事に飲めよ」
渡してやると、和泉がこくりと頷いた。
和泉はオフィスでは表情が乏しいが、これがなんと取引先の前になると様変わりするらしい。普段があまりにも無表情なためにそんな一面があるなんてまったく嘘くさいのだが……と、じっと見ていたことが気に食わなかったのか。和泉はふいと顔をそらすと、すぐにオフィスへと歩みだす。
「置いてくなー」
「主任が失礼なことを考えてるからです」
「さては心を読んだな?」
「そうだって言ったらどうしますか」
和泉が珍しく、くすくすと笑う。
そうしてそのまま「冗談ですよ」と言って、
「主任がわかりやすいんです。……早く立ち直ってくださいね。困るんで」
不思議な言葉を残して、オフィスへと入っていった。
読了ありがとうございました。
昨年内に完結させる予定が、今です。長らくお付き合いいただいた方、さらりと読んでみただけの方、感想をくださった方、ポイントをくださった方、誤字報告くださった方、本当にありがとうございました。
数ある作品の中からお読みくださり感謝いたします。
それでは、どうか皆様、このようなご時世ですのでお体にはお気をつけてお過ごし下さい。
ありがとうございました。




