3.呪い
翼の動きが鈍くなってきた。
体が重い。だるい。
魔法の力が弱まっているのを感じる。風が巨体を支えきれなくなっている。
レトは、人間の巣が密集した地域を離れ、森の上を飛んでいた。
体の力が抜けていき、ついに翼の羽ばたきが止まってしまった。
魔法の余力でまだ宙に浮いているものの、もういくらも飛べそうにない。
いったい何が――?
答えを期待して発した問いではなかった。
だが、意外なことに、答えははっきりと返ってきた。
「竜と人との契約だ」
レトの目の前に、人間の雄の姿が浮かんだ。
白い髪と白い髭、しわくちゃな顔は、その人間が老境に達している印だと血が教えてくれた。そして、老人が身に付けた灰色の長衣が、いにしえの魔法使いの装束であるということも。
老人は、被ったフードの下から、真夏の空のような色の目でレトを見詰めた。
何もかも見透かしたような目が不愉快で、噛みつこうとしたが、歯は老人の姿を通り抜け、虚しく噛み合わされただけだった。
魔法が作り出した過去の幻影だ――と、血が告げる。
魔法――?
なるほど、老人の姿は半分透けて、背後の空が見えていた。
人間も魔法が使えるのか――?
魔法使いのみ――と血が答える。
レトは、魔法を使える人間と聞いて警戒を強めた。どんな魔法を使うことが出来るのかは知らないが、魔法を侮るのがいかに危険であるか、エーレンによって散々叩き込まれてきた。
「わしは、千年前に死んだ人間だ。今のお前に新たな術をかけることは出来ない」
魔法使いが微笑んだ。
人間が発した言葉の意味を、血が教えてくれた。それでもレトは警戒を解かない。竜と違って人は嘘をつく。人間の言葉を安易に信じてはならない――と、血が同時に警告したからだ。
魔法使いは声を立てて笑った。
「それほどの慎重さがあるのであれば、なぜ、先代の教えに叛いて島を出た?」
レトは、歯を食いしばり、呻いた。
島を出るなと散々言われた。だが、なぜ島を出てはいけないのか、エーレンはついに教えてくれなかった。エーレンの言葉を疑ったわけではない。理由もわからないまま従うよりも、この目で、この体で試してみることをレトは選んだのだった。真実を知ることが出来さえすれば、それが己を滅ぼす道に繋がっていようと構わなかった。たった一頭、生きのびたところで、さほど価値はない。それならば、と、レトは好奇心を満たす道を選んだ。むしろそれが、己を滅ぼす道であると期待したからこそ選んだのかもしれない。
そして、島を出て、先ほど生まれて初めて知った人間の味は、これまでレトが食べたどんな生き物よりも格段に美味かった。たとえ毒であったとしても、この味を知って良かったとレトは思った。知らないまま死ぬよりも、ずっと幸福なことだと思ったのだ。
「愚かな子、憐れな我が子よ――」
魔法使いは、レトを抱き締めるかのように両手を広げた。その目には憐憫が揺れている。
吾は竜族の末裔。下衆な人間に子呼ばわりされる覚えはない――!
レトは魔法使いに思念をぶつけた。人間の傲慢な言葉は不快だった。大きく息を吸い込み、焔を吐く。しかし、劫火は魔法使いの形をした幻影を虚しくすり抜けて、熱い風の渦を巻き起こしただけだった。
「天空の王、王の中の王、真に偉大なる英知の持ち主、竜王ガーファフェリエと、吾、人にして魔法使いファウエンとの間の盟約だ」
魔法使いは、地底に眠る湖のような深みと静寂を湛えた瞳でレトを見た。
「人を食った竜は人になる」
レトは目をみはった。
「そう、お前は人になるのだよ」
レトは、飲み込んだ人間を慌てて吐き出そうとしたが、空嘔吐きとともに、あふれた唾液が歯の隙間からしたたり落ちるだけだった。
「人の味は竜にとって麻薬だ。一度知れば忘れられなくなる。人の訪れることのない絶海の孤島は、竜が竜でいることを守るための砦であったというのに……」
魔法使いの言葉を聞いている間にも、体の力はますます抜けてゆき、艶やかだった鱗は光を失い、盛り上がっていた筋肉がしおれてゆく。
竜王の誓いは、すべての竜の誓い。子々孫々、守り抜かねばならない――と、血がささやく。
理不尽な――と、レトは歯を食いしばる。
血は、竜王ガーファフェリエがいかに偉大な竜であったかを伝えてきた。しかし、いかに偉大な王であったにしても、千年も前に死んだ者の言葉に、今を生きる自分が縛られねばならない理由が、レトにはどうしても飲み込めない。
それでも誓いは成就される――
レトの中に流れる祖先の血は、無情にも断言する。
逃れるすべは? この魔法を破る方法は? 元に戻る手段はないのか――?
レトの必死の問いに血は答えてくれない。代わりに千年前に死んだ人間が答えた。
「人を愛しなさい」
愛――?
「たったひとりの人間でいい。心の底から愛し愛されたとき、お前にかけられた呪いは解ける」
レトの体は、どんどんしぼんでいき、たくましかった前肢も胴も後肢も、白くて細くて頼りないものに変わってしまった。
魔法の力もぐんと弱まり、体が徐々に落下してゆく。
レトは、なすすべもなく魔法使いを見詰めた。
魔法使いは、そんなレトを見下ろして微笑みを浮かべた。
「レト、愛しき我が子。ガーファフェリエの血がそなたを祝福せんことを」
祈りのように呟いて、魔法使いの姿は空に溶け込むように消えた。
レトは、何もない青空を見ながら、大地に向かってひたすら落ちていった。