4.ゆらぐ焔
アガンはそのまま離宮に残り、衛兵に守りを固くするように命じると、自らもクオンの寝台の傍らで抜き身の剣を抱えて座っていた。そんな必要はないとクオンは言ったのだが、アガンは頑として聞かなかった。
「状況は、そこまで切迫しているのです。エレングス殿が殿下の決意を伝えるより前に、すでに先方が刺客を放っている可能性もあります。いや、たとえ伝えたところで、あの王妃がそれを素直に信じるとは思えません。こちらへ攻め込んでくる可能性は極めて高い。どうか注意を怠りませんように」
好きにしろと笑って、クオンは寝床に潜り込んだ。
しかし、アガンの予想は的中した。
夜明け前、突然何かが爆発する音がして、きな臭い臭いが漂ってきた。
ダウルドが、扉を蹴破るように飛び込んできた。
「玄関付近を爆破され、各所に火をつけられました」
「敵は!?」
アガンが素早く立ち上がる。
「わかりません。なにぶん突然のことで、燃え上がる一階からここまで報せに来るだけで精一杯でした。とにかく、火の回りが異常に早い。若君、急いで館から脱出してください」
「他の者たちはどうしている? 一階にいた者たちの避難は出来ているのか? 二階の方々に報せはいっているのか?」
クオンの問いにダウルドは言葉を詰まらせた。
「は……それは……」
クオンは寝台から飛び出すと、扉へ走った。
「お待ちください!」
アガンが扉の前に回り込み、クオンを止めた。
「そこをどけアガン! ダウルド、俺のことよりも、なぜ先に他の方々の安全を確保しなかった!?」
「ダウルドを責めないでやってください。この館にいる全員にとって、何よりも大切なのは殿下の命です。それを一番に守ろうとするのは当然のことです」
アガンに肩を押されて、寝台の方へ押し戻された。
「退路を確保します。しばしここでお待ちを」
アガンはダウルドを見た。ダウルドは頷き、クオンの前に立ちはだかった。両足を踏ん張って進路を塞ぐ男を押しのけることは無理のようだ。クオンはふたりを睨み付けて唇を噛んだ。
「無謀な真似だけはお慎みください。あなたを失っては、我々は生きていけません」
悲痛な顔で言い残し、アガンが部屋を出て行こうとしたとき、モルセオンが入ってきた。
「人々の避難は、近衛団のレオルドとクラウシスらが、衛兵を指揮して行っております。どうかご安心を」
父が特に信頼して常に側に置いていた白髭の老魔法使いは、クオンに一礼すると言った。
「殿下は、今すぐ館からお逃げください。どうやらこの館を燃やしている火は魔法によってつけられたものらしく、普通の消火方法では消すことが出来ません。魔法の解除を試みましたが、複雑な術式が施されているらしく、それを解いて消す前にこの館は焼け落ちてしまうでしょう」
「手の施しようがないと?」
魔法使いは頷いた。
「私に出来ることはせいぜい魔法の防壁を作って焔の侵入を防ぐくらいです。それで何カ所か退路を確保しておきましたが、それもどれくらい持つものやら……」
「ならば、殿下を早く……!」
アガンの言葉に魔法使いは呪文を唱え、杖で宙に何かを描いたあと、杖の先をクオンの肩に当てた。
軽く触れた杖の先から暖かなものが体に流れ込んでくるような気がした。だが、それだけで、何も変わった気はしない。
「いったい何をする!」
アガンがいきなり目を怒らせて魔法使いに掴みかかろうとした。クオンは慌ててそれを止めた。
「何をそんなに怒っている?」
「殿下、ご自身のお姿をご覧ください」
赤くなって憤慨するアガンの言葉に、クオンは壁にかかった鏡を見た。
「これが、俺……か……?」
クオンの姿はすっかり女になっていた。商人の妻女のような服を着ている。
「そなたも……」
と、魔法使いが杖を振ってアガンの肩に触れた。
アガンの服装が、商人風になる。
魔法使いがさらに杖を振り、壁に触れると、壁がゆらいで、その向こうに路地が見えた。
「貿易商人の夫婦を演じなさい。言葉遣いには充分気をつけて。トレンスの町の裏路地です。山の中は危険が多い。人に紛れてゆく方がむしろ安全でしょう。長く通路を開いていると、相手側の魔法使いに気取られましょう。急いでください」
アガンが頷き、クオンの手を取る。
魔法使いがクオンの顔を見詰めて言った。
「お父上が、弟君を後継者に選んだのは本当のことだと、私は思っています。お父上は、殿下の幸福を望んでいらした。殿下が自由にご自分らしく生きていかれることをお父上は願っていらっしゃいました。クオンさま、どうかご自身の幸福だけをお考えください。それが、間違いなくお父上の願いです」
魔法使いが言いたいことはわかったが、クオンは素直に頷くことが出来なかった。自分を恃みとする人々を見捨てて、自分ひとりの幸福を求めるわけにはいかない。たとえそれが、子を想う父の望みだったとしても。
「師のお気持ちに感謝します」
クオンの返答に、魔法使いは何か言いたそうに口を開きかけたが、そのまま何も言わずに黙礼を返すと、視線をアガンの方へ向けた。
「宰相殿。お気をつけて。殿下をくれぐれもよろしく。ただ、私が思うに、相手の狙いは殿下だけでなく、あなた様にもある。どうか御身を大切に」
アガンは固い顔で頷いた。
「ご忠告、胆に命じます」
「館の避難が済んだら、このダウルドも、必ず若君のところへ馳せ参じます」
「ダウルド、きっとだぞ」
最後にもう一度、自分を見送るダウルドと魔法使いの顔を見詰めると、クオンは、アガンと共に壁に開かれた魔法の通路へ足を踏み入れた。
路地の石畳に足を降ろし、振り向くと、そこにはただありふれた民家の石壁があるだけで、離宮の部屋に続く魔法の通路はすっかり消え去っていた。
大通りに出る。
トレンスの町はまだ未明にもかかわらず人でごった返していた。
ふたりは俯き、旅行用の外套のフードで顔を隠すようにして人混みを行く。
「離宮が……」
「クオンさまがまだ……」
「急げ!」
「消火を……」
水を湛えた桶を手に、何人もが、離宮の方へ向かう。
「避難してきた方々を……」
「ぐずぐずしてないで!」
「食事を用意……」
「飲み水を……」
女たちが集まって、炊き出しの用意を始めている。子供たちが水を汲むため桶を抱えて走ってゆく。
まるで自分のことであるかのように無償で尽くしてくれる人々の、温かい心がクオンの胸にしみた。
家々の屋根の向こう、小高い丘の上にある離宮が、まだ暗い空を赤く染めて燃え上がっているのが見えた。
思わず足を止め、ゆらぐ焔を見詰めた。クオンの胸は押し潰されそうだった。
あそこにいた人々の安否が気遣われた。みな無事に逃げおおせただろうか?
「殿下、あなたを慕うこの町の人々のためにも、あなたは生きのびねばなりません……」
アガンが耳元でささやいた。
クオンは頷いた。
アガンが励ますように肩を抱き締めた。クオンはアガンの胸にすがるようにして、トレンスの町をあとにした。
「そして、俺たちは商船に乗って東の大陸へ逃れた。新婚の商人夫婦に化けるのは、なかなかいい手だったな。イチャイチャしていれば、みな呆れて側に寄ってこない。アガンののろけ顔がまた、なかなかの名演だった」
クオンがニヤニヤしながらわざと視線を向けると、アガンは眉を寄せてそっぽを向いた。
「南の大陸には母の母国があり、俺を迎え入れてくれることはわかっていたが、敵も南には注意を払っているだろうから見つかる可能性も高いとアガンが言うので、あえて東を選んだんだ。そして、父の旧知であるトッド・アーレムを頼ることにした。アーレムは義心に富んだ信頼できる人物だったからな。
アーレムに俺がクオンであることをわからせるのに、ちょっと手間取ったけどな。アガンがどれだけノガルドに忠実であるか知っているからこそ、アーレムは俺たちの言葉を信じてくれた。人に何かを信じてもらうのは難しい。信じることを躊躇しない人間というのは、本当にスゴいな」
アーレムには感謝してもしきれない。裏切られ、敵方に売られても不思議ではない状況の中で、互いに信頼できるというのがどれほど幸せなことか。
「その後、ダウルドと連絡をとることが出来、ここへ呼び寄せた。双子は俺が女になってしまったものだから、世話する者が必要だろうとダウルドが連れてきた。厨房で馬鹿な歌を大声で歌ってる連中はおまけだ。可愛い双子と仲良くなりたくて、くっついてきたみたいだな。でもダウルドがいつも立ちはだかっていて、手は出せないでいるらしい」
ダウルドが「余計なことは、おっしゃらなくてよろしい」と苦い顔で呟いた。
クオンは笑いながら、グラスの酒を飲み干した。
「俺たちは、魔法使いを捜してもと姿に戻してもらおうとしたんだが、俺にかけられた魔法は、どうもかなり複雑な術式を施してあるらしく、かけた本人以外には解けそうもないそうだ。術をかけたモルセオンは、ダウルドの話によると、最後まで離宮を守り、人々を避難させていたが、ついに焔に巻き込まれてしまったらしい。まあ、そんなわけで、俺は男でありながら、今はこんな形をしている」
慣れたといえば嘘になる。このままでいいとは思っていない。だが、避けられない現実ならば致し方ない。足掻いてもどうにもならないときは笑い飛ばす。深刻に悩んで落ち込み、押し潰されてしまっては、それで人生は負けだとクオンは思っている。笑いは徒手空拳で苦難に立ち向かわねばならないとき、最初に手に入れることが出来る武器であり、最後まで励ましてくれる心強い味方だった。
「それでは、汝は、永遠に偽りの姿で暮らさねばならないと?」
レトが真剣な顔で訊ねてくる。
「いや、元の姿を取り戻す手段がまったくないわけじゃない。でも、それをするには、ノガルドの王宮の奥深く、宝物庫まで行かねばならない」
「ならばそこへ行けばいい。偽りの姿で暮らすのは辛かろう」
いとも簡単に言う竜の無邪気さがおかしかった。だから盛大に笑った。
「面白い! お前はやっぱり面白いヤツだな!」