1.孤島の竜
偽りを捨て真実の生を得るために、レトは呪縛の島の大地を蹴った。
太股の筋肉が盛り上がり、かぎ爪が荒れた岩肌に食い込み、離れる。
大きく一歩。そして、もう一歩。さらにもう一歩。
波が砕ける断崖の頂に最後の一歩を刻む。深く身を沈ませ、全身をバネに変えて飛び出した。
翼を大きく広げるが、それだけでは巨体を支えきれない。瞬時の滑空ののち、失速し、見る見る海面が迫る。爪先に波が絡み付き、そのまま海に引きずり込まれてしまうのか――と思った次の瞬間、力強い羽ばたきが魔法の風を生み出し、レトの体を高い空に向かって一気に押し上げていた。
中天に輝く太陽の光が、瑠璃色の鱗で跳ねる。
澄み渡った空は、どこまでも青い。
潮気を含んだ風を肺の奥まで吸い込む。
咆哮と共に吐き出した息は、焔となって天を焦がした。
体中に力がみなぎっている。
遮るもののない空にあって、風と一体になり、自由に飛ぶ。これこそ竜にふさわしい。
己の一族が、広がる世界に背を向けて、荒れ果てた、岩だらけの、味気ない、ちっぽけな島にこだわる理由をレトは知らない。
竜族の血には、祖先から連綿と受け継がれてきたありとあらゆる知識と知恵が流れているはずなのだが、まだ百年ちょっと生きただけのレトは、それを取り出し、生かすだけの経験を積んでいない。いや、レトが生まれ育った絶海の孤島にあって、知識と知恵を取り出すに見合っただけの経験など、生涯望めるはずもなかった。この孤島にあって生きるために必要な知識も知恵もたかが知れていた。真に必要なものでなければ、いくら問いかけても、血は何ひとつ答えてくれない。無駄な知識や知恵は、害にこそなれ何の益ももたらさないと、賢者の血は、レトの好奇心を戒め、頑なに沈黙を守っている。
孤島で生きるために必要な知恵とは、野性の本能に他ならず、今のレトは荒々しい野獣そのものだった。他の野獣と異なることがあるとすれば、今の己の生きる姿が、賢者とも称される竜族にはふさわしくないと認識していることだ。知らなければ本然の野獣として、己の境遇に疑念を抱くこともなく、ただ生きることだけに専念できただろうに。
レトは祖先の知恵を得たいと思っていた。祖先の知識と知恵を得るということは、祖先と共に生きるということだった。血の沈黙は祖先からの拒絶であり、一族からの孤立を意味した。
それが悲しいとか寂しいとか口惜しいとか、そういった感覚はない。レトが感じるのは、欲望と、快か不快かだ。より良く生きたい。知識を得たい。美味いものを食べたい。心地よく眠りたい。
空を飛ぶのは快であり、島に留まっているのは不快だった。新たな知恵を得るのは快であり、血の沈黙は不快だった。
この島を出さえすれば、何かが変わるのではないかとレトは思っている。
単調に繰り返される日常から飛び出し、未知の経験に晒されれば、血は生き抜くために反応し、より豊かな知識を与えてくれるはずだった。
より自分らしい生き方をしたい。より竜族らしい生き方をしたい。自分がレトと名付けられた個体であることを知り、自分を自分として認識したときから、レトはずっとそう考えている。長い単調な日々を思索に費やすことで生きてきた。何もない島で、思考は「己」の周辺で堂々巡りをし続ける。自分は何ものなのか。自分の存在は何なのか。自分は何のために生きているのか。竜とはどうあるべき生き物なのか。
だが、百年問い続けても答えは出なかった。
レトは、どこまでも広がる空を見詰める。未知の世界に思いを馳せる。この島以外の場所でなら、答えを見つけることが出来るかもしれない。
大きく旋回すると、島の真上に戻った。
ゴツゴツとした岩肌を晒す、灰色一色の小さな小さな島。
よく見れば、島のあちこちに、たたずむ竜の姿が見える。あるものは断崖の縁で海を見詰め、あるものは岩山のてっぺんで思索にふけっているように見える。だが、いずれの姿も、岩肌に溶け込む灰色で、微動だにしない。
その中に、まだ微かに生前の鱗の色を残しているものがあった。
青色の鱗が美しかった竜。レトの父であり、母であり、師匠であり、唯一の同胞であったエーレン。
エーレンが最後の息を吐き出すのを見守った直後、レトは思った。この島に縛り付けられている必要はもうないはずだ、と。
レトは、島の上を三度旋回し、心の中で別れを告げると、西に頭を向けて大きく羽ばたいた。魔法の風が翼に絡む。
かつて何度か試みて、そのたびにレトを引き留めた声はもうしない。
己の進む方向へしっかりと目を向ける。
振り返ることはしない。
西へ。
最果ての島から、中央へ。
かつては竜が支配し、今は人間が我が物顔であふれかえっているという世界の中心へ――
レトは、真っ直ぐに飛んでいった。