第四十六章 話を聞く順番
六月に入った。
ある日、凌は組合の事務所にいた。
机の上には、何枚かの紙が置かれていた。
その横で、一人の外国人が俯いていた。
話を聞いているのは、組合の先生だった。
「まず、いつのことですか?」
先生が尋ねる。
男性は少し考えてから答えた。
「たぶん……先月です」
「何月何日か、分かりますか?」
「分かりません」
「大丈夫です。スマートフォンに記録はありますか?」
男性は画面を開いた。
しかし、メッセージが多く、どこに何があるのか分からない。
先生は一緒に画面を見ながら、一つずつ確認していった。
凌は少し離れたところに座っていた。
しばらくして、男性が言った。
「もう、どうすればいいか分かりません」
その声には、疲れが混じっていた。
凌は顔を上げた。
その言葉を聞くのは、初めてではなかった。
自分も以前、何度も同じことを考えた。
どうすればいいのか分からない。
誰に聞けばいいのか分からない。
何を信じればいいのか分からない。
ただ、凌はそのあとに一つずつ確認してきた。
先生は男性に言った。
「今日は全部決めなくていいですよ」
男性は顔を上げた。
「まず、何があったのか整理しましょう」
その言葉を聞いて、凌は少し考えた。
話を聞く順番がある。
最初から結論を出そうとすると、途中で分からなくなる。
いつ。
どこで。
誰が。
何を言ったか。
何が起きたか。
そのとき、何を示すものがあるか。
そして、まだ分からないことは何か。
凌は自分のノートを開いた。
以前、自分の問題を整理するときに使っていた方法と似ていた。
先生が男性の話を聞き終える。
「林川さん、ちょっと見てもらえますか?」
凌は立ち上がった。
「はい」
先生は机の上の資料を指した。
「この人の話を、もう一度時系列にしてみてくれますか?」
凌は少し驚いた。
「僕がですか?」
「はい。分からないところは、分からないままで大丈夫です」
凌は椅子に座った。
紙を一枚取る。
一番上に日付を書いた。
その下に、男性が話した内容を並べていく。
六月三日。
会社から説明を受けた。
六月五日。
仕事の変更について話があった。
六月七日。
給料について問題があった。
ただし、六月五日の詳しい内容は本人の記憶だけだった。
凌は横に、
「要確認」
と書いた。
スマートフォンのメッセージを確認する。
該当する記録があった。
今度は、
「確認済み」
と書いた。
しばらくして、紙には三つの印が並んだ。
確認できたこと。
本人が話していること。
まだ確認できないこと。
凌は紙を先生に渡した。
先生はしばらく見ていた。
「こういう整理、できますね」
「仕事で似たことをやっていました」
「そうでしたね」
先生は紙を机の上に置いた。
「林川さん、こういうのを少し手伝ってもらえませんか」
凌はすぐには答えなかった。
「僕は法律の専門家じゃないですよ」
「それは分かっています」
先生は笑った。
「法律の判断をしてほしいわけではありません」
凌は黙って聞いた。
「本人の話を整理して、何が確認できていて、何がまだ分からないのかを見えるようにしてもらえると助かります」
凌はもう一度紙を見た。
それなら、自分にもできるかもしれない。
「分かりました」
そう答えた。
ただ、その直後に先生が言った。
「それと、もう一つお願いがあります」
「何ですか?」
「この人と少し話してみてもらえますか」
凌は男性を見る。
男性はまだ不安そうな顔をしていた。
「何を話せばいいですか?」
「答えを教えなくていいです」
先生は静かに言った。
「話を聞いてあげてください」
凌は少し考えた。
そして、男性の向かいに座った。
「僕も外国人なので、全部分かるわけではありません」
男性は黙って聞いていた。
「でも、分からないことを一つずつ確認することはできます」
男性は小さく頷いた。
凌は最初の質問をした。
「まず、最初に何があったのか、話してもらえますか?」
男性はゆっくり話し始めた。
凌は途中で遮らなかった。
分からないところだけ、後から確認した。
話を聞きながら、凌は思った。
自分ができることは、そんなに多くない。
法律を決めることもできない。
行政の判断を変えることもできない。
会社と交渉する権限もない。
それでも、話を聞くことはできる。
情報を整理することもできる。
必要なところへつなぐこともできる。
そして、本人が自分で判断できるように、材料を渡すことはできる。
男性が話し終えた。
「今日は、ありがとうございました」
凌は首を横に振った。
「こちらこそ」
帰る前に、先生が凌に言った。
「林川さんは、こういうときにあまり焦らないですね」
凌は少し考えた。
「僕も焦ります」
「そうですか?」
「はい。ただ、焦っても何も分からなくなるので」
先生は笑った。
「そこが、ほかの人と少し違うところかもしれませんね」
凌はその言葉を聞いても、すぐには意味を理解できなかった。
自分では、それが特別なことだとは思っていなかった。
分からなければ調べる。
調べても分からなければ聞く。
確認できないことは、確認できないままにする。
それだけだった。
帰り道、凌はそのことを考えていた。
もしかすると、自分がこれまで身につけてきたものは、工場の中だけで使うものではないのかもしれない。
そう思った。
けれど、まだ答えは出さなかった。
ただ、その日のノートに一行だけ書いた。
「人の話も、まず整理する。」
その下には、もう一行。
「決めるのは、その人自身。」
凌はノートを閉じた。




