名前は大切です
「そういえば、まだ聞いてなかったね。……あなたのお名前、なんていうの?」
私の話が一段落したところで、本題に入った。
少女の白くて長い耳が、ぴくりと跳ねる。
不安そうにゆれる丸い瞳が、私を映し出した。
壊れ物に触れるような静けさの中、私はもう一度、やわらかく微笑みかけて問いかけた。
「名前、教えてくれる?」
少女は一瞬、息を呑むように肩を揺らした。
喉を小さく震わせ、何度も口を開かけては閉じる。
小さな指先が、自分の胸元をぎゅっと握り締める。
私は急かすことなく、ただじっと、彼女の言葉を待った。
やがて
「名前……ない」
消えてしまいそうなか細い声。
……ん?
食堂が静まり返る。
私以外の人は知っていたのか、悲しげな表情を浮かべていた。
「獣人や半獣とは関わることがないと思っていたから、ユーリには教えていなかったが」
父様はそこで言葉を区切った。
「奴隷になった半獣は、名前を奪われるんだ」
それは、半獣に限ったことではなかった。
人間の奴隷もまた、同じらしい。
奴隷商に捕まるか、売られるかされた人は最初に契約書を書かされる。
内容は至ってシンプル。
自らの権利の剥奪。
それを可能にしているのが、奴隷商が用いる特殊な魔道具の契約書だ。
契約魔法が組み込まれた羊皮紙にサインをし、血判を押した瞬間、魔法が発動する。
その人の名前に関する記憶が、本人からも、家族や故郷の人々からも消えてしまうのだ。
名前を奪われる。
まさに、人間としての存在そのものを根底から消し去る、残酷な呪いだった。
──だから、物として扱っていたのか。
リグル伯爵は彼女を無機質な道具のように、引いて歩いていた。
底意地の悪そうな顔はハッキリと覚えている。
少女の視線が、宙を彷徨う。
自分の名前を思い出そうとしても、暗い海の底に沈んだように何も浮かんでこないのだろう。その瞳には、深い孤独と恐れが揺れていた。
細い指が胸元の服を強く掴む。
私はそんな少女を見つめ、静かに口を開いた。
「思い出せないなら、もう探さなくていいよ」
少女の白い耳が、ぴくりと跳ねた。
「私には貴女の過去を取り戻せないけど、未来は作れる」
鎖で繋がれ続けた人生。
どこへ行くことも許されず、誰かに命じられるままに生きるしかなかった日々。
自由を知らず、冷たい鉄の感触だけを信じ込まされてきた。
未来なんてない。変わることのない毎日が、そこにあるだけ。
宙を彷徨っていた瞳に私の姿が映る。
時間を巻き戻すなんて、そんなことは誰にも出来はしない。
失った事実が消えることもない。
だからこそ人は、過去を背負って生きていくしかないのだ。
でも、過去が戻らなくても、これからの未来に、新しいものを刻むことは出来る。
私は少女を見つめた。
うさぎの半獣。うさぎ……ラビット。
「貴女の名前。ラビなんてどうかな?」
「待てユーリ!!半獣に名前を与えるのは……」
「ラビ……」
初めて手にした宝物を、そっと口にするように。
「私の名前……ラビ」
白くて長い耳が、嬉しそうにパタパタと揺れる。
口元は、ほんの僅かな笑みが浮かんでいた。
その瞬間。鈴を鳴らしたような澄んだ音が、食堂に響いた。
私の胸元から、淡い光が溢れ出す。
それは一本の透明な鎖となって伸び、少女……ラビの胸元へと繋がった。
鎖はすぐに見えなくなったので、目の錯覚。気のせいと思おうとした。
けれど、私の動揺をよそに、父様は頭を抱えていた。
うーん。またも、やらかしてしまったようだ。
「ユーリ……」
その声には、なんかもう色々な感情が含まれていた。
困惑。呆れ。諦め。
「えっと、私……悪いことした?」
「ユーリがたった今、行ったのは奴隷の刻印ではなく、魂の従属契約」
こめかみを指で押さえながら、まるで頭痛を堪えるかのように痛切なため息を吐き出した。
「名前を奪われた者に名前を与える行為は、名付けの契りになる」
「名付けの契り?」
「簡単に言えば、名を与えた者と、与えられた者の間に、魂の従属契約が結ばれる」
「なるほど。従属契約か」
…………。
「え?」
名付けの契り。
最上位魔物が真名で呼ばれて命令されると従えないように、ラビもまた、私の言葉に逆らえなくなってしまった。
ただ、魔物との服従とは根本的に違うらしい。
名付けの契りによって結ばれた従属は、契約者本人の言葉にしか反応しない。
つまりラビはこれから先、名を与えた私だけの言葉にしか、絶対に従わなくなる。
他の誰が何を命じようと、どれほど強力な奴隷魔法や精神魔術を使われようと上書きできない、世界でたった一つの魂の絶対服従。
失敗すれば名を与えた側が魂を焼き切られる。
だから、名前を奪うだけなのだ。
危険を冒してまで、名付けを行おうとする者など、この世界には存在しない。
奴隷に付けられる首輪からは電流が流れ、痛みで従わせられるから。
わざわざ自らの命を危険に晒してまで、魂の契りを結ぶ必要などないのだ。
父様の説明を聞けば聞くほど、背中に冷たい汗が伝っていく。
さっき見えた透明な鎖は、気のせいなんかじゃなかったんだ。
己の無知を内心で絶叫しながら青ざめる私をよそに、ラビは自分の胸元を慈しむように、そっと撫でていた。
不安そうに揺れていた瞳には、もう暗い海の底のような深淵はない。
澄み切った瞳で私をじっと見つめ、白くて長い耳を嬉しそうにぴこぴこと動かしている。
「契約をなかったことにするのは……」
「無理だな」
「だよねー」
ラビはどこまで理解しているのか、可愛らしい顔で首を傾げていた。
「(だが、名付けの契りは誰でも成功するわけではない。本当にこの子は、規格外だな)」
父様は表情こそ崩さないものの、考えることを放棄したそうだった。
ごめんね、父様。悪気はなかったんだよ。
無知とは本当に恐ろしい。私はただ、失われた過去の代わりに新しい未来をプレゼントしたかっただけなのに。
名前を失ったこの子にもう一度、自分だけの名前を。
これから先、その名前と一緒に新しい人生を歩んでいけるように。
そんな、ささやかな願いだった。
それなのに。とんでもないことをしてしまった気がするのだけれど。
いや、気がするではない。とんでもないことを、してしまったのだ。
私はただ、この子に名前を贈りたかっただけなのに。
予想外の展開に、頭の中がぐるぐると渦を巻いて思考がまとまらない。
奴隷という理不尽な鎖を断ち切って、これからの未来を自分の足で歩んでほしくて差し出した「ラビ」という名前。
それがまさか、奴隷の刻印など比べものにならないほど強固で、誰の介入も許さない、私だけの従属契約になってしまうなんて誰が思うだろう。
「ラビ……。名前、貰った。ユーリ様から」
さっきまでの消えてしまいそうだった不安な表情は嘘のように吹き飛び、白くて長い耳が、まるで喜びを全身で表現するかのようにぴこぴこと嬉しそうに跳ねている。
初めてのプレゼントに喜ぶ子供みたい。
純粋でどこまでも澄んだ笑顔。
きっと、私のしたことは褒められたことではないのだろう。
知らなかったとはいえ、軽々しく手を出していい領域ではなかったし、父様の胃に甚大なダメージを与えてしまったのも事実だ。
少なくとも私は、名前を贈ったことだけは後悔していない。
重い契約だろうが従属だろうが、彼女がこんなにも嬉しそうに笑ってくれているのなら、結果オーライということでいいんじゃないだろうか。
それにしても、何かがおかしい。
本来の“私”は“ななし”
誰の目に触れることもなく人知れず死んでいく、ただの背景のひとコマでしかなかったはずだ
それなの、なぜ?
四体の最上位魔物と神獣からの服従に加えて、成功例がほとんどない名付けの契りまで成功させてしまっているのか。
偶然にしては、出来すぎている。
まるで、私の知らないところで、何かが私を中心に動いているような。
そんな、得体の知れない感覚があった。
もちろん、そんなことを考えても答えなんて出るはずがない。
この世界はもう、原作のストーリーなんて跡形もなく崩れ去っている(と思う)。
原作を読んでいない私に、全てがそうだとは言い切れないけど。
偶然の奇跡が、私を生かしてくれたことに感謝している。
でももしも、誰かが私という存在の“枠組み”を根本から書き換え、あり得ないほどの力を無理やり押し込んでいるとしたら?
最初から存在しなかったはずの力を与えてら本来なら出会うはずのなかった存在と引き合わせた。
一体、誰が何のためにそんなことをしているのか。
胸の奥に、拭いきれない違和感だけが残っていた。
私はその不穏な影を振り払うことができないまま、静かに息を呑んだ。




