Ⅳ ベッカと愉快な仲間達
翌日から僕はてんてこまいだった。正直、女装舐めてた。化粧は手間だし、服装は動きにくいし、どれだけ早起きしても時間が足りない。
ちなみに、翌朝、その前の晩から落ち込んだまま、もっと貶められたい気分でアルフレドを鞄からひっぱりだしたら、何も言わずに短い前足で目を覆っていた。指さして笑われるのを期待していたのに拍子抜けした。
でも、そこまで僕の女装はひどくないと思う。皆すっかり騙されてるし。
おまけに僕がいくら大富豪だといっても【裏返しの世界】にずっといられるわけじゃない。期間制限。これが滞在する際の制約の一つだ。時間がないのにやることばかり、というわけで、これから重要だった出来事だけ触れることにする。
人生において何が重要かといえばやはり人との出会いというわけで、僕の短い滞在中の大きな出来事も、牛女ことユミンガルドとボルダレスのダナル、それから新聞をくれた女性と出会った話となる。
(1)ユミンガルド
ユミンガルドと出会ったのは、女学校潜入二日目の夕方のことだ。僕は新入りだからシエラより先に仕事をあがらせてもらえた。部屋に戻って着替えようとした瞬間、ノックが聞こえた。
(いる?)
僕はあわてて服をかぶりなおし、ドアに駆け寄った。勢いよく開いた正面には誰もいない。
「ふぇ?」
その代わり、横から間の抜けた声がした。叩かれていたのは僕の部屋のドアじゃなくて、シエラのだった。そして叩いていたのは、背の低い女の子だ。手を持ち上げた格好のまま、彼女はからくりのような動きでこちらに顔を向けた。
赤茶色の巻き毛が童顔を囲んでいて、なんだか小動物とか赤ちゃん人形っぽい印象だ。大きな目がべそをかいているように垂れているけれど、別に泣いていたわけではないらしい。
(……シエラ、いない)
「そうなのぉ? いつ戻るか知ってるぅー?」
試しに叩いて見ると、女の子は即座に返事をした。まさか、この女学校では電報信号の授業があるのか? 僕にとっては幸運だけど、声を出さなくてもコミュニケーションがとれる意外な事実に、僕は瞬きを繰り返した。
「ユミンガルド、ユミンだよぉー」
とりあえず階段に座らせると、女の子はえくぼを浮かべて自己紹介した。聞き覚えがある名前だと思ったら前の日に机に落書きされていた子だ。
牛女。なるほど。
僕は彼女の胸を見て納得した。太っているというわけではないけれど、シエラと違ってぽっちゃり系というかグラマーな体つきなのだ。
「ユミンのお父さんはねぇ船長さんなのぉ。だからユミンも電報信号がわかるんだよぉー」
シエラのお父さんも船長さんだったからぁーわたしたちなかよくなったんだよぉー。ユミンガルドは喋りながらにこにこと笑った。ここまででなくてもいいから、シエラもちょっとこの表情筋のゆるさを見習うべきだろう。
『船長だった』との言葉どおり、シエラの父はシエラがこの女学校に入った後に亡くなっている。シエラの母はそのずっと前に死亡しており、シエラは正真正銘の天涯孤独の身なのだった。
(私はギ、ベッカ。)
ユミンガルドが快く持っていたノートを提供してくれたので、僕はノックする代わりに筆談をした。【裏返しの世界】では文章を書く向きも逆だから、ことさらゆっくりと書く。それなのに名前を間違えそうになって消して書き直し、だめ押しに「ベッカ」の周りに二重丸をつけた。
「よろしくねぇベッカ。あのねぇーベッカが知ってたら教えてほしいんだけどぉ、シエラのほしいものってなにかなぁー?」
それ僕が知りたい。反射的にそう思ったけれど、僕は首を傾げて見せることでもっと聞きたいという姿勢を見せてみた。情報収集がいまのところ再重要事項だ。
「ユミンはねぇ、お勉強もできないしぃーリンキン先生とかにおこられてばっかりなのぉ。いつもシエラが助けてくれるからぁ、お礼したいのぉ。でもシエラに聞いたら『気持ちだけで十分よユミン』って言われるだけでぇ、なにしてあげたらいいかわかんないんだよねぇー」
その気持ちはよくわかるよユミン。僕は勝手に初対面の女の子を同志認定して、協力することにした。一つの頭より二つの頭だろう。しかし頭を使おうとすると余計空腹になる……と僕はノートをひっつかむと猛然と書いた。
(シエラ、おなかすいてる)
「そうなのぉ!? ぜんぜんわかんなかったよぉ!」
僕の言うこと信じろよ。僕はとりあえず、書いた文章の下に線を引いて、ペンで叩いた。
(すいてる)
「そうなんだぁ! えっ、とね、そうだぁ、ユミンねぇ、このまえ、お父さんからいろいろ送ってもらったのぉー。甘いワインでしょ? あとオレンジの砂糖漬けとかぁクッキーとかぁ! いまもってくるねぇ! すごいねぇ、ベッカ! シエラ、ユミンには言ってくれないからわかんなかったよぉ! ありがとねぇ、ベッカ!」
ユミンが、ばっと立ち上がって大声を出したものだから、僕は片手で口を押さえ、もう片手の人差し指を口の前に立てた。ユミンは自分の両手でも口を押さえて、意外と器用にウィンクをすると階段を駆け降りていった。足音が消せてないけど、大丈夫か。
かわいいなぁ、と思う。あんな妹いたらいいなぁーみたいな。話し方ゆるゆるだしあんまり賢くはなさそうだけど、だからなんとなくリンキン……いや陰険野郎に気に入られないのもいじめられるのもわかる気がするけど、でも気だてが良さそうな子だ。勉強ができるということよりも、人に親切にできるということが、よっぽどすばらしい。
そういう子がシエラの周りにいてくれてよかった。あとユミン、絵がうまい。忘れられたノートを勝手に見て、僕は感心した。走り描きみたいなものにも空気があるというか、センスを感じる。
ユミンが戻ってきたらノートを返して、それから部屋でアルフレドと対策会議を開く予定だったのだが、なぜかその後ユミンに招待され、僕はシエラと一緒にユミンの手土産の相伴に預かった。そして、シエラの部屋でユミン持参のおやつを分け合うひとときは、僕の滞在中恒例化することとなる。
(2)ダナル
ボルダレスと呼ばれる人々がいる。
『境なき』というのがその名の由縁だ。ボルダレスにとっては世界に表裏などなく、継ぎ目なく合わさった一つの完全な世界だけがある。だから、他の人間達――どちらか一方の世界にしか属さない多数派――が【裏返しの世界】に行くときに直面する障害は彼らにまったく関係ない。彼らには【半身】もいない。
皮肉なことに、どちらの世界も自由に行き来できるということが、どちらにも所属できないという結果を生み、どちらの世界においてもボルダレスは多数派による迫害を受けてきた。しかし、いや、だからこそ彼らは強く団結し、特異な能力や技能を活かして脈々と一族の血を繋げている。
僕がこちらの世界に来る際に助けを求めたのもボルダレスだし、そのことがなくても僕は常々彼らを尊敬してきた。
でもその敬意も今日で消え失せるかも。
僕はうんざりしながら、声をかけてきた相手を見やった。冬の最中に、見ている方が寒くなるほどの軽装の同年代の男。そこから覗く色黒の肌を埋める文様とも文字ともいえない入れ墨はボルダレスの証だ。
「なあ、名前なんていうんだ? 新入りだろ? なんか困っていることあんなら手伝ってやるよ。あっ俺ダナルっていうんだけど」
かぶりを振って行き過ぎようとしたが、奴はしつこく付いてくる。
「なあ、ちょっとくらい話したって怒られやしねえって。灰色……銀色の髪って珍しいな? 白髪か?」
面倒になって、僕は勘違い男の手をむんずと握りしめた。
「おっ」
なに嬉しそうな声出してんだバカ野郎。蹴りとばすぞ。
手を引いて入り込んだ路地裏に人っ子ひとりいないことを確かめてから、僕は口を開いた。
「僕、男だけど」
「ハアアアア!?」
「いや、こっちこそハアアですよダナルさん。ボルダレスってのにそんな目が節穴のうすらボケで大丈夫なんですか? 大丈夫じゃないですよね? もうがっかりですよ。がっかりですよ!」
「なに二回も言ってんだよ! 女学校の召使が女装した男だとかふつう思わねーし! っていうかお前がムダに綺麗な顔してんのが悪りいんじゃねえの?! 俺より背があるしやけに骨格のしっかりした女だなーとは思ったけど」
「あー……お褒めいただき幸いですぅ?」
なんと言えばいいかわからずとりあえず返したらユミンガルドみたいになった。仕切り直すために咳払いをする。
「えーダナルさん、その入れ墨は本物なんですか? あんた本当にボルダレスなんですか?」
「なんだよ疑うってのか!?」
「だって僕こっちの世界に来るときにボルダレスのお世話になってるから……死魔の動向を押さえとくために【ヴィジター】は把握しておく、そういう話でしたけど?」
死魔は、実はその名前ほどおどろおどろしい存在ではない。その闇のような外見と、ときに突如として人を襲うことから、以前は怪物扱いされていたが、いまはその行動原理がそれぞれの世界に悪影響を及ぼすものを排除することであると判明している。自浄作用の一環とでも言おうか、それぞれの世界を守るための掃除屋のようなものだ。
まあその効果が全体にとっての善であるにしろ、襲われる方にはたまったものではない。理由さえあれば、死魔は対象の息の根を止めるまで襲撃し続けるからだ。
僕がこちらの世界に長期間滞在できない訳の一つも死魔だ。自分の本来属する世界から【裏返しの世界】へと移動した【ヴィジター】は、【裏返しの世界】に災禍を発生させる異物となり、死魔による排除の対象となる。世界間移動のコストとリスクのうちの一つだ。
死魔といえば、【茨鎖の錘】に絡みつかれた人間を死魔が襲うという母の懸念について、僕は最初、空言に過ぎないと思っていた。そもそも呪いなんて信じていなかったし。こちらに来たのは、母と約束したからというより自分の【半身】の状況を少しでも楽にしてやりたいという傲岸不遜な思いがあったからだ。でもシエラの最近の急転落ときたら、【茨鎖の錘】には本当に言われているような効果があるのかもと思わせる。とすれば、シエラが死魔に襲われる前に僕はなんとかしないといけない。
話を戻す。
人々の世界間移動させることによって収入の多くを得ているボルダレスにとっては、【ヴィジター】を作り出さないわけにはいかない。かといって、【ヴィジター】による災禍を見過ごすわけにもいかない。というわけで、死魔の存在を前提として、世界間移動ビジネスを行っている。各世界にいる【ヴィジター】の数と滞在日数を限定し、その全員の人相と所在地を把握する。時には死魔の襲撃からの護衛をして追加料金を加算する。そういう仕組みだ。
「灰色の髪……緑の眼、の、十代の、男……あーっ、お前ギっ!」
ダナルは指折りぽつぽつ数えていたが、思い当たったのか大声をあげた。とっさに手を口に押しつけて塞ぐ。
「早く移動したいからって料金の十倍払ったうえに、こっちで一等地の豪邸を即金でぽんと買った奴! なんか天秤傾けて一晩で大富豪になったとかいう噂の! お前か!?」
「買ったのは家だけじゃないですけどね、正解です」
「お前、女装してなにしてんの……? まさかとは思うけど女装するためにこっち来たとかねえよな?」
「ない。断じてない」
声は抑えてくれたものの、ひそひそとしょうもないことを囁いてくるダナルに僕は溜息をついた。
「こんな格好するのは予定外でしたし、思ったより目標達成への道が険しくて難航してます。あと、喋れないっていう設定も後付けしちゃったんで動きにくくて仕方ない。なのでダナル、君ちょっと僕に雇われて手足の代わりに動いてください」
「ハア?」
「あっ君、拒否権ないですよ。断ったらボルダレスの皆さんにダナル君が僕に一目惚れしてつきまとってきて困ったっていう話をさせて頂きますから」
「ハアア!?」
またもや絶叫するダナルの相手をするのにも時間がないので、僕は手に持っていた籠からぬいぐるみを掴み出すとむんずと押しつけた。
「詳しいことは、このアルフレドに聞いて」
「ちょっとぼっちゃん! 吾輩なしでこちらの世界の読み書きとかどうなさるのです!」
黒いもこもこ羊が騒ぐ。
「左から右じゃなくて右から左だろ! もうわかったし。なんかあったらセバスチアンに聞くから!」
僕は、服のポケットからアルフレドよりひとまわり小さな白い羊のぬいぐるみを引っ張りだした。
「そうですぞアルフレド! 殿のことはわたくしめが完璧にお世話いたしますから、ご自分はそちらの若造とせいぜい精一杯努力するがいいですぞ」
「これからよろしくねセバスチアン、でもお前が口を出すとめんどくさくなるからちょっと待ってて。アルフレド、お前にしか頼めないんだやってくれるよな? ダナル、急に申し訳ないけどその羊の言うことを聞いて動いてくれるよね? お金はアルフレドが支払うから!」
肉屋とパン屋におつかいに行ってくるだけのはずだったのに、予想外の出来事に時間をかけすぎた。アルフレドとダナルが何か言っているのが背後から聞こえてきたが、僕は籠にセバスチアンをつっこんで店に向かって全力疾走を開始した。
ひょんなことから僕の手駒になったダナルが、その知り合ったきっかけはともかく、なかなか有用な人材だったのはおいおい明らかになったことである。
(3)新聞をくれた女性
「大嫌いよ」
シエラははっきりとそう言った。
女性に渡された新聞を読んで、痛みをこらえるように喉元を押さえながら。
誰も不幸せになろうと思って生きているわけではないのに、シエラにはあまりにも不幸が似合う。