Ⅲ 屋根裏部屋のお隣さん
数時間後、僕はシエラと同じ屋根の下にいた。少しばかりの変装をして、湯水のようにお金を使えばおどろくほど簡単に事は運ぶ。お金というのは使いどころを間違えなければ、なによりも味方になってくれる……とは昔アルフレドが言っていた台詞だ。
「ここがあなたの部屋よ、ベッカ」
僕をここまで連れてきた年配の女教師が振り返る。小さな屋根裏部屋だった。屋根の勾配のせいで天井は傾き、壁は大昔に塗料がはげた寒々しい灰色。窓からは隣の建物の屋根と壁しか見えない。部屋の隅に中身がところどころ剥き出しになったマットレスが放り出されている。掛布はない。机も椅子もラグもない。ランプもない。
存在しないものを数えていた僕は、女教師が返事を待っているのになかなか気づかなかった。目をおどおどとさまよわせ、そっと喉元に手を持ってくる。きつく糊をきかせた詰め襟が指に触れた。
「そういえば喋れないんだったわね。耳は聞こえるの?」
いらいらと訊ねる彼女にあわててうなずく。来たばかりで機嫌を損ねたくはなかったが、もう手遅れのようだった。
「荷物を置いたらさっさと階下に来なさい、わかったわね?」
もう一度あわてて首を縦に振るのを見届けて、女教師は衣擦れの音と共に足早に去っていった。意思の疎通に難がある厄介な召使との今後を想像したのだろう。誰が好き好んで喋れない少女を雇うものか、と後姿が声高に宣言していた。
そう、少女。
僕は女装している。
アルフレドが入ったままの旅行鞄をマットレスの横に置き、部屋の中央で一回転してみた。粗末ながら、少しはタックのとってあるスカートが足首の上あたりでふわりと回る。髪の毛は、ヘッドドレスだかボンネットだか、とにかく頭にかぶる白いレースの何かに押し込んであるように見せている。時間があれば鬘を買ったのだが、もともとの髪と同じ色を探す時間がなかった。眉毛を少々抜いて細く、加えて軽く化粧もして多少塗ったり描いたりもした。喉仏は詰め襟で包んで隠している。
身長は、まだ成長期が終わっていないから女性にしては高め、程度だが、声変わりが終わってしまっているのはどうしようもない。なので、喋れないという設定である。それに【裏返しの世界】ではアクセントが異なる単語も多く、話さない方が楽でもあった。
アルフレドが見たら、きっと苦渋に満ちた声で僕をたしなめたことだろう。だからまだ鞄は一回も開けていない。しばらく開けるつもりもない。
僕は、女教師――この女学校の校長でリンキン先生という――に連れられて、学校を回った。食堂、台所、応接室、遊技室、教室。シエラは、ちょうど教室の片づけをしているところだった。
「シエラ、こちら新入りのベッカよ。喋れないけど、どうにかして仕事を教えてやってちょうだい」
シエラは生徒の机を拭いていた手を止めて、僕の前までやってきた。鼻の頭に薄いそばかすが散っているのが見えるほどの距離。初めて、こんなに近くで僕の【半身】を見た。
まっすぐな黒い髪、どこか遠くを眺めているような濃い緑の目。栄養と睡眠の両方が足りていないのだろう、青白い肌に目の下の隈がくっきりと濃い。同年代の少女に比べて背は高めで、僕より少し低いくらいか同じくらい。長い手足が小さくなってしまった服から飛び出しているように見える。
「耳は聞こえる?」
シエラが僕に話しかけた記念すべき第一声はそれだった。観察に気がとられていたから、妙に焦ってうなずいた。
シエラは髪を耳の後ろにかけて続けた。
「私はシエラ・クルー。一緒に働けることになってうれしいわ。どうぞよろしくね、ベッカ」
言葉は丁寧だけれど、表情がない。笑えばいいのに、と僕はもう何百回目にもなる言葉を心の中だけで呟いた。こんなに近くにいたのは初めてだけど、それでも願いは届かず、シエラは女教師に視線をずらした。
「リンキン先生、ユミンガルドの机に落書きがされています」
「それが?」
「あまりにもひどい内容です。……やめさせていただけませんか」
せかせかと歩き回っていたリンキン先生は、シエラが拭いていた机を見下ろした。僕も首を伸ばして、何が書いてあるのか見た。グズ、のろま、低脳児、牛女。悪口のオンパレードだ。いったいどんな子なのか、逆に興味がわく。
「ふん。こういう目にあうのにはあの子にも原因があるのよ。私が言う通りに生活態度を改めてきちんと勉強すれば、こんな真似はされません」
「リンキン先生、先生の仰いようだとユミンガルドに一方的に非があるように聞こえます。持ち物を隠したり、誹謗中傷したり、そういうことをする側はなんのお咎めもなしですか?」
シエラが静かな声でそう言った途端、リンキン先生がシエラの体をつかんでゆすぶった。
「偉そうに指図して! シエラお嬢様は誰かが薔薇を送ってきたからって調子に乗ってるみたいだね!」
「そんなことはありません」
それまで上品ぶった振る舞いをしていた年輩女性の豹変と、先刻の失敗のまさかの波及効果に、僕は動転して固まった。
「自分宛の贈り物を取り上げられた、ってご不満なんだろう。でもね、宛名がついてたかなんだか知らないが、あんな花、お前の未払いの授業料の額に比べたらなんでもないよ。差出人に心当たりがないってのは本当だろうね? 知ってるのに黙ってるんだったらタダじゃおかないから。それにしても花じゃなくって、さっさと立替払いをしてほしいよ私は。お前って子は、身の程知らずにも大損をさせたあたしにこんなに世話になってるのに口だけは達者で嫌になる。罰としてシエラ、今日の夕食は抜きだよ」
「はい先生」
目を伏せたシエラを置いて、僕はリンキン野郎にひったてられていった。自分のふがいなさに歯噛みしながら。
やっとのことで部屋に戻ると、僕は溜息を狭い部屋中に響かせた。目の前で暴力沙汰があったのに止められなかった、よく見たら応接室に飾られていたのが僕の役立たずの花だった、台所でずっと馬鈴薯を山ほど剥くことになり結局あの後シエラと会う機会はなかった、夕食として出されたスープは薄すぎて味がなかった、ひさしぶりの労働でくたくただ、部屋が現在進行形で寒い。
嫌なことを数えはじめるとあっという間に片手の指では足りなくなって、明日からの展望すら真っ暗な気持ちになる。一日目でこれじゃあどうしようもないので、僕はもう片手で目標を数えた。
この世界に来た目的は二つ。【茨鎖の錘】の解呪に『シエラを幸せにすること』。二本の指を折ったまま僕は力なく笑ってしまった。もしも【茨鎖の錘】の効果が本物で、呪いを解かなきゃ幸せになれないとしたら、目標は実質一つだ。だけど、この目標ときたら。
母のしたことを前よりわかってあげられる気がした。
何が他人にとって幸せかなんてわかりようがない。だから手当たり次第挑戦するのだ。どんな愚かなことだって。呪いをかけたり、役立たずどころか災厄を招く花を贈ったり、似合わない女装をして女学校に潜入したり。
『幸せにする』。思っていたより、それが難しいことを僕はやっと実感しはじめていた。眉唾ものだけど、僕とシエラの運を反転させている、のかもしれない【茨鎖の錘】という条件に加え、僕の【裏返しの世界】での滞在には幾つかの制約がある。
そんな状況なのに、よくもぬけぬけとアルフレドに大口を叩いたものだ。
僕は数時間前の自分の言動が恥ずかしすぎて、思わず壁を殴り……そうになり、危ういところで力を抜いた。
その代わり、トン、と額を壁につける。その音すらよく響いて、心底叩かなくてよかったと思った。こんな薄い壁、簡単に穴が開きそうだ。
トン、トン、トン。
壁の向こうから短いノックが聞こえた。僕の心臓が跳ねる。同じようにノックを返そうとして、ふとした思いつきで、電報を送る際の長打と短打を使った信号を送ってみた。
(シ、エ、ラ、?)
トン、と肯定するように返事があった。それから、ちょっとの間をおいて。
(……ベ、ッ、……カ)
ありがとう運の女神マリアハル。感謝の念を捧げつつ、勢いづいた僕は次の質問を投げる。
(おなか、すいてる?)
トントン。二回連続のノックは、多分、否定だ。
(お、や、す、み)
(……おやすみ)
会話を否応なく打ち切る挨拶に、僕はしぶしぶ同じ挨拶を返した。シエラの気が変わってまた何か呟くことがないかと冷たい耳を壁に付けてしばらく待っていたけれど、もうその夜、壁が叩かれることはなかった。
とうとうあきらめて湿ってかび臭いマットレスの上で丸まりながら、僕は心の中で備忘録をつける。
育ち盛りで、夕食抜きで、あれだけ働けば、空腹じゃないわけないのに。
シエラは、受け取るのが下手だ。




