Ⅱ 彼女の名はシエラ・クルー
首都ラハイラムの朝は早い。
まだ星のきらめく寒空の下、大教会の鐘の音が中央広場から街中に広がっていく。それが合図のように人々が屋外に姿を現しはじめ、一刻もしないうちにすべての街角に喧噪が満ちる。
(……笑わなかったなあ)
僕は双眼鏡を下ろして、人の往来が増えてきた道の観察を止めた。
時刻は朝六時少し前、立ち並んだ瓦斯燈が消えはじめた頃だ。向かいの女学校から出てきた少女は石畳の上に置かれた薔薇を抱え上げたものの、数度辺りを見回しただけで勝手口にすぐ姿を消してしまった。
「どうでした、ぼっちゃん」
「だめだった」
そうでしょう吾輩の言ったとおりでしょう、と羊のぬいぐるみが偉そうに胸を張った。黒くてもこもこの丸い体、白い顔につぶらな瞳。見た目はかわいらしいのに、やけに渋くていい声とでかい態度が気に障る。いらっとしたまま窓枠につまみあげて、顎をのせて潰してやった。
「ちょっ、ぼっちゃん! ギブですギブ! いやわかります、淑女に花を贈るのは紳士のたしなみですからな。ですからこのアルフレド、ぼっちゃんのなさったことをけして否定しているわけではないのです、ですから離していただきたいですな!」
よじよじと体をひねるので、顔がくすぐったい。我慢できずに離してやると、羊は短い手足で体についた埃をはらった。
「しかし人間の三大需要といえば衣・食・住。ぼっちゃんのプレゼントはそのどれにもあてはまらない。やはりこの場合は見当違いなのではないですかな」
「まあね」
認める。アルフレドの意見はもっともだ。僕だって考えなかったわけではない。防寒着とか食べ物とか、もっと実用的なものを。花なんて、なんの役にも立たないとわかっている。
「でもそもそも最初は女学校の生徒っていう話だったから! なのに! なにがどうしていつのまに召使になっちゃってるの!」
「授業料等すべての遺産を預けていた銀行が倒産してあっと言う間に無一文になったからでしょう。【茨鎖の錘】の一効果ではないですかな。ぼっちゃんが橋から飛び降りても傷一つなかったときはさすが運の強い方だと感心いたしましたが、彼女の転落が代償だったのでは? いやあ、見上げた疫病神っぷりですな」
「やめてあれ迷信でしょ……こんなんじゃ顔向けできない……」
頭を抱えて僕はうめいた。【茨鎖の錘】なんて迷信のはずだったのに。僕だって、彼女が召使いとしてこき使われていると知っていたら、唐突に花を贈るような真似はしなかった。空回りっぷりが悲惨すぎて、他人事だったら確実に笑う。
いつのまにか、時刻は六時。ここ【裏返しの世界】と僕が生まれ育った世界――僕の属する世界――の時間の表示が一緒になる数少ないタイミングだ。【裏返しの世界】の時計の針の進み方は、僕にとっての反時計回りだから、僕はいまだに混乱する。
【裏返しの世界】は、僕の属する世界の裏側にある。
【裏返しの世界】では、僕の属する世界が裏側になる。
どちらが表でどちらが裏かの論争はさて置くとして、裏側というのが実際どういうことかの説明は、言葉では難しい。うまく言えないけれど、たとえば水面に逆さまに映っている景色、あれが目を凝らしたら実は鏡像ではなくて、細部が微妙に違う別物だったという感じだ。
天秤橋のかかるアルシ河、その穏やかな川面を挟むようにして二つの世界は背中合わせになっている。面積も、文化の発展程度も、そして住人もほぼ同じ。そんなわけで、【裏返しの世界】を、その昔は【鏡の向こう】と呼んでいたらしい。
そして、鏡の前に立てば自分の写し身が映るように、【裏返しの世界】には【半身】がいる。自分の【半身】とは自分の対になる存在だ。魂の糸で結ばれた、運を分かち合う人間。そこで例の慣用句が生み出された。『天秤を傾ける』。
多分、人々は自分とその【半身】を、一本の糸の両側につけられた錘のようなものだと想像したのだ。一方が下がれば、一方が上がる。【半身】の不幸は、ご愁傷さまだけれど自分にとっての蜜の味。幸運と不運の絶妙なバランス。
そんなわけで昔は、もう一つの世界を征服したら自分の住んでいる側の世界の暮らしが良くなるはずだからとお互いを侵略するための無駄な試みが何度もなされたりしたらしい。今では、そんな幸運・不運バランス説に根拠がないことはもちろん、世界間移送のコストとリスクが高すぎて征服しても割に合わないことも判明して、二つの世界はゆるゆると共存の道を歩んでいる。共存というよりは、外交上の必要性か金持ちの道楽を除いて、互いにさほど積極的には干渉していないというのが現状だ。
ここで出てくるのが、僕の愛すべきばかな母親だ。自分の母親でなくて、僕のことを慈しみ育ててくれたという記憶がなければ、形容詞は「ばかな」だけになってしまうだろう。母はまだ若い頃に勤め先の成金貴族の御曹司に手をつけられて僕を身ごもった。その後細々と暮らしていた母子に転機が訪れたのは、その成金貴族の血筋が不慮の事故によってあわや絶えそうになったときだった。こんな僕でも直系ということで、きらびやかな馬車が下町まで迎えにやってきた。そして僕達二人の生活は一変してしまったのだ。
一瞬にして大金持ちになったことと引き替えに、僕の生活は急に忙しくなった。外国語、数学、礼儀作法に舞踏。母と引き離されて僕もさみしかったけれど、することがたくさんあったぶん、ましな状況だったようだ。お飾りとしてつれてこられ、息子との触れ合いを絶たれた母はふさぎ込みがちだった、と後から聞いた。
そして、ぽっと出の邪魔者である僕の暗殺未遂事件が起こった。幸運なことに僕は怪我ひとつ負わなかったし、黒幕もすぐ見つかってしかるべき制裁が加えられた。
でも母は狂った。僕のことを異常なほどに心配し、すべての可能性から僕を守ろうとするようになった。そんな彼女はいつしか、ある古い呪術のことを思い出す。
【茨鎖の錘】とそれは呼ばれる。
それ以外の名前もあるけれど、この名前が一般的なのはその見た目ゆえだろう。この呪いを掛けられた人間の体には、茨の鎖が浮かびでるという。絡みつかれた対象を沈める錘だ。【裏返しの世界】の【半身】に掛ければ、【半身】が沈むだけ自分の運気が上昇する。そういう触れ込みである。
母は、その呪詛を僕の【半身】に掛けた。
ばかである。
たくさんの金を積んで、そんな不確定で罪深い所業を行うなんて。僕の運気を高めるために。天秤を傾けるために。実際に効果なんて無いだろうに。
その分の費用をたとえば腕利きの護衛に使った方がどんなに有意義だっただろうかと思う。でも弁護するならば、僕しかもう彼女を弁護できる者はいないからさせてもらうけれど、母は精神を病んでいたのだ。何をしてでも息子を守りたいという一念だけで、その結果を考えることもせずに動いていたのだ。その気持ちについては、僕はありがたく思うことにしている。だって死者をもう鞭打つことはできない。
母は、死の床で、わずかに正気を取り戻した際に懺悔した。
(どうしよう、あの女の子、死魔の餌食になっちゃう)
(鎖がどんどん絡みついて)
(どうしよう、ギイ、わたしあの子を殺してしまうわ)
大丈夫、と僕は母の熱い手を握った。貧しさに二人で身を寄せあっていたときも、都の有数の職人の手になる装飾品で飾りたてられていたときも、少女の面影を失うことがなかった母。その艶を失ってしまった黒髪が敷布にこすれた。熱に浮かされて潤んだ緑の瞳を覗きこんで、僕は約束した。
(僕がなんとかする)
(なんとかするよ、母さん)
(だから、僕の【半身】についてもっと教えて)
そして、母の葬儀を終えた後、僕は【裏返しの世界】に飛び込んだ。
一回目の挑戦はあえなく失敗。
でも、僕は、彼女に笑ってほしい。口に入れてしまったらすぐに消化されてしまう一瞬の快楽じゃなくて、冬の最中に咲き誇る花に目を留めて微笑むような、そんな心の余裕を贈りたい。何年経っても心を暖めるような記憶をあげたい。
【裏返しの世界】の僕の【半身】に。
僕はきびすをかえすと、クローゼットから古びた旅行鞄を取り出した。とりあえず必要そうなものをぽいぽいと放り込む。暖かな毛皮のスリッパ、子羊からとった毛糸の膝掛け、携帯用の湯沸かしに蝋燭、そして袋いっぱいのミンスパイ。
「ぼっちゃん、いったい何をなさりたいんです?」
アルフレドは困惑気味につぶらな瞳を朝日に反射させた。
仕上げに、僕は羊のぬいぐるみを上に乗せ、鞄の留め金をばちんと留めた。
「簡単だよ、幸せにする」