頭が悪い生き物
先ほどの、どか、という音は、どうやら黒兵衛がドスを女の手から叩いて落とした音のようだ。
べっとりしているのは血のようだと解った善継は、右の頭を触ろうとしたら、どろっと手に紅よりも深い赤がついていた。
着物の色に似ていると思うと、ちょっと笑えた。そんな善継を春が睨み付けている。春に気づくと、善継は苦笑した。
黒兵衛は女性相手だというのに、顔を殴った。その姿に、善継は笑いそうになった。
何せ、矢鱈おかしいのだ、女性に入れあげる奴が、女性を殴る姿なんて、そうそう見られない。
弱者は、結局は負けてしまうのか、強者に。でも、弱者の数が多ければきっと強者だって負けるだろう。
現に、善継がそうであった。
「黒さん、俺にその方と、話をさせてもらえませんか?」
「ああ? まさか、目明かしに手渡すなってんじゃねぇだろうな」
黒兵衛は大体不機嫌そうな声をだすなぁと、善継は一人肩をすくめた。
「その、まさかです。凄い、大当たりですよ! こんなところで運を使ってしまいましたね!」
善継が巫山戯ながらも本気で頼み込むと、黒兵衛は女の腕と子供の手を両手に持ちながら、善継の眼前に差し出した。
――善継が何かしたいなら、暴力を振るわれた本人がすべきなのだろうと黒兵衛は思ったみたいだった。
黒兵衛の思慮深さに善継は感謝してから、親子に向かう目。
視線が同じくらいになるようにしゃがみ込んで、目線を合わせる、絶対に狙いをはずさないように。
「さて、初めまして、熱烈な歓迎、有難うございます」
精一杯の皮肉を込めて、善継はできるだけ笑顔になるよう努めた。
人を恨みたくないなど、聖人的な理由ではなく、まだ悟られて目を瞑られたくないからである。
善継は睨もうと覚悟しているのだ。
「死んじゃえ!」
女性は善継の顔に痰を吐いて、つけてやった。
善継は顔を女の着物で拭いて、身や肝が氷るような笑い方をした。それでも善継は営業的な笑顔のつもりであった。
心と顔は繋がってるのだと、善継は親子の反応で感じた。
「俺に睨まれた旦那さんは、不憫ですが、しかたないことです。俺の処世術です。俺にとって、睨むってぇことは、御公儀よりも丁重に扱っております。それをされた、旦那様が悪い」
「そんなの屁理屈さ!」
絶対に私が正しい、という表情に善継は鼻で笑い、頭を押さえた。
どこの世界に絶対などとあるのだろう。
どうしてこの女は自分が絶対だと言い切れるのだろう?
まるで立場が悪くなって言い訳してきたから注意したら、追いつめないでくれと突拍子もないことを言い出す馬鹿で無責任な人間だ。
謝罪を求めたことはないのに自分から謝罪していざ注意をしたら、怒ってくる正義面した感情だけの固まりである。
「じゃあね、聞きますが、絶対的に悪くない人って、いるんですかい?」
言葉に詰まったのは女だった。反論できなくて詰まったわけではない、この男は何を言ってるんだ、という呆れた表情であった。
善継が思うに、女は、悪者が何か変なことを言ってる、と理解できなかったのだろうと思う。
善継は見下した、阿呆だと。
「弱者は頭が弱い、と。いい参考になりましたよ」
今まで誰もが見たこと無いくらいの怯えようである、親子は。
楽しくなってきたけれど苛々としている善継は、痛みを思い出した。
「ひっ!!」
善継は、女と子供を睨み付けてやった。それから、目明かしに引き渡さない旨を黒兵衛に告げて解放してやる。
「次の満月までに生きていたらいいですね?」
素っ気ない声が、逆に恐怖に身が染まる親子。
「う、うわあああ! 睨まれたーー!」
女と子供は慌てて逃げ出した。出口を固めていた春を、押し出して、必死に逃げていった。
善継は頭を掻こうと触ると、ぬめりと紅い液体が頭にあった。そこで、じっと黒兵衛を見やる。
「こんな日もありますよね」
日常は非日常も混ぜて、日常なのだ。
いいことも悪いことも纏めて人生だ。黒兵衛なら解ってくれるだろうと思ったが、解ってはくれないで、怒られた。




