ありがとう
「姉ちゃん! どうし……て……え?」
駿平は怒鳴りつけようとした。
どれだけいろんな人に迷惑をかけたのか分からない。俊也だって仕事を切り上げてきているのだ。警察にだって連絡してある。だから、それら全てを、ぶつけようとした。なにをしているんだと怒ろうとした。
でも、
「家に……帰らなきゃ……家に……」
そんな怒りは全て遠いどこかへ飛んでいった。
一度も、見たことがなかった。
瀬名が、泣いているところなど。
いつでも笑顔で駿平を支えてくれて、なにがあっても泣いたりはしなかった。自分がミスをしてしまっても、それを正面から受け止めて、前向きになろうとしていた。
なのに、
「帰らなきゃ……家に、帰らないと……」
瀬名は大粒の涙を落としてた。
「瀬名さん……」
追いついてきた康弘も、瀬名の様子を見て驚く。
でも、おそらく答えが分かっているだろうに、駿平を気遣って瀬名に質問してくれる。
しゃがんで、瀬名の視線を受け止める。
「瀬名さん、家に帰らないといけないんですよね」
「……」
目をこすりながら、こくりと頷く。
「それは、どうして?」
分かってはいたけど、その問いには、
「分からない」
瀬名は首を振った。
やはり、覚えていないのだ。
康弘は瀬名に気付かれないように、細くため息をついてから携帯を取り出す。
「とにかく、無事に見つかってなによりだよ。帰ろう」
「そうですね」
康弘が俊也やいろはたちに連絡している間、駿平は瀬名に話しかける。
「姉ちゃん、寒いでしょ。帰ろうよ」
「……どこに?」
「どこって、グループホームにだよ」
言うと、子供みたいにいやいやと首を振る。
「家に、帰らないとっ」
「ええと、じゃあ、一回家に寄る? それでいいでしょ?」
ガリガリと頭を掻いて、提案するが、
「ダメ」
それでも、瀬名は納得しない。
「姉ちゃん、一回家に帰るんだから、それでいいんじゃないの?」
「それじゃあ、ダメ」
「どうして?」
「分からない」
覚えていない。記憶が、消えているのだ。
瀬名の中でなにかが引っかかっているのだろう。気持ちの上で、納得できていないのだ。
困ったな、と駿平は瀬名から顔を逸らす。
康弘はまだ俊也たちと連絡を取り合っている。
「どうすりゃいいんだか……」
瀬名に悪いとは思いつつも、どうしてもため息が出てしまう。
もう疲れが限界に達しているのだ。
「どうしても帰らない?」
「……」
頷く。
康弘に任せようと諦めて、瀬名の隣に腰を下ろ――
「あれ?」
そこで、初めて気付く。
瀬名のすぐ脇になにかの箱が置いてあるのだ。赤いリボンで装飾された、四角い箱だ。二十センチ四方くらいだろうか。
そういえば、スーパーかどこかでなにかを買っていたという話を聞いた。
「姉ちゃん、これなに?」
「……」
不思議に思って瀬名に質問するも、逆に首を傾げられた。ここまで持ってきたのはいいものの、座っている間に忘れてしまったのだろうか。
「開けてみていい?」
「うん」
瀬名自身も気になるらしく、素直に頷いてくれた。
駿平は暗くてよく見えない中、リボンを解き、箱を開ける。
中には、
「……ケーキ」
ケーキが、入っていた。
チョコレートケーキが一ホール。
「……」
暫くの間、身動き一つ取れなかった。
だって、瀬名は、忘れているはずなのだ。
瀬名は、五月九日という今日が、なんの日なのか、忘れていたはずなのだ。
それは、瀬名自身によって証明されているし、駿平もそうなんだと諦めていた。
なのに――
「……」
理由なんて、どうでも良かった。
どうして瀬名がこんな行動に及んだのか、どうして忘れているはずなのに、ケーキを買って家に帰りたいと言うのか。
そんなことは、もうどうでも良かった。
ポタリ。
箱の上に、滴が落ちる。
涙が、止まらなかった。
「姉ちゃん」
「なに?」
「ありがとう」
駿平は、「え? え?」と戸惑い続ける瀬名に、ありがとうと言い続けた。
今、駿平の心を満たしているのは、喜びだけだった。




