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たとえ記憶が消えたって  作者: 彩坂初雪
悪いことは重なるものだ
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大変なことになった

《瀬名さんが、グループホームから、脱走した》



 時間が止まった。

 受話器を落としそうになったことに気付き、慌てて力を込める。

「え? あの、脱走って……?」

 あまりのことに、事態の重大さが頭にしっかり入って来なかった。

《本当に申し訳ない。こちらの管理が悪かった》

 もう一度、康弘は謝ったきたが、そんなこと、どうでもいい。

「あの、脱走って……でも、鍵がかかってたはずじゃ?」

 信じられないという気持ちの方が強い。

 瀬名がグループホームを脱走するなど、考えられない。瀬名は嫌になったからと言ってそこから逃げ出すような性格ではないはずなのだ。

 それに、実際に行ったからこそ分かる。扉には電子錠が付いていて、しかもオートロックだった。鍵のかけ忘れなどということも起こりえない。

《それが、こんなことがあるのかと我々も驚いているのだが、オートロックの鍵がかかるほんの一秒ほどの間に風でドアが開いてたみたいなんだよ》

「風?」

《ああ。我々とてプロの介護職員だ。誰かがドアを開けっ放しにして出たということは考えられない。そうなると、強風でドアが勝手に開いたとしか……》

 そんなに強い風が吹いていたかと外を見ると、納得する。

 学校内にいたせいでほとんど気になっていなかったが、木々がばっさばっさと揺れている。雨が降っていないのが救いというところだろうか。

《もちろん、管理の仕方が悪かったこちらに責任がある。この件が無事解決したら正式にお詫びしたいと思う》

 康弘のその言葉は管理する者として当たり前なのだろうけど、今はそんなことは問題じゃない。

 瀬名がどうやって脱走したのかが分かったことで、駿平は次々と疑問が頭を駆け巡る。

「じゃあ、姉ちゃんはどこに行ったんですか?」

《現在、手の空いている職員全員で捜索しているが、まだ見つかっていないんだ。ただ、ここのところ家へ帰りたいとしきりに言っていたから、たぶん、向かった先は前島家だと思う》

「なら、家までの通路を探せばいいんじゃ?」

 普通なら、それですぐに見つかるはずだ。そんなに手間がかかるとは思えない。

 けれど、康弘は疲れたように言う。

《それは真っ先に探したよ。でも、どこにもいないんだ。推測でしかないけど、グループホームから家までの道が分からなくなってるんだと思う》

 そうだった。瀬名は認知症なのだ。家までの道を覚えているとは限らないのだ。

 駿平が次の質問をする前に、康弘が言う。

《今は、その周辺を捜索している。認知症のお年寄りが高速道路に入り込んでしまった、というニュースをたまに聞くだろう? 上草市は高速道路なんてないけど、同じようなことになったら大変だ。出せる車は全部出して、それから自転車や歩きでも捜索を続けている》

 康弘の切羽詰った言葉に、駿平はもう、こんなところで電話をしている場合じゃないと悟る。自分も、早く瀬名を探しに行かなければと思う。

「康弘さん。俺も、すぐに行きます」

《学校……いや、そんなことを言っている場合じゃないか。お父上にはこちらから連絡しておくよ。駿平君は我々の捜索に合わせなくて良い。瀬名さんを一番知っているのは君だ。君の思うように探してくれ。見つかったら、携帯に連絡を頼む》

「分かりました」

 駿平は叩きつけるように受話器を置くと教務室を飛び出す。

 が、

「前島!」

 出る直前で、担任に声をかけられる。

 少しイライラしながら「なんですか?」と振り返ると、予想外の返答。

「私たちも、学校が終わり次第、手の空いている職員は出す。その前に見つかるようなら、学校に連絡してくれ」

 ニヤっと笑う担任の笑顔が、頼もしく見えた。

 駿平は「ありがとうございます」と一礼して、教務室を飛び出した。

「連絡するべきは……っ!」

 校舎内を走りながら、駿平は必死に頭を動かす。

 こういう時、一番頼りになるのは誰なのか、一番頼れる味方は誰なのか。

 最初に浮かんだのは、

「黒鳥さん……」

 彼女だった。

 いつでも駿平の味方をしてくれて、ピンチの時には助けてくれる。駿平にとってのもう一人のお姉ちゃん。

 携帯を開き、アドレス帳を引っ張り出す。

 そして、発信ボタンを――

「おおう!」

 押そうとしたところで、逆に着信メロディが流れた。

 こんな時に誰だと思って画面を見ると、なんと、驚いたことにその黒鳥からだった。

 もしかしたら、黒鳥にも連絡が行っているのかもしれない。

 そんな期待を込めて、電話に出ると、



《駿平君! 大変なことになった!》



 今まで聞いたこともないくらい焦った声音で黒鳥が言った。

 駿平は、それが姉のことだと思った。だから、当然のように「姉ちゃんのことですよね?」と聞き返す。

 しかし、



《ん? 姉ちゃん? 君の姉上のことか? なんのことだ?》



 黒鳥は予想とは全く違う反応をした。

 疑問に思いながらも、黒鳥に事情を説明すると、「そうか」と黙ってしまう。

「あの、どうしたんですか?」

 気になって尋ねると、またもや駿平にとって聞き捨てならない単語が飛び出す。



《いや、こちらはいろはちゃんのことだったんだが……》



 人生というのは、どうしてこう、悪いことばかり重なるのだろうか。



 この時ほど、そう思ったことはなかった……。


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