それなんですよ
先生は、それから、と続ける。
「一番の決め手となったのは駿平君が取り続けていたという、このノートです」
先ほど、なにかの参考になればと先生に出したものだ。
例の、瀬名の様子を詳細に記録したノートだ。
「お二人は認知症について、どの程度知っておられますか?」
唐突に、先生がそんなことを聞いてくる。
俊也と一瞬、視線を交わしてから「物事を忘れてしまったり、覚えられなくなったりする、という程度しか……」と答える。
「なるほど。そうですよね。一般の方々はそのくらいでしょう。では、ほんの少しですが、説明させていただきます」
先生はそこでわざとらしく咳払いをすると、講義でもするかのように語り始める。
「認知症がない我々でも、ど忘れをしてしまうことはよくありますよね?」
「はい」
「仕事でも、学校でも、必要だと分かっていたはずのものを家に忘れてしまったり、しなければならないことをつい頭の隅に追いやってしまっていたり、そういうことはよくあります。俊也さんも、駿平君も、経験があるでしょう?」
二人揃って頷く。
忘れ物が多い方ではないが、そういう失敗ならしたことがある。誰にだってあるだろう。
「しかし、認知症の方の忘れ物というのはこれらとは一線を画すものなんですよ」
「ええと、それはどんな風に、でしょうか?」
慣れているのだろう。
先生は説明するのに分かりやすい例を一つあげる。
「例えばの話、お二人は昨日食べた夕食がなんだったか覚えておられますか?」
なんだったかなと思い出そうとするが、なかなか出てこない。
食べたのは覚えている。確か、混ぜご飯だったような気がする。
その他は思い出せない。作ってくれている瀬名に申し訳ないが、いちいち毎食なにを食べたか覚えている人など少ないだろう。
と、そこまで考えたところで先生が突然、言った。
「それなんですよ」
「……?」
「今、俊也さんも駿平さんも、じっくり考えておられましたよね?」
無言で肯定する。
「ところが、認知症の方はそれができないんです」
いまいち、よく分からない。
「認知症の方のど忘れというのは、起きた現象の内容を忘れてしまうのではなく、起きた現象そのものを忘れてしまうのです。今、お二人とも昨日なにを食べたか思い出せなくても、食べたことは思い出せましたよね?」
「それは、はい」
「認知症の方は、そうではないんですよ。起きた現象そのものを忘れてしまうわけですから、つまり、夕食を食べたかどうかも忘れてしまうと、そういうわけです」
たたみかけるように、先生は続ける。
「駿平君のノートに、瀬名さんが火をつけたまま料理を放り出して別のことを始めたという記述がありました。その時の会話、特に最近のものでは駿平君が帰宅した時に出迎えた時の会話ですね。そこにこうあります。
『それで、今日の晩飯は……て、火!』
と、駿平君が言ったのに対して、瀬名さんは、
『え? なになに~?』
と、一度、なにを言われているのか分からないという反応をしています。その後、火がついたままであることに気付き、駆け寄っていますが、通常、こんなことがあるでしょうか?」
言われて、初めてそのおかしさに気が付く。
火をつけたままにしていたとしても、指摘されれば、「あ、そうだった」と普通ならすぐに反応する。なのに、瀬名は本来不要なはずの、先生の言うところの『なにを言われているのか分からない』という反応をしている。
これは、認知症があるからなのだろうか。
「その他、細かいところではいくつもありますが、代表的なものはそんなところですね」
先生が締めくくるように言うと、俊也が質問を投げかける。
「先生、物忘れについては理解できましたが、認知症の症状はそれだけですか? 以前、ふらふらっとどこかへ出て行ってしまう、というような話を聞いたことがあるのですが」
「ああ、それは認知症の症状の代表的なものの一つ、徘徊行為です。認知症と一口に言っても様々な病気があります。誤解されがちですが、認知症というのは病名ではないんですよ。
それぞれの病気によって出てくる症状は違いますが、今、俊也さんがおっしゃった徘徊行為はよく見られますね。その他、幻覚、うつ症状、失語、暴言暴力などいろいろな症状があります。幸い、瀬名さんはまだ認知症があまり進行しないようですので、これらの症状は出ていませんが、これから出てくることもあるでしょう」
それは、幸いと言えるのだろうか。
駿平は疑問に思って、口を挟む。
「あの、認知症って治らないんですか?」
「……そうですね。医者として、非常に申し訳ない限りなんですが、アルツハイマーはそもそも、こういうことが危険因子なのではないかと言われているだけで、原因がまだ分かっていないんです。なので、特効薬もありません。症状を抑える薬なら、最近、新薬も認可されて増えてきているのですが、治療することはまだ……」
意図的にそうしているのか、それとも医師としてはがゆいものがあるのか、先生も暗い表情になる。
「あの、では――」
俊也が次々と質問をぶつけ、先生から情報を引き出すが、駿平にはもう届いていなかった。
物心ついた時にはもう母親がいなかった駿平にとって、瀬名は単なる姉ではない。いつも優しく、時には厳しく、駿平を影から支えてくれていた。今でも、学校の成績は大丈夫なのか、とかいろいろうるさく思うことはあるけれど、中学生ながらそれも瀬名なりの心配なのだと理解している。
その瀬名が、認知症。
働き盛りどころか、まだ二十年以上働くことができる年齢だ。これまで駿平が生きてきた時間よりも長く働くことができる。
今の先生の話を聞く限り、当然、仕事はやめなければならないだろう。もしかしたら認知症でも就ける職業があるのかもしれないけれど、少なくとも小学校教師はできないはずだ。
前島家の長女として、駿平の姉、母親代わりとして一生懸命、今を生きている瀬名。
こんな結末は、あまりにも残酷すぎる。
この後の記憶が、駿平にはほとんどない。
どんな顔をして瀬名に会ったのか。
俊也が、瀬名にどんな風にこのことを伝えたのか。
今後、前島家はどうなるのか。
いろいろあった気がするけれど、駿平の記憶には、残らなかった。




