第四章 還らずの森へ帰るのはごめんですが
翌朝は、妙に静かだった。
鳥は鳴いていた。風も吹いていた。
小川の水も、昨夜と変わらぬ音を立てて流れている。
それなのに、夜のうちに世界から何かひとつ抜け落ちたような、そんな気配があった。
私は、火の残りを土で埋め、旅袋を背負った。
精霊は今朝も外套の内側に収まり、カンタロウは珍しく早くから起きて、近くの枝で羽を膨らませていた。
「眠そうだな」
「眠くもなりやす」
カンタロウは不機嫌そうに答える。
「いやな場所の近くってぇのは、夢見まで悪くていけねえんで」
「夢を見るのか、お前も」
「鳥だって見やすよ。だいたい、ろくでもねえ夢を」
私はそれに返事をせず、西の方角を見た。
林の向こう、地平の低いところに、薄灰色の靄が溜まっている。そのさらに奥に、山の影が青黒く横たわっていた。昨日より、少しだけ近い。
そして、その手前にあるはずの森は、遠目にも分かった。
木々の色が違うのだ。
こちら側の林は、春から初夏に移る時季らしく、青く柔らかい若葉に覆われている。だが、西の森だけは、どこか色が鈍い。緑が深いというより、光を吸って沈んでいるように見えた。
私は、息を吐いた。
「行くか」
「へい」
カンタロウは、すぐには飛び立たなかった。
枝にとまったまま、森の方をじっと見ている。
「まだ何かあるか」
「ええ」
「何だ」
「なるべくなら、あっしァ遠回りを勧めやすね」
「遠回りで済む場所なのか」
「済みゃしねえから困るんで」
結局、それでも進むしかない。
小川を渡り、低い丘を一つ越えると、草地は次第に痩せ、石の多い地面へ変わった。足元には、昔の街道の名残らしい平石がときどき顔を出している。かつては旅人や巡礼者が通っていたのだろう。だが、今では草と土に半ば埋もれ、道としての輪郭はほとんど失われていた。
精霊は胸元で微かに震えていた。
私は歩きながら、そっと外套の上から彼女をかばうように手を添える。
「無理なら戻るぞ」
言ってから、自分でおかしいと思った。
戻る場所があるような口ぶりだ。だが、ここまで来て、何もせず引き返せるとは思えない。
それでも、精霊は小さく首を振った。
「……い、く」
「そうか」
カンタロウが頭上をひとまわりして戻って来る。
「旦那、ここから先は、ちっとばかし勝手が違いやすよ」
「どう違う」
「道が、真っ直ぐに見えて、こんがらがるんでやす」
「それは、昨日も聞いたね」
「昨日は、話だけでさ。今日は本番で」
彼は、地面を見下ろし、首をひねる。
「たとえば、ほら、あの石」
前方の地面から、街道の縁石らしい四角い石が半ば露出していた。
「見えやすでしょ」
「ああ」
「けど、あれを目印にして進むと、たぶん次に見る時は後ろにありやす」
「……冗談だろう」
「だったら、あっしも助かるんですがね」
私は、立ち止まり、意識を集中させた。
簡易の索敵術を広げる。
ルグの細糸を左右へ伸ばし、地の気配と空間の歪みを探った。
普通の森なら、木々の幹や根、獣の動き、水脈の流れなどが、柔らかな輪として返ってくる。
しかし、今、前方から返ってくる感触は、ひどく不均一だった。
目に見えるものが、何か膜の中にあるような、その膜が幾重にも垂れ下がっているような。
あるいは、見えない糸が絡み合って道を曖昧にしているような、そんな感覚だった。
「……なるほど」
私は、小さく言った。
「一見、普通の景色に見えるのに、かなり歪んでいるな」
「へい」
カンタロウが、妙に誇らしげに頷く。
「ようやくお分かりで」
「嬉しそうに言わないでくれ」
「旦那に疑われっぱなしってのも癪なんで」
昼前には、森の縁へ着いた。
還らずの森――古い記録の中でしか読んだことのなかった名が、ようやく実体を持って目の前にある。
入り口に門があるわけではなかった。そして、標石も柵もない。
しかし、地面に這う蔦と、やや広く育った木々の列が、そこから先は別の領分だと告げているのが分かった。
森の中は、見た目には普通だった。
広葉樹が多く、下生えもそれほど深くない。木洩れ日も差しているし、じめついた瘴気が漂っているわけでもない。
にもかかわらず、一歩手前で立つと、足が進みにくい。
空気が重いのではない。
むしろ逆だ。
何かが軽すぎて、地面に体が馴染まないような感覚がある。
「旦那」
カンタロウが、今度は本当に低い声で言った。
「入ったら、なるべく後ろを気にしねえで」
「どうしてだ」
「振り返ると、いた場所が変わってる気がするんで」
「気がする、で済む話か?」
「済まねえから嫌なんで」
私は、旅袋から細い麻紐を取り出した。
片端を森の外の木に結び、もう片方を腰へ巻きつける。
「おお」
カンタロウが感心した声を出す。
「旦那、案外ぬかりがねえ」
「昔話には、よくある対処法だからな。あとは、何か小石を落としていくとか」
「それでどうにかなりやす?」
「残念だが、分からないな。この場所の伝承が少なすぎる」
「潔いこって」
森へ一歩、踏み込む。
すぐには何も起こらなかった。
木々の葉擦れの音がして、遠くで啄木鳥が幹を叩く音もした。
足元の枯葉が、靴の下で軽く鳴る感触も、普通の森と同じだった。
しかし、三歩、五歩と進むうちに、背中のあたりが妙に寒くなってきた。
振り返るなと言われたのに、つい気になって後ろを見そうになる。
私は、意識して正面に目を据えた。
「どうだろう?」
「入っちまいやしたね」
カンタロウは頭上の枝から枝へ飛び移りながら言う。
「今んとこ、まだ浅いとこで」
「浅い?」
「森ってより、水たまりの縁みてえなもんでさ。ほんとの中は、この先でさ」
「そうか……」
木々の間を進んでいると、妙なことに気がついた。
風向きが一定しないのだ。
右から吹いたと思った次の瞬間には、前から頬を打つ。葉の揺れ方も合っていない。
こちらの木は左へしなっているのに、少し離れたあちらの木は逆方向へ揺れている。
さらに数歩進んだところで、腰の麻紐が急に軽くなった。
私は、足を止めた。
後ろを振り返る。
麻紐は、確かに、腰から森の外へ伸びていた。
しかし、その角度が変だった。先程までは、ほぼ真後ろの木へ続いていたはずなのに、今は左斜め後方へ引かれている。
「なんで……?」
カンタロウが告げた。
「これが嫌なんでさ」
「道がずれているのか?」
「人間さんは、すぐ道のせいにしやすね」
「では、何で?」
「こっちが、ずれてるのかもしれやせん」
私は、返す言葉を失った。
試しに木へ結んだ紐を手繰り寄せてみる。
途中までは素直に引けたが、あるところから、妙に張り方が変わった。目には見えない何かを擦っているような感触がある。
これは、あの索敵魔法で感じた何かだろうか?と思った。
「うーむ」
私は、それ以上引くのをやめた。
無理に弄れば、たぶん良くない、そんな気がした。
森の中をさらに進むと、差し込む日差しが少しずつ減ってきた。
しかし、ただ深い森に入ったのではなかった。
空が晴れているはずなのに、木洩れ日の輪郭が曖昧で、まるで薄い布越しに光を見ているように変化したのだ。
「……寒い」
胸元で、精霊がかすかに言った。
「もう少しで休むよ」
「だ、い……じょ、ぶ」
そう言いながら、彼女の光はあまり大丈夫そうに見えない。
私は、歩を緩めた。
すると、前方の空気が、不意にゆらいだ。
熱気ではない。炎もないのに、景色だけが水面のように歪む。
「止まれ」
私は、短く言い、自分でも同時に足を止めた。
前方、木と木の間――そこだけ空気が薄い膜のように揺れていた。
カンタロウが枝の上で翼を広げた。
「旦那、それに触っちゃいけやせん」
「分かっている」
「ほんとで?」
「本当だ」
私は、腰を落とし、手近な小石を拾って、その揺らぎへ放った。
石は、そこに何もないかのように通り抜けた。
……ように見えた。
しかし、次の瞬間、石は消えた。
音もなく、影もなく。
「……」
「ほらね」
カンタロウが言う。
「だから嫌なんで」
「今のは、どこへ行った」
「さあ?」
「さあ、で済ますな」
「済みゃしねえって、さっきから言ってるでしょ」
私は、迂回するため、右手の木々のあいだを探った。
すると精霊が突然、強く叫んだ。
「待って!」
私は、彼女を見た。
精霊は目を見開き、前方の揺らぎとは別の方向――森のもっと奥を見ていた。
「どうした?」
彼女は、両手で頭を押さえ、小さく息を呑んだ。
その瞬間、私の視界にも何かが流れ込んできた。
白い石畳、高い階段、陽光、若い男女の笑い声――兄と妹だ、と直感した。
森の中を歩いている。
兄は厚手の衣をまとい、妹は軽やかな装いで、何かを言い合っている。どこかに帰る途中らしい。空は明るく、木々のあいだに不穏な気配などない。
――瞬間移動の方が楽じゃない?
――やだ、味気ないもの。
声まで、はっきり聞こえた気がした。
「っ……!」
私は、思わず頭を押さえた。
視界が戻った。
目の前には、先程と同じ森があるだけだった。
「旦那?」
カンタロウが、いつになく真剣な声を出す。
「……今、何か見やしたか?」
「ああ。兄妹だ。若い……神殿の生徒のような……」
「やっぱりでさ」
カンタロウは枝から降りて来て、私の肩へとまった。
いつもの軽さが、少しだけ薄れている。
「嬢ちゃんの記憶でさ」
「そうなのか? いや、確かにそんな気もする……」
「この先に、まだ澱みがありやすね」
「澱み?」
「昔の出来事が、ちゃんと昔になりきれず、そこいらにこびりついてるんでさ」
精霊は、荒い息をついていた。
私は、森の中の少し開けた場所を探し、苔むした倒木のそばまで移動した。
しゃがみ込む。
「少し、休むよ」
精霊は、私の掌へ降り、両膝を抱えるようにして座った。光が細かく震えている。
「大丈夫か?」
「ごめ……」
「謝らないでいい」
私がそう告げると、彼女は黙って目を伏せた。
カンタロウが、倒木の上を行ったり来たりしている。
「旦那、先、行くんです?」
「行く」
「即答で」
「ここで引き返しても、何も解決しないだろう?」
「ま、そうでさね」
「それに……」
私は、先程見た光景を思い返した。
「……彼女の記憶が、この森の中で活性化しているようだ。そうであるなら、この先へ行かなければならないだろう」
カンタロウは少し黙っていたが、やがて嘴で羽を整えながら言った。
「人間さんてのは、理屈っぽい顔して、結局は腹括るのが早えや」
「それは、褒めているのか?」
「半分くらいは」
「残り半分は?」
「向こう見ずってやつでさ」
その時だった。
風が、止まった。
森の中の音が、一瞬だけ消える。
葉擦れも、虫も、遠くの鳥の声も。
私は、すぐに立ち上がった。
「何か、来る」
「へい」
カンタロウが翼を広げる。
次の瞬間、前方の木立のあいだに、黒いものがよぎった。
人影のようにも、煙の塊のようにも見える。
だが、何より妙だったのは、その影が木々の隙間を抜けるのではなく、木の幹の向こうとこちらへ、同時に揺れて見えたことだ。
私は、反射的に簡易の防護術を組んだ。
手のひらにルグを集め、薄い膜を身体の前へ展開する。
影は、こちらを見た――ように思えた。
顔は、ない。
目も、ない。
だが、見られている感覚だけが、背筋を撫でる。
「旦那、あれァ追うな」
カンタロウが鋭く言った。
「見えたもん全部追ってたら、帰れなくなりやす」
「分かっている!」
そう言いながらも、私は影の消えた先から目を離せなかった。
精霊が、私の手の中で小さく呻く。
「だめ……」
「知っているヤツか?」
「……あれ、じゃ……ない」
「違う?」
彼女は苦しげに首を横に振る。
「あれ、は……のこ、り」
「残り……?」
意味を考える間もなく、今度は左手の木立で、また別の揺らぎが走った。
影そのものではなく、先程兄妹の記憶を見せたのと同種の歪みだ。
私は、歯を食いしばった。
真正面から危険が来る森ではない。
昔の記憶、空間の裂け目、消え残った何か――そういうものが、脈絡なく現れては消える。
「厄介だな……」
「だから言ったでしょ」
カンタロウが肩の上でぶつぶつ言う。
「帰らずの森なんてぇのは、名前からしてろくでもねえって」
「そのわりには、お前は、ずいぶん落ち着いているな?」
「怖え場所で騒いでても始まらねえんで」
彼は、胸を張った。
「あっしァこう見えて、場数を踏んでるんでさ」
その直後、頭上の枝に自分の尾羽を引っかけて「うわっ」と情けない声を出したので、台無しだった。
私は思わず笑いそうになり、それでも、少しだけ息が楽になるのを感じた。
「……行くぞ」
「へい」
カンタロウは、何事もなかったような顔で枝へ飛び移った。
「旦那、次からは、見えたもんを見えたまま信じねえ方がいいで」
「どういう意味だ」
「この森じゃ、ほんとのことだって、だいたい半分くらいしかほんとじゃねえんで」
私は、その意味を考えながら、再び歩き出した。
森は、先ほどより少し暗くなっている気がした。
それが時間のせいなのか、場所のせいなのか、もう分からない。
だが確かなのは、この森の中では、過去がまだ過去になりきれていない、ということだった。
兄妹の足音、黒い影、消える石、曲がる道――全てが、今もどこかで重なっている。
そして、その重なりの先に、彼女の記憶と、ディフィネ山へ続く道がある。




