第三章 旅立ち~森へ行く
翌朝、町はまだ半分眠っていた。
巡礼市の名残で、表通りには夜更かしした者達の匂いが漂っているものの、空は、薄い青に明けはじめ、空気はひんやりとしていた。
パン屋の窯に火が入り、井戸のそばでは女達が水桶を並べ、早起きの子供が眠そうな顔で欠伸をしていた。
人の世は、こうして毎朝、何事もなかったように始まる。
けれども、部屋の中で荷物をまとめている私には、昨日までと同じ朝には思えなかった。
寝台の端には、旅袋が二つある。
一つは普段の調査旅に使うもので、紙束、書板、筆記具、小さな術具、薬草の包み、水袋などを詰めてある。もう一つには、簡易の寝具と予備の衣服、火打ち石、干し肉、硬いパンを入れた。
窓枠には黒いカラス、机の上には白い精霊――どちらも、朝日を浴びるといっそう非現実的に見える。
「旦那、まだで?」
カンタロウが言った。
「人間さんは、支度が長えや」
「生きて旅をするには準備がいる」
「鳥はその点、身軽で結構でさ」
「その代わり、お前は食料も術具も持てないだろう」
「口があるんで」
「勝手についばむ気か」
「いやいや、そんな盗っ人みてえな真似は」
「昨日、干し肉を一枚多くくわえていたのを見た」
「……気のせいで」
私は、返事の代わりに旅袋の口をきつく結んだ。
精霊は、昨夜より安定しているようだった。相変わらず声はかすかしか出せないようだが、光の揺れは少ない。
朝の光の中で見ると、やはり少女の姿に近かった。髪のように見える光の流れや、薄い羽の輪郭も、昨夜よりはっきりしている。
彼女は、机の上に立ち、じっと私の荷造りを見ていた。
「行くぞ」
そう言うと、精霊は小さく頷いた。
「おお、ちゃんと返事するようになってきやしたね」
カンタロウが感心したように言う。
「そりゃ結構。道中、旦那のしかめっ面ばっか見てるよりゃましで」
「お前は、本当に一言多いな」
「サービス精神ってやつで」
宿を出る前に、私は机の上に短い書き置きを残した。
表向きは、「急ぎの調査あり、二、三日戻らぬかもしれぬ」という程度のものだ。詳しいことは書かない。書けるはずもない。
本当なら、記録院の責任者へ直接話を通すべきだろう。
しかし、精霊の存在をどう説明する。喋るカラスをどう説明する。しかも、行き先が帰らずの森だなどと言えば、止められるに決まっている。
私は、そのくらいの分別は持っているつもりだった。
持っているつもりで、それでも行くのだから、要するにもう腹は決まっていたのだ。
宿の裏口を出ると、朝の風が頬を撫でた。
町の外れへ向かう道は、昨夜の賑わいが嘘のように静かだ。牛車が一台、乾いた音を立てて進み、農夫が荷を担いで畑へ向かっていく。遠くには巡礼街道を行く旅人の影も見えた。
「旦那、あれに乗る気はないでしょうね?」
いきなりカンタロウが険しい声を出した。
「何の話だ」
「ほら、あの車で」
「荷車か」
「冗談じゃござんせんよ」
彼は、本気で羽を逆立てていた。
「別に、今のところ頼むつもりはない」
「今のところ、ってのが引っかかりやす」
「必要になれば考える」
「必要になっても、考えないでおくんなせえ」
「ずいぶんな執着だな」
「乗り物ってぇのは、ろくなことがねえんで」
そこまで言うと、カンタロウは自分からそれ以上は説明せず、私の肩にぴたりと爪を立て直した。昨日も感じたことだが、このカラスは、軽口ばかり叩くくせに、本当に触れたくないところだけは、するりと逃げる。
町を抜けると、道はゆるやかに西へ曲がる。
石畳は、やがて土道へ変わり、その両脇に小麦畑と葡萄棚が広がった。さらに先には林があり、その向こうに丘陵がうねっている。ディフィネ山は、まだ見えないが、古い街道は確かにその方角へ続いていた。
私は歩きながら、胸元の精霊に尋ねた。
「具合はどうだ?」
精霊は、外套の合わせの内側からそっと顔を出し、空を見上げた。そして、小さな指で前方を示した。
「……も、り」
「森へ行け、ということか」
彼女は弱々しく頷く。
「へいへい。やっぱりまっすぐ森で」
カンタロウが言った。
「旦那、覚悟しときなせえ。あそこは、道が道じゃないですんで」
「お前は、行ったことがあるのだったな」
「ええ。行ったですとも。二度とごめんでさ」
「詳しいのか?」
「嫌な場所ほど、忘れねえんで」
その物言いが少しだけ静かだったので、私はそれ以上つつかなかった。
日が高くなるにつれ、街道を行く旅人の姿が増えた。
巡礼者、行商人、薬草摘みの女、近在の村へ向かう荷運び。何人かは私を見て軽く会釈し、何人かは肩のカラスを見て顔をしかめた。もっとも、普通の鳥にしか見えていないなら、ただの図々しいカラスが人の肩に乗っているだけだろう。
「旦那、あっしァ腹が減りやした」
「さっき食べただろう」
「歩くと減るんで」
「私は、もっと減る」
「そこは人間さん、根性で」
「お前に根性を説かれたくない」
昼前、街道脇に石祠のある小さな休み場を見つけ、そこで足を止めた。
古い石祠は、もうどの神に捧げられたものかも分からぬ形だった。鼻の欠けた小像が一つ、蔦に絡まれて立っている。かつては旅人が水や花を供えたのだろうが、今は乾いた葉が溜まっているだけだ。
私は木陰に腰を下ろし、水を飲んだ。
精霊は、石祠の前へ降り立ち、しばらく小さな手を合わせるようにしていた。
「何をしている」
訊くと、彼女は少し考え、やっとのことで言葉を絞り出した。
「……お、ぼ……えて、る」
「ここをか?」
彼女は首を横に振った。
「ちが……う。に、お……い」
「匂い?」
「かみ……」
そこで声が途切れた。
私は、石祠を見る。
神々が去ったあとも、人はこういうものを捨て切れずに残している。旅の無事を祈る場所。名を失ってもなお、手を合わせられる場所だ。
「ふうん」
カンタロウが石祠の上へ飛び乗った。
「人間さんは案外、抜け目がねえんで」
「何がだ」
「神さまがいなくなっても、祈る場所だけは残しとくとこで」
「抜け目、なのか、それは」
「困った時に、何にもすがれねえのはつれえでしょ」
そう言ったカンタロウの声は、いつものように軽いのに、言葉の方だけは妙に胸に残った。
私が答えを探していると、街道の向こうから、馬の蹄の音が近づいてきた。
反射的に顔を上げる。
やって来たのは、深緑の外套を着た三人連れだった。腰に短剣を下げ、荷を軽くまとめている。巡礼者ではない。旅商人にしては警戒していて、傭兵にしては装いが整いすぎている。
先頭の男が、馬を引いたままこちらへ目を向けた。
「失礼」
男は、穏やかな声で言った。
「この先の道をお訊ねしたい。旧街道は、このまま西へ行けば良いのかな」
「旧街道なら、そのままだ」
私は、立ち上がりながら答えた。
「ただし、三つ先の分かれ道で北へ寄ると、湿地へ入り込む」
「なるほど。助かる」
礼を言うその口ぶりは丁寧だったが、目が少しも笑っていない。
同行の二人も、こちらをさりげなく見ていた。特に、私の胸元――精霊を包んだ外套のあたりを。
嫌な感じがした。
「旦那」
肩の上でカンタロウが、聞こえるか聞こえないかの小声で言う。
「こいつら、鼻が利きやす」
「分かっている」
男は、視線を戻すと、ふと石祠の上のカンタロウを見た。
「珍しい。懐いた鳥だ」
「勝手についてきているだけだ」
「そうか」
短い沈黙。
彼らは去るでもなく、その場に留まっていた。
私は、内心で舌打ちする。何かを探っている。こちらが何者か、どこへ行くのか、荷の中に何があるのかを知りたいのだろう。
男は、ようやく馬首を巡らせた。
「では、先を急ぐとしよう」
「ああ」
三人はそのまま街道を進み、丘の向こうへ消えていった。
だが、見えなくなっても私はしばらくその方向から目を離せなかった。
「感じ悪い連中でさ」
カンタロウが、ぼそりと尋ねる。
「知り合いですか?」
「初めて見た」
「でも、旦那、ああいうのって、だいたい後でまた出てくる顔でしょ」
「縁起でもないことを言うな」
「縁起のいい旅じゃないんで」
まったくもって、その通りではある。
私は、精霊を抱え直した。
彼女は不安そうに、私の袖を握っている。
「追ってくると思うか?」
私は、小声で聞いた。
「さあ」
カンタロウは翼を少し広げる。
「ただ、旦那の嬢ちゃんから、まだ、ちょいと妙な匂いが漏れてやすからね。気づくやつァ気づく」
「もっと早く言え」
「言う前に通りがかったんで」
私は立ち上がり、休息を切り上げた。
「先を急ぐ」
「へい」
「ただし、街道をそのままは、行かない。少し外れる」
「おお」
カンタロウが面白そうに首を傾げる。
「旦那、案外しぶといで」
「お前にだけは言われたくない」
「褒めてやすのに」
街道を離れ、低い雑木林の中へ入ると、風の匂いが変わった。
踏みしめる土は柔らかく、地面には昨夜の露がまだ少し残っている。枝の間から差し込む光が斑になって揺れ、鳥の声が遠近入り混じって聞こえた。
私は時々立ち止まり、簡易の索敵術を使って周囲の気配を確かめた。
細いルグの糸を四方へ伸ばし、人や獣、大きな熱の動きを探る。人の時代では、こういう術でも十分に「使える方」とされる。神代の基準では笑われるかもしれないが。
「へえ」
カンタロウが感心したように言う。
「旦那、そういうのはなかなかで」
「記録院の下役なりに、生き延びる術はある」
「火ぃ噴いたりは?」
「出来ない」
「雷は?」
「無理だ」
「夢がねえで」
「現実がある」
それでも彼は、私が術を使うたびに少しだけ態度を改めたようだった。役に立たぬ本読みだと思っていたのかもしれない。
林を抜ける頃には、空が少し翳っていた。
西の空に、灰色の雲が長く伸びている。その下、遠い彼方に、ようやく山影が見えた。
高く、青黒く、空を押し上げるような大きな山。
ディフィネ山か、と私は思ったが、まだ断言は出来ない。距離もあるし、稜線が霞んでいる。
だが、それを見た精霊が、はっきりと震えた。
「ディ……」
彼女は胸元から身を乗り出し、遠い山を指した。
「フィ……ネ」
今度は私にも分かった。
あれだ。
「へえ」
カンタロウが、珍しく軽口を叩かなかった。
「あれでさ」
その声は、いつもより少しだけ低い。
「怖いか」
何気なく訊くと、カンタロウは一瞬黙った。
「怖くねえ、なんて言ったら嘘になりやすね」
やがて彼は言った。
「けどまあ、旦那ひとりで行かせるよか、ましで」
私はその言葉に、少しだけ驚いた。
こいつは本当に、気まぐれなのかもしれない。
気まぐれで、口が悪くて、乗り物が嫌いで、だが、逃げたい場所へも仲間を置いてはいかぬと思う程度には、情がある。
私が何も言わずにいると、カンタロウは慌てたように言い足した。
「べ、別に、旦那のためってわけでもねえんで。嬢ちゃんが心配なだけで」
「そうか」
「ほんとで」
「分かった」
「……分かってねえ顔で」
そこでようやく、私も少し笑った。
笑えるうちに笑っておく方がいいのかもしれない。
この先へ行けば、たぶんそういう余裕は少しずつ削れていく。
夕刻までに、小川沿いの小さな野営地へ辿り着いた。
かつて旅人がよく使った場所らしく、石を組んだ竈の跡があり、倒木が腰掛け代わりになっている。水もあるし、見通しも悪くない。
私は火を起こし、干し肉を炙りながら、簡単な防護の符を周囲に置いた。
精霊は火のそばに座り、その揺らぎをじっと見ている。カンタロウは近くの枝へ飛び移り、あたりを見張っていた。
闇が降りると、林は急に深くなる。
火の明るさの外側には、木々の影が幾重にも重なり、その向こうに何があるか分からなくなる。まだ帰らずの森には入っていない。だが、西から吹く風の中には、どこか水気を帯びた、古い石室のような匂いが混じり始めていた。
「近づいてるで」
カンタロウが枝の上から言う。
「森か」
「ええ。普通の森じゃねえ匂いがする」
「どう違う」
「説明しづれえですが」
彼は首を傾げる。
「道がねえ匂いで」
「またそれか」
「道ってのは、行って帰って来るもんでしょ。けど、あそこはそうじゃねえんで」
私は火を見つめた。
明日には、そこへ入ることになる。
精霊は静かに立ち上がり、私の膝に手を置いた。
小さな光の指先は、触れているはずなのに、どこか時間の奥から届くような感触がある。
「……こわ、い」
彼女は初めて、はっきりそう言った。
私は少し驚き、そして頷いた。
「ああ」
私は答えた。
「私もだ」
するとカンタロウが、枝の上で「けっ」と鼻を鳴らした。
「怖えもんを怖えって言えるなら、まだ大丈夫でさ」
「偉そうだな」
「年季が違うんで」
「年寄りなのか、お前は」
「そこは触れちゃいけねえとこで」
精霊が、ほんの少しだけ笑ったように見えた。
光がやわらかく揺れる。
私はその変化に気づき、心のどこかで少し救われた気がした。
火は小さく爆ぜ、夜は深まっていく。
遠い山は闇に沈み、まだ見えない。
だが、その前に横たわる帰らずの森は、きっとこの闇のどこかで、口を開けて待っている。
神々の去った後の世界に、なお残る歪み。
そこへ、私は明日、足を踏み入れる。




