第一章 灰の巡礼市
その町では、春の終わりになると、古道の脇に市が立った。
町外れの広場から川沿いの道まで、色とりどりの布を張った露店が並び、焼いた肉の匂い、蜜酒の香り、乾燥させた薬草の青臭い匂いが入りまじる。子供達が駆け回り、旅芸人が笛を吹き、よそから来た行商人達が、大げさな身振りで商品の能書きを並べ立てていた。
しかし、その賑わいの下には、別の匂いもあった。
古い石。長く埋もれていた土。火の消えた祭壇。そういった、神々の時代の残りかすのような匂いである。
人は、もう、神々に国を治めてもらってはいなかった。王も、領主も、記録院も、税を取り、兵を集め、道を繕い、争いを収めるのは人の役目だという顔をしている。
けれども、祭礼の歌の節回しにも、扉に吊るす護符の形にも、井戸端で語られる昔話にも、とうに去ったはずの神々の気配は残っていた。
それゆえに市には、毎年きまって、怪しげな品が集まってきた。
神代の護符だとか――。
古神殿の石片だとか――。
ルグを通しやすい銀糸だとか――。
湖の巫女が使っていた鏡だとか――。
だいたいは偽物か、そうでなくとも由来の分からぬ品である。
だが、たまに、本当に妙なものが混じる。
「……また、ひどいな」
人混みの間を縫って歩きながら、私は、思わず小さく呟いた。
私の名は、エルセド。
北方記録院の下役で、古い遺物や碑文の真贋を見分けたり、地方に残る伝承を書き留めたりする仕事をしている。要するに、華やかな術師でも、勇ましい騎士でもなく、古い石と古い話ばかり追いかけている地味な人間だ。
今回この町へ来たのも、巡礼市で妙な遺物が出回るから、念のため見て来いと上から言われたせいである。
「これは古代王朝の印璽だぞ。見てくれ、この文様を!」
「違うよ。これは先月、南の港で見た同じ型の土産物だね」
「……そ、そうかな?」
「同じ職人の癖が出ている。ほら、この縁の処理がね」
私は、露店の主人に石板を返した。相手は、露骨にいやな顔をしたが、怒鳴られることは珍しくない。慣れている。
その次の店には、銀色の粉を詰めた瓶が並んでいた。
「『星屑の粉』か?」
「へい、旦那、お目が高い。夜に振りまくと、夢見が良くなるって代物でさ」
「ただの雲母だな」
「……お詳しいようで」
店主がしぶい顔をしたので、私は、苦笑してその場を離れた。
市の喧騒は嫌いではないが、こういうやり取りが続くと気が滅入る。人は、神々の時代を遠くへ追いやったくせに、その残り香にいつまでも値札を付けたがるのだ。
もっとも、それを言えば私の仕事だって、似たようなものかもしれなかった。
ふと、広場の奥に人だかりが見えた。
ただの見世物にしては、妙にざわついている。私は足を止め、肩越しに様子をうかがった。
「ほら見ろ、光ってるぞ」
「本物の妖精じゃないのか?」
「触るなよ、呪われるぞ」
その声に、私は眉をひそめた。
光る――妖精――呪い。
市で一番危うい言葉が、まとめて三つ並んでいる。
人垣を押し分けて前へ出ると、薄汚れた天幕の下に、小柄な古物商が座っていた。痩せた顔で、小さな目が油のようにぬらぬらと光っていた。
その男の前に、木枠と真鍮の細工で出来た小さな箱が置かれていた。鳥籠に似ていたが、格子の一本一本に細かな符が刻まれている。
そして、その中に――小さな光がいた。
いや、ただの光ではなかった。
白く淡い輝きが、人の形をしている。掌に乗るほどの、羽のある少女の姿だ。
輪郭は曖昧で、炎のように揺らいでいるが、たしかに人の面差しがある。両膝を抱え、うずくまるようにして、箱の底に身を縮めていた。
私は思わず息をのんだ。
「……なんだ、これは」
古物商が、待っていましたとばかりに身を乗り出した。
「へへ、旦那、お分かりになりますか。これは、とある廃神殿から出た代物でしてね。神代の残り香、いやさ精霊そのものと言ってもいい」
「廃神殿の、どこで?」
「いや、それは商売上、ちと」
「この封じは誰が施した?」
「封じ?」
男はきょとんとした顔をした。
私は箱の縁に目を近づけた。細工そのものは雑だが、格子に刻まれた符の並びには見覚えがある。厳密な神殿式ではない。しかし、見よう見まねで何かを閉じ込めようとした跡がある。
「素人仕事だな……こんなものに、こんなものを入れておくなんて」
箱の中の小さな存在が、ふるりと震えた。
その瞬間、胸の奥が妙に冷えた。
これは、ただの遺物ではない。
弱ってはいるが、たしかに意思がある。そして、怯えている。
「売り物か」
「もちろんでさ。旦那みたいなお役人ふうの方なら、きっと良い値で――」
そこまで言いかけた時だった。
真上から、何か黒いものがばさりと降ってきた。
「うわっ」
「なんだ!」
「鳥だ!」
人垣が一斉にざわめく。
黒い影はまっすぐ天幕の柱にぶつかり、そこで一度跳ね、ついでに古物商の頭を蹴飛ばして、棚の上の金物やら瓶やらを盛大にひっくり返した。
がらがら、じゃらん、と派手な音が鳴り、男が悲鳴を上げる。
「な、なにしやがる、この畜生!」
「畜生とはひでえ言い草でさ!」
甲高い、しかし妙に人間くさい声がした。
私は、目を見開いた。
ひっくり返った箱の上に、一羽の黒いカラスが止まっていた。
羽は、つややかで、片目だけがやけに利発そうに光っている。嘴を左右に振り、いかにも偉そうな顔で周囲を見回していた。
「ったく、見ちゃいられねえや。寄ってたかって、かわいそうなもん閉じ込めやがって!」
「だ、誰が喋った?」
「そりゃ、あっしでさ」
カラスは、そう言うと、ぴょんと飛んで、今度は私の肩にとまった。
「おい」
「へい、旦那。そんな顔しなさんな。あっしァ、別に怪しいもんじゃござんせん」
「自分でそう言うか? 怪しい、十分」
「そういうこと言われると、ちょいと傷つきやすよ」
肩越しに覗き込むと、カラスはつぶらでも何でもない、やたら図々しい目で私を見返していた。
私は、古文書の中で『喋る鳥』や『神の使い』について読んだことはある。
しかし、たいていは大げさな比喩だ。こんなにぺらぺら口の回る、妙な方言を話すカラスなど、聞いたことがない。
周囲の人々は不安そうにざわめいていたが、どうやら彼らには、普通の鳴き声にしか聞こえていないらしい。
おそらく、「カア、カア」としか認識できない声に対して、こちらだけ意味が分かっている。
それもまた、ぞっとするような話ではあった。
ひょっとしたら、私が、ルグを少し使えるのと関係があるのだろうか?
「旦那、ぼうっとしてる場合じゃありやせんぜ」
カラスが、囁くように言った。
「そいつ、もう限界でさ」
私は、はっとして、箱の方を見た。
先程の衝撃で格子が少し歪み、封じの符が一つ裂けている。中の小さな光は、怯えたように身を縮めながら、しかし逃げるでもなく、じっとこちらを見ていた。
その目が、気のせいでなければ、助けを求めていた。
「おい、勝手に触るなよ! それは高価な品で――」
「幾らだ?」
「は?」
「買うと言っている」
「へ? いや、そりゃあ、旦那がそうおっしゃるなら――」
古物商は、慌てて値をふっかけてきた。
私は、内心で舌打ちしながらも、袋から銀貨を数えて投げた。相場より高い。
腹立たしいが、今ここで揉めている場合ではない。
「これで足りるな」
「ま、毎度ありっ」
「ただし、どこで手に入れたかは、後で記録院にて話してもらう」
「……」
「逃げるなよ」
「へ、へへ」
おそらく逃げるだろうと思ったが、そちらより先にすることがある。
歪んだ箱を慎重に両手に取り、私は、市の喧騒から離れるため、近くの路地へ足を向けた。
カラスは、当然のように肩に乗ったままだった。
「ついてくる気か?」
「へい。まあ、見届けくらいはしやす」
「見届け?」
「助けるんでしょう、そいつを」
私は、応えなかった。
石壁に囲まれた、人気の少ない裏路地へ入った。洗濯物の揺れる紐の下をくぐり、陽の当たる場所を選んで、しゃがみ込む。
箱の格子に指をかけると、微かな抵抗があった。素人細工のくせに、それなりの粘りがある封印だ。
私は、息を整え、小さくルグを流した。
格子の符が一つ、二つ、淡く光って消える。
かちり、と音がして、箱が開いた。
中の小さな少女は、すぐには動かなかった。
少し待つと、彼女は、白い光を揺らしながら、恐る恐る顔を上げた。
羽は蜻蛉の翅のように薄く、身体はまだ不安定で、見ているだけで壊れそうだ。
「もう閉じ込めはしない」
私は、できるだけ静かな声で言った。
「私は、敵ではない……たぶん」
「たぶん、ってのがちと頼りねえでさ」
肩の上で、カラスが口を挟む。
私は、ごほんと咳をする。
「他の連中よりゃずっとましなはずだ」
少女の光が、ふるふると揺れた。
やがて、彼女は箱の縁に手をかけて立ち上がった。
そして、頼りない足取りで一歩、外へ出ると、そのまま、私の膝の上に、ほとんど落ちるように座り込んだ。
温かい。
いや、熱ではなかった。何というか――時の流れそのものが皮膚に触れたような、不思議な感触だった。
「君は……どこから来た?」
少女は、口を開いた。だが、最初は声にならず、鈴を振るような細い響きだけが漏れた。
もう一度、彼女は唇を動かす。
「……ディ、フィ……ネ……」
私は、息を止めた。
「ディフィネ?」
「おや?」
カラスが首を傾げた。
「そいつァまた、ずいぶん聞いたような名前が出てきやしたねぇ」
少女は、その言葉に反応したように、さらに小さく身体をすくめた。
光が一瞬だけ強くなり、私の脳裏に、断片のような景色が閃いた。
深い霧――石の階段――高い山――白い神殿――。
そして、黒い何か。
「……っ」
思わず額を押さえると、肩の上のカラスが慌てて羽をばたつかせた。
「旦那?」
「今、何か見えた」
「見えた、で済む顔じゃござんせんぜ。真っ青で」
私は、ゆっくり息を吐いた。
ディフィネ山……。
その名を知らぬ者はいない。神代には、大いなる神の大神殿があったとされるものの、今では半ば崩れ、半ば禁域となっている場所だ。
神々が近かった頃の記録が、もっとも濃く残っていると言われている。
しかし、同時に、古くから不可思議な事象の噂の絶えぬ地でもあった。
「……行けと言うのか?」
私は、少女に向かって呟いた。
少女は何も言わなかった。ただ、白い目を伏せて、かすかにうなずくように光を揺らした。
「へい」
カラスが、なぜか急にしおらしい声を出した。
「あっし、あの山ぁ、ちいとばかし因縁がありやして」
「因縁?」
「ええ。ろくでもねえ因縁で……」
そう言ってから、カラスは、すぐにいつもの調子に戻った。
「ま、でも旦那が行くってんなら、道案内くらいはしてやらァ。空から見りゃ、人間さんよりゃ少しはましに分かることもありやすし」
「勝手に同行を決めないでくれ」
「いやいや、そりゃお互いさまでしょ。旦那だって、勝手に助けたじゃござんせんか」
「それは……」
言い返せず、私は、口をつぐんだ。
膝の上の小さな精霊は、ようやく少し落ち着いたのか、私の袖をそっと掴んでいる。
離れたくないというより、どこへ行けばいいのか分からない、といった頼りなさだった。
路地の上では、春の風が洗濯物を揺らし、遠くから市の賑わいが聞こえてきた。
肉の焼ける匂い、笛の音、子供の笑い声――。
そんなありふれた人の世の音の中で、私の膝には、神代の残り火のようなものが座っており、肩にはわけの分からない喋るカラスが乗っていた。
「厄介なことになったな……」
「へへ。面白くなってきやしたね」
面白いと思える神経が分からなかった。
だが、心のどこかで、私は、もう理解していた。
この小さな光を拾ってしまった時点で、たぶん私は、ただの巡礼市の見回りでは済まぬ場所へ足を踏み入れている。
神々が去ったあとの世界にも、まだ、神々の時代の傷は残っているのだ。
そして、その傷は、時々こうして、こちらを振り向く。
私は精霊を抱え直し、路地の向こうの明るい空を見上げた。
ディフィネ山は、ここからは見えない。
だが、胸の奥には、もう遠い山の冷たい空気が流れ込んでくるような気がしていた。




