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チェンジリング  作者: 美羽
エルヴィスト魔術学院
9/16

8:彼女の笑顔は信用ならないものでは、ない

<魔法歴1327年 新春月の九>

【セルス・ファンレイ】




「皆さんきちんと課題を終えることが出来たようで、安心しましたわ」


四人分のレポートを腕に抱え、エヴィは満足げに微笑んだ。

昨日言っていた通り授業が始まってすぐに集められた魔法史のレポートは四人すべてのものを含めるとかなりの厚さになる。その中の三分の一以上を占めているのが隣で暢気に教師を見つめるリラのものだ。

結局彼女は読んだ本をその後一度も開くことなく、レポートを一気に書き上げた。走らせたペンを殆ど止めることなく一心不乱に三十分ほどかけて書いたのはゆうにレポート用紙五十枚の内容。書き終えて無造作にテーブルの上に置かれた紙の文章に軽く目を通してみたが、とても学院に入って数日の人間が書くような内容ではなかった。しかもそれを、俺達のなかの誰よりも先に終えたのだ。

一体彼女は何なのか。無属性、優れた頭脳、美しい容姿。どれをとっても出来過ぎている。

―――馬鹿らしい疑いを持ってしまうほどに。


「セルス?」


声をかけられるまで思考の海に沈んでいたことに気が付かなかった。

いつの間にかエヴィはいなくなり、リラがこちらを覗き込んでいる。


「……何だ」


「移動教室だから行きましょう?薬室に行って白衣を着て待っているようにとエヴィ先生が。……具合が悪いんですか?」


薄い氷のような瞳が細められてわずかに色を深める。そこから目をそらして俺は立ち上がった。


「いや、少し考え事をしていた」


「ならいいんですが」


「それより残りの二人は?」


あの二人だけで先に行くというのは考えにくい。

どうあってもこちらに関わってくると言うか――鬱陶しい程絡んでくるのだから。


「先生が今日作る薬の材料運びを手伝って欲しいと言って、あの二人は連れていかれてしまいました」


よっぽど重い物があるんでしょうか、と笑って彼女は俺に並んだ。

教室の戸締りをして廊下に出る。確か薬室があるのは東塔だっただろうか。


「あの教師が面倒臭がっただけでは?」


「それは……もしかしたらそうかもしれないですね」


俺の言葉を否定せずリラは苦笑する。

本来なら授業中という時間帯の今、廊下に人影はなく静かな空間に微かに声が反響した。


「そう言えば、前に言った意味、わかりましたか?」


「前……?」


表情を悪戯なものに変えた彼女はそう言って小首を傾げた。

一体何のことを言っているのだろうか。


「木の下で、それはどうでしょう、と言いましたよね?」


「あぁ………貴女は読んでいたということか」


「何となくですが」


リラが言っているのはクラウスに魔術書を貸した件に関してだ。あの日のうちは全く理解できていなかったことだったが、その翌日には俺も嫌でも察した。

魔術書を貸せば関わってこなくなるのではない。むしろ貸したことで更にクラウスはこちらに絡んできた。それはどうかと、俺の呟きに返したリラはその事を予想していたのだろう。だから同時に明日になればわかるだろうとも俺に伝えた。

彼女のこういう部分にも、俺は戸惑ってしまう。何もかもを見透かしているようで。


「面倒なことになったと、最悪な気分だ。あの時気づいていれば…」


「でもセルスはそんなに嫌がっていなかったと思います。だってセルス、あんな風に魔術について誰かと話すの好きでしょう?」


「は……?」


何を言っているんだ、彼女は。


「教えていくに従って段々口数が増えてきていますし、そもそもクラウスもセルスと同じで魔術書を読むのが好きなんですから、会話も弾むでしょう。だから――あら?」


「………」


つらつらと語る彼女はそこで言葉を止め、嬉しそうに微笑んだ。


「すごくビックリしていますね」


「なっ」


「私、貴方を驚かすのが好きなんです」


もはや何と言えばいいのかもわからない。

絶句した俺に、そんなつもりはないのだろうが追い討ちをかけるように更にリラの言葉が続く。


「最近セルス、口数が増えましたよね。まあ朝ご飯を食べてもあまり苦しくなくなってきたというのもあるのでしょうが」


何故そんなことまでわかる。


「……貴女は何がしたい」


食事や会話に誘い、親しげな笑顔で近づいてくる。

何もかもを受け止め許すような顔をして近づいてくるのは俺の存在を利用したい者達ばかりだ。

そしてそれが不可能と知るとその笑みを投げ捨て俺を罵り、離れていく。


「そうですね、もっとセルスと仲良くなりたいです」


彼女の笑顔はそれと同じものなのだろうか。


「……」


「あ、着いたみたいです。第5薬室と言っていたからここのはず」


無言の俺に何を思っているのかはわからなかった。

リラは何でもない会話の続きのように薬室をノックして扉を開ける。

室内にはエヴィの姿だけがあり、俺達をみとめて唇に笑みを掃いた。

リラの笑みがこれ程信用のならない類いのものならば、いっそ俺はこんな疑問は持たなかったのだろうか。


「早かったですわね。グロウ達もじきに来るでしょうから、白衣を着てくださいませ」


エヴィに示された白衣は俺達に配布されたローブと同様の効果を布にまとわせ作られたものらしい。

ローブで作業してもいいのだろうが、薬がこぼれても構わないようにとの配慮なのだろう。

白衣がかかっていたハンガーに今まで着ていたローブをかけボタンを留めていく。


「何だか新鮮な感じですね」


確かにリラの言う通り普段ローブ姿ばかり見ているから見慣れない感覚はある。

休日にはさすがにローブは脱いでいるが、俺はそもそもあまり部屋から出ないため更に違和感が強かった。


「あちらの二人も到着したようですわね」


その言葉と同時にグロウとクラウスが入ってきた。両手には山のように薬草の束や何かわからない液体の入った瓶などが積まれたカゴを持っている。一体この教師は一日でどれだけの薬を作らせるつもりなのだろうか。昨日の魔法史と同様にかなりの授業スピードが想像できて、憂鬱になる。


「おつかれさまですわ、二人とも。

材料は全てそこへ置いてしまって構いませんから、二人も白衣に着替えて下さいませ」


「はいはいっと。あー、つっかれた」


それなりに重かったのだろう、グロウはすぐに材料を手放しため息を吐いた。

クラウスも動作こそ丁寧だがカゴを置いた途端自分の肩を揉んでいる。


「まさかあの量を全部持たされるなんて…」


「あら、荷物持ちのために二人をわざわざ呼んだのですもの、当然ですわ。

それにこれらの材料は今日の授業に全て必要なものでしてよ?」


「いや、いくらなんでもこれ全部使うような薬品なんて聞いたことないですよ…」


「一日でひとつしか作らないとわたくしいつ言いまして?」


やはりか。


「もしかして、何種類か連続で作るのですか?

最初に作った薬品をまた次の薬品の材料として。それなら確かにこの量も納得ですけど」


リラは興味深そうに材料の山を覗きこんだ。どこから取り出したのか手袋までつけている徹底ぶりだ。


「最初は傷薬から、ですか?」


「リラの言う通りですわ。残りの皆さんも白衣のポケットに保護用の手袋が入っていますから、装着してから作業を始めていきます。

そうですわね……リラとセルス、グロウとクラウスのチームで組んでいただきますわ」


「何故俺が彼女と…」


「貴方は誰が相手でも文句を言うのではなくて?

それに薬品の調合で魔術も使いますから、光系統と闇系統はバランスよく配置しなくては。

更にいざと言う時無属性のリラのフォローも貴方ならできますでしょう?」


確かにエヴィの言うことは尤もな内容ではあった。悔しいが反論の余地はない。

黙り込んだ俺にリラは何の気まずさも感じていないような笑みでよろしく、と小首を傾げる。


「貴女は暢気な人間だな」


よくもまあ自分とのペアに文句を言った人間に対してそういった態度がとれるものだ。

やはり彼女は頭が緩いのだろうか。


「そうですか?初めて言われました」


「……貴女の周囲には暢気な人間が集まっていたんだろうな」


「それは否定できないです。それで先生、どういった順番で、どんな薬を作っていくのですか?」


「そうですわね。いい加減始めなければ、終業に間に合いませんわ」


エヴィはカゴの中からいくつかの材料を取り出した。


「まず午前中に傷薬、魔力回復薬、人工魔石を作っていきます。

それから一度お昼休憩をとっていただいて、一時からまたこの場所で薬品づくりですわ。

午後は痛み止め、麻痺薬、毒薬に惚れ薬、最後に薬草クッキーを作成して終わりにするつもりです。

皆さん何か質問はございまして?あぁ、細かい作り方は勿論実演しながらきちんと伝えるつもりですわ」


「…………」


おそらく俺同様、色々と言いたいことがあるだろう他の三人も何から言えばいいのか困惑しているようだ。その中で遠慮がちに手を挙げたのはリラ。


「あの、エヴィ先生?最後のクッキーは何なんですか?」


「いやそこじゃねぇだろ!?」


「え?」


今回ばかりはグロウの発言が正しかった。


「クッキーは薬草を扱うことや薬品づくりに親しんでいただくための取り組みの一環ですわ」


「いや順番が明らかにちげぇからな!なら最初にクッキーだろ!」


「あら、最初からクッキー作りだなんて面白味に欠けますわ」


「僕としては面白味とかの問題じゃないと思うんですけど……」


「何を言おうとこれは既に決定事項ですわ。

カゴを二人でひとつずつ持って、左右の作業台に置いて下さいませ」


それまでのやりとりに反論するのさえ馬鹿らしくなって、俺は無言でカゴを持ち作業台に向かった。

クラウスもその方が色々と早く済むと悟ったのかグロウを連れて反対側の作業台に移る。


「ではまずは傷薬から始めていきましょう。材料は二つで、水と癒しの薬草ですわ」


「薬草を擂って水と一緒に煮ればいいんですよね?」


「その通りですわ。これは【一般薬】で家庭にも作り方が普及しておりますし、特に魔力を使わずともできるものですからパパッと作ってしまって下さいませ。何か質問があれば言って下さいませね」


そう言うとエヴィはこの時間に先程提出したレポートを読むつもりらしく、椅子に座って手元に視線を落とした。完全に放置するつもりのようだ。

【一般薬】は誰もが家庭で、そして無許可で作ることのできる薬の総称だ。それに対して魔術師が魔力を用いて作製するものを【魔薬】と呼び、魔力を持たない薬師が各国からの認可を受けて作るものを【専門薬】と言う。


「じゃあ私は薬草を擂り潰しておきますね」


「待て。貴女だと時間がかかるし、俺がやる。代わりに水を沸騰させておいてくれ」


「別にそんなにひ弱じゃないですよ?」


「そうは見えない」


薬草を擂り潰す作業は慣れていない人間にとっては重労働だ。

彼女のようないかにも華奢な腕では時間がかかるのは明白だった。


「セルスやっさしー。僕達のも擂ってー」


「クラウスお前勇気あるな……」


しかし外野が騒がしい。


「五月蠅い。俺は面倒が嫌なだけだ。リラに任せたら一体何時間かかるかわかったものじゃない。だから自分でやる」


「そこまで言わなくてもいいのでは……」


リラは苦笑しつつ小鍋に水を注いだ。どうやら俺の言葉に従うらしい。


「癒しの薬草とすり鉢も用意しておいたので、お言葉に甘えてそっちはセルスにお願いします。でも疲れたら交代するので言ってくださいね?」


「別に気遣いではない」


「私はそう受け取っておきます」


再びこれ以上は何を言っても無駄だという気にさせられて、俺は無言で薬草を擂る作業に入った。

癒しの薬草はよく森の中に生えている一般的な草で、擂ると粘りが出てくる。この粘りが強いほど薬になったときに効果が高くなるのだ。それを水と煮込むことでやや水分が増し、質感がゆるくなる。スプーン等にすくってゆっくりと落ちるくらいが最適な状態となっている。

この傷薬の作り方は基本的に誰でも知っているようなもので、家庭でも作られるものだ。もっと効力の強いものや、貴重な材料を使ったものは専門家である薬師や魔術師に依頼して買い求めるのが一般的である。


「セルス、できましたか?」


どうやら水が沸騰したらしく、リラが横からすり鉢を覗き込んできた。


「まあこんなものだろう」


「じゃあお湯に入れましょうか」


擂ったものをを全て鍋に入れれば独特の匂いがして、すぐに傷薬は完成した。

煮込むと言っても数秒でいいからだ。むしろあまり熱を与えすぎると効果が弱くなる。


「できた傷薬は空の瓶に入れて冷ましておいて下さいませ。

グロウ達の方も出来上がったら、次は魔力回復薬を作りますわ」


あちらのチームはまだ薬草を擂っている段階のようだ。

恐らく今まで作ったことがなかったのだろう。


「セルスは魔薬を使ったこと、ありますか?」


俺が傷薬を瓶に移し終わったのを見計らい、リラがそう尋ねてくる。


「ある。勿論作ったことはないが。

資格がなければ魔薬の作成は原則議会の定めに反する」


どこかの国の義務教育過程では魔薬の作成を経験させるところもあるようだが。

義務教育過程は様々な国が独自の取り決めによってその期間や授業内容を決定していくため、そういった地域差は大きい。

ちなみに魔術師としての資格のない、学院入学前の魔力持ちが個人で魔薬を作ることは議会の定める重罪のひとつに数えられている。魔力を与える分効果が強くなるため、下手をしたら製作者にその意思がなくとも服用者の命を奪うこともありえるためだ。


「私もないんです。確か魔力を注ぎながら薬を作るんですよね」


「魔薬に魔力を注ぐための詠唱を行って、だ。

まあ俺も貴女も短略詠唱ができるから、詠唱なしに薬に魔力を注ぐことは可能だろうが」


魔薬用の詠唱はあくまで薬に与える魔力を身体から引き出すためのものだ。

従って短略詠唱ができる魔術師は魔薬作成において詠唱は必要としない。


「私の場合はそうでもないかもしれません。

どの属性の魔力が出てくるかわからないので、きちんと詠唱しておかないと…」


「そう言えばそんな問題があったな」


そうだとして、無属性で短略詠唱を可能とした彼女の力は本物だろう。


「リラ、セルス。グロウ達が終わりましたから、手順の説明をしますわ」


エヴィに呼ばれて意識をそちらに移す。

――そう、もし俺がそうだったなら、きっと短略詠唱など不可能だっただろうから。








*****








無属性とはどういうものだろうか。

もし俺がそうだったなら。あるいはそうでなかったなら。

今とは全く違う存在に、俺はなれていたのだろうか。


仮定は無意味でしかないし、今の俺がどんな存在であるのか知っている者は俺の周囲に存在しない。

けれど不意に思うのだ。もしも俺が―――でなければ、と。


『無駄だ』


『どれだけ逃げても逃げられない』


『解放などありえない』


いつだって声が耳元で囁く。


『お前は穢れた存在だ』


『その緋色、その身体のなんと尊いものか』


『それを役立てられるのは我らの元でのみ』


悪意と嘲りと歪な崇拝が身体に絡みつく。

時折示される救いの手は、或いは更に俺を深く落とす手でもあり。

その度息ができなくなるような感覚に陥った。

そうしていく中でようやく俺は気づいたのだ。人は人を裏切るものだと。

誰しもが自分だけを大切に思い、自分のために他人を切り捨てるのだと。

だから俺もそうする。俺は俺のために他人を信じない。遠ざける。


――ただ、そうする度に、更に俺に絡む暗い闇の力が強まるのは何故なのだろう。

心を氷の鎧で覆うほどに夜が恐ろしく感じられるのは何故。

どうして俺はこんなにも、弱いままでしかいられないのだろう。

どうすればこの闇から抜け出せるのか。重く苦しい闇の中、いつもそれだけを考える。


誰か。誰か誰か誰か誰か誰か。俺を――


「セルス」


「―――――っ!!」


文字通り飛び起きた。

布越しに触れる芝の大地、木の葉の間から降り注ぐ日の光、春を思わせる柔らかな風。

ここは、エルヴィストだ。


「セルス?」


「あ……」


もう一度声を掛けられてそちらを見る。

昼休憩の最中、いつもの場所で読書をしている間に眠ってしまったらしい俺の傍に、いつの間にかリラが寄ってきていたようだ。また気配に気付かなかった。そもそもこんな場所で寝入ってしまうなど、自分が信じられない。今までならありえなかったことだ。


「大丈夫ですか?魘されていました」


「何でもない」


「冷や汗もすごいです」


「問題ない」


「そうは思えません…」


リラは俺の顔色を窺うように見て、目を細めた。また、あの薄氷の色が深まる。

彼女の持つ色はそれだけ見れば冷たいもののはずなのに、ともすれば春の日差しのようなあたたかさを持っているように思えた。そう思うことすら、今までの俺ならなかったはずなのに。

―――絆されている、のかもしれない。彼女に。

思うと同時にそれを認めたくない俺が咄嗟に叫ぶ。


「……貴女には関係ない。さっさとどこかへ行け。邪魔だ、俺に関わるな!!」


思えばここまでの強い言葉を、初めて彼女に向けたかもしれなかった。

しかし語気荒く叫んでもリラは立ち去らないばかりか、左手をローブのポケットに入れて何かを取り出した。

いつも彼女が渡してくる飴玉だ。器用に左手だけでそれを袋から取り出してつまみ、俺の口元へ持ってくる。


「今日の分をまだ渡していなかったと思って、ちょっとお昼ご飯を抜け出してきたんです。午後の授業まで時間ももう少しですから、一緒に食べましょう?」


「だからっ、俺の話を――」


口を開いた瞬間に口の中に飴玉を入れられる。吐き出そうと思って、どうしてか出来なかった。

他人から与えられたものだ。いつもなら包装紙を自分で破るから、何かしらの手が加えられていないことはすぐわかる。けれどこれはリラが開けたもので、彼女の手によって与えられたもの。毒が含まれていたとして、俺はそれに気づけない。

だと言うのに、俺は飴玉を吐き出せなかった。


「大丈夫ですか?」


遠慮がちにリラの手が俺の肩あたりをさする。

何だか何もかもが馬鹿らしく感じられて、自然と強張っていた身体の力が抜けた。


「大丈夫、だ」


「ならよかったです」


そう言ってリラはそっと手を下した。


「………貴女は、無属性だ」


「そうですよ?」


「貴女は馬鹿だ。理解できない。わけがわからない。俺を混乱させる」


「そんなつもりはないんですが…」


「黙っててくれ」


「…………」


「何で本当に黙るんだ。馬鹿なんじゃないか?」


「えぇと……つまり私はどうすれば?」


「何もしなくていい」


そうだ。俺はきっと、リラに何もして欲しくないのだ。

彼女の笑みが本物でも偽物でも、きっと俺は壊れてしまうから。


「私は色々セルスとしたいことがあるんですが」


「知らない。取りあえず今はもうどこかに行ってくれ。リラ、貴女といると……俺まで、馬鹿になってしまいそうだ」


理不尽な話だった。

リラからしたら訳がわからないだろう。俺の叫びの意味も、抱く疑問も、彼女に余計な感情を持ちそうになる心も、きっと彼女は永遠にわからないはずだ。

だと言うのにじっと俺の顔を見つめてから、リラはひとつ頷いて微笑んだ。


「……色々と言いたいことはありますが、セルスがそこまで言うなら先にいきますね。もうすぐ午後の授業もありますし、早めに白衣に着替えておかないと」


けれどリラが立ち上がる様子はない。


「……何してるんだ。さっさと行ってくれ」


訝しんで見つめる俺に、リラは困ったように微笑んだ。とん、と俺の左手を指先で軽く示す。


「セルスが離してくれないと、行けません」


彼女の右手首から、慌てて手を離した。

ありえない。自分から他人に触れるなんて。俺が他人に―――縋る、なんて。


「これは、その…」


「魘されていたところに手を出してしまったから、とっさに握ってしまったんですね。もう少し早く言ってもよかったんですが、タイミングが掴めなくて」


「……っす、まない」


「気にしないでください。それじゃあまた後で。午後も一緒に薬づくり、頑張りましょうね?」


そう言って立ち去るリラは、一度振り返って手を振ってからはこちらを見ることなく建物へと消えていった。

やはり彼女は、何もわかっていない。けれどそれでも――


「何なんだ、一体……」


きっと彼女以上に俺の方が、何もわからないのだ。







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