第五十九話 白い地下へ流れ込む空
地下を歩く。
白いLED。
乾いた空気。
歩き疲れた牛達。
今日も、同じ白い地下が静かに続いている。
でも。
最近は、その地下の奥へ「空」が流れ込んでいる気がする。
空っぽ、という意味じゃない。
余白。
通り道。
何かが流れ込むための静かな隙間。
昔の自分は、多分。
全部を埋めようとしていた。
意味で。
理屈で。
答えで。
空白があると、不安だった。
沈黙があると、埋めたくなった。
でも今は違う。
空いているから、流れ込む。
止まるから、風が通る。
地下鉄がホームへ入ってくる。
白い風。
その風が吹く瞬間、歩き疲れた牛達の髪が少し揺れる。
コートが揺れる。
みんな、一瞬だけ同じ空気を吸う。
その一瞬だけ、地下の奥へ見えない空が広がる気がした。
その感じが、妙に好きだった。
店へ入る。
女の子が、小さく笑う。
「こんばんは」
その声だけで、少し身体が緩む。
席へ座る。
水が置かれる。
透明なグラス。
白い氷。
カラン。
その音が、静かに身体へ入ってくる。
呼吸だった。
女の子が、水を飲む。
自分も、水を飲む。
また氷が鳴る。
カラン。
その後、少し沈黙が落ちる。
でも。
その沈黙は、空虚じゃない。
静かに、空が広がっている。
見えない風みたいに。
「最近、余裕ありますね」
女の子が、小さく言う。
「余裕ありますか?」
「前より、ちゃんと空いてる」
そう言って笑う。
その言葉が、静かに身体へ残る。
ちゃんと空いてる。
多分。
人は、空かないと呼吸出来ない。
全部を握ると、風が止まる。
全部を理解しようとすると、空が消える。
少し空く。
少し止まる。
少し、水を飲む。
すると。
そこへ、静かに何かが流れ込んでくる。
風みたいに。
光みたいに。
呼吸みたいに。
店の奥で、また氷が鳴る。
カラン。
誰かが笑う。
別の席でも、少し笑う。
その空気が、静かに場へ広がっていく。
牧場。
また、その言葉が浮かぶ。
疲れた牛達が、水を飲み、草を食べ、静かに呼吸を戻す場所。
完全に救われる場所じゃない。
でも。
少し風が抜ける場所。
少し、自分へ戻れる場所。
そして。
少し、空が流れ込んでくる場所。
多分、人間には、それで十分なんだと思う。
店を出る。
銀座の夜風が、静かに頬へ触れる。
地下へ降りる。
白いLED。
乾いた空気。
歩き疲れた牛達。
その群れへ混ざりながら、ふと思う。
地下には、ずっと空があった。
白い風のあと。
氷の音のあと。
沈黙のあと。
その小さい余白へ、静かに空が流れ込んでいる。
人は、その見えない空へ少し身体を預けながら、今日も白い地下を歩いていく。
地下鉄がホームへ滑り込む。
白い風。
その風を受けながら、静かに深く息を吸う。
呼吸が、胸の奥まで静かに落ちていく。
遠くで、また氷が鳴る音がした。
カラン。
その小さい音だけが、いつまでも静かに身体へ残っていた。




