第五十六話 白い地下へ落ちる呼吸
地下を歩く。
白いLED。
乾いた空気。
歩き疲れた牛達。
今日も、同じ白い地下が静かに続いている。
でも。
最近は、その白い空間そのものが、ゆっくり呼吸している気がする。
風が流れる。
人が歩く。
氷が鳴る。
沈黙が落ちる。
その全部が、静かに膨らんでは縮み、また流れていく。
まるで、地下そのものが肺みたいだった。
昔の自分は、多分。
世界を「構造」だと思っていた。
原因と結果。
INPUTとOUTPUT。
正しく考えれば、正しい答えへ辿り着く。
そうやって、世界を固めようとしていた。
でも今は違う。
世界は、多分。
もっと呼吸に近い。
掴むものじゃない。
流れるもの。
混ざるもの。
少し空くと、そこへ何かが落ちてくる。
地下鉄がホームへ入ってくる。
白い風。
その風が吹く瞬間、歩き疲れた牛達の髪が少し揺れる。
コートが揺れる。
みんな、一瞬だけ同じ空気を吸う。
その一瞬だけ、地下の時間が少しゆるむ。
その感じが、妙に好きだった。
店へ入る。
女の子が、小さく笑う。
「こんばんは」
その声だけで、少し身体が緩む。
席へ座る。
水が置かれる。
透明なグラス。
白い氷。
カラン。
その音が、静かに身体へ入ってくる。
呼吸だった。
女の子が、水を飲む。
自分も、水を飲む。
また氷が鳴る。
カラン。
その後、少し沈黙が落ちる。
でも。
その沈黙は、もう空白じゃなかった。
静かに、何かが満ちている。
見えない呼吸みたいに。
「最近、なんか軽いですね」
女の子が、小さく言う。
「軽い?」
「前みたいに、無理に掘ってない」
そう言って笑う。
その言葉が、静かに身体へ残る。
無理に掘ってない。
多分。
昔の自分は、ずっと下へ掘っていた。
意味を。
答えを。
本質を。
でも。
掘るほど、苦しくなっていた。
呼吸を止めていたから。
でも今は違う。
少し空く。
少し止まる。
少し、水を飲む。
すると。
上から、静かに何かが落ちてくる。
風みたいに。
光みたいに。
呼吸みたいに。
店の奥で、また氷が鳴る。
カラン。
誰かが笑う。
別の席でも、少し笑う。
その空気が、静かに場へ広がっていく。
牧場。
また、その言葉が浮かぶ。
疲れた牛達が、水を飲み、草を食べ、静かに呼吸を戻す場所。
完全に救われる場所じゃない。
でも。
少し風が抜ける場所。
少し、自分へ戻れる場所。
そして。
少し、見えない呼吸が落ちてくる場所。
多分、人間には、それで十分なんだと思う。
店を出る。
銀座の夜風が、静かに頬へ触れる。
地下へ降りる。
白いLED。
乾いた空気。
歩き疲れた牛達。
その群れへ混ざりながら、ふと思う。
地下には、ずっと呼吸が落ちていた。
白い風のあと。
氷の音のあと。
沈黙のあと。
その小さい余白へ、静かに呼吸が降っている。
人は、その見えない呼吸へ少し身体を預けながら、今日も白い地下を歩いていく。
地下鉄がホームへ滑り込む。
白い風。
その風を受けながら、静かに深く息を吸う。
呼吸が、胸の奥まで静かに落ちていく。
遠くで、また氷が鳴る音がした。
カラン。
その小さい音だけが、いつまでも静かに身体へ残っていた。




