011
結論から語る。
――神園華は壊れている。
餓死と蘇生を繰り返していたあの時に壊れてしまったのか、といえばそういうわけではなく。
もとよりすでに壊れていたのだといえばそれが真実だろう。
神園家。その家は、古よりその地に根深く住み着いた名家の一つだった。
その名家は会社を経営していた。
彼らはいくつもの企業を経営していたが、素晴らしい経営というほどでもなかった。
ただ凡庸でも、やるべきことを粛々とやっている。そういう経営でずっとやってきていた。
もっともそんなことでは生き馬の目を抜く経済の世界で生きていけるわけはない。
だけれど、神園家はずっと経済界を生き残ってきた。凡庸な者たちが、強者であり続けてきたのだ。
どうやって?
正道ではない。
邪道である。
しかしそれはまた1つの王道でもあった。
経済に明るくないならば、別のところからもってくるだけのこと。
神園家は政財界と深いつながりを持っていた。
――神園の女には魔性が宿る。
神の園に棲むうつくしきおんなたち。男を狂わす異貌の毒花。
神園の家には常に多くの美しい娘たちがおり、その娘たちは一定の年齢になるとどこぞへと連れていかれる。
神園家を知る人々は彼らを女衒が如くに蔑んだ。
だが、娘を売るごとに神園の家は肥え太っていく。蔑み、妬む彼らも神園の娘をあてがわれ、次第に声も小さくなっていく。
男をたぶらかし操ること。それは女が古より持つ力だ。
神園家とは、要はそういうことをやって大きくなっていった家なのだ。
神園華という娘も、何事もなければそうなるはずであった。
哀れな神園の贄。己が何のために生まれたのかを理解してなお家に尽くしてしまう可哀想な娘。
もっとも彼女はもとより幸福な生を望んだこともなければ、その人生を不幸なのだと思ったこともない。
――助けてと、小さく呟いたことはあったけれど。
神園華もまた、神園の家の従順な家畜であった。
神園の娘とはそういう資質をもって生まれてくる。否、抗してしまう娘は生きてはいけぬ。そういう家なのだ。
華が華になるまでの記憶。もはやどうでもよくなった記憶だけれど、そこに彼女の原点があった。
一つ一つを掬い取るようにして彼女は思い出す。どれもこれも色あせた屑石のような思い出。
――完璧であることを望まれた生だった。
およそ人にできることはなんでもできる。その文言をカタログに載せるためだけにこの18年の間、努力を強いられてきた。
彼女が女として純潔を保てたのは、ただその方が価値が上がるというだけのことで。
高校へ入学できたのは、華を受け取る予定の相手が華が高校を卒業することを希望しただけのこと(その方が愉しめそうだから、と、それだけの理由で)。
華は、語ることすらおぞましい教育を生まれた時から施されてきた。なぜ、どうしてなどと聞くことすらおかしなものを見せられてきた。
華は、それが異常であることを知っていたし、道徳的におかしいことも知っていたけれど。
それをどうにかしようとは思わなかった。
だって華は『神園の娘』だったから。男を狂わすためだけに生きることを望まれていたから。
そうして神園に、富を授けるのが、華の役目だと教わり続けてきたのだから。
華は生まれた時から既に出荷先を決められていた。
それは国政にも参与するとある議員の一族にだ。
彼女の生は、脂ぎった狒狒爺の玩具にされるためだけに存在した――
――はずだった。
華は今、幸福の中にいる。400を超える生徒たちの中で、彼女だけがこの境遇を喜んでいる。
華は、地球とはかけ離れた奇妙な場所で、彼女を異常者を見る目つきで見てくる後輩を崇拝している。
たすけて、と彼女は訴え続けてきた。
声には出さなかった。顔にも出さなかった。視線にも、動きにも、思考にも何も。
だけれど華はずっと訴え続けてきた。学校生活の中で、ずっとずっと誰にも言えない家の秘密を。自分がこの先どうにかされてしまうことへのタイムリミットに怯えながらずっとずっと助けを求め続けてきた。
誰も助けてはくれなかった。
誰も、誰も、誰も、誰も、誰も。
優しい先生も、頼れる先輩も、慕ってくる後輩も、溢れるようにして自称する友達たちも、親友と名乗る煩わしい少女も、華に好きだと言ってくる男たちも、誰も彼もただの一つも助けてはくれなかったのだ。
言わなかった華が悪かったのだろうか? 助けてと一言言えば彼らは助けてくれたのだろうか?
国家を動かす巨大な政治的圧力に抗って、中流家庭なら一夜にして破滅させられる経済の化物を倒してくれたのだろうか?
華には、そういうことはわからない。ただ助けてくれなかった結果だけしか華の記憶には残っていない。
そういえば唯一、期待できそうな子がいたような気もしたけれど。
華はその記憶を即座に消し去った。
――けがらわしい。
忠次の幼馴染の少年。あれは偽物だ。華の救世主ではない。華の神様ではない。華の待ち望んだ人ではない。
ただ思わせぶりで、鈍感なだけの、憎むべき悪だ。
(いけない。変な人のことを思い出してしまったわ)
かつて淡い想いを抱いた少年を名前ごと忘却した華の目の前では、新井忠次が華の言葉を待っていた。華の説明を待っていた。
しかし、華の反応がないことでへへっと苦笑を浮かべると。
「使いこなすって、また変なこと言ってますよね先輩」
はいはいスルースルーと呟いた忠次はステータスから『撤退』のコマンドを選ぼうとしている。
ボスを目前にして、小胆を発揮しようとしている。
それをそっと手を出して留める華。
――そうだ。忠次様にご説明をしないと。
「いいえ、忠次様。レアリティなど関係ありません。人は、きちんと過程を踏めば強くなれるのですよ」
それをこれから説明しますね、と華は忠次に言う。
逃げるのは、まだだと。逃げるなら、よく考えて。と華は教育を始める。
そう。神へと自身の経験を捧げるのだ。自分が経験してきた全てを効率化して忠次様に捧げるのだ。
華は信じている。自分ごときがLRなどというレアリティを手に入れて、忠次様がRなどという現実は間違っていると。
思い込みである。新井忠次のレアリティはただしくRレアリティである。冷たく正しいこの世界の『システム』はそう裁定を下している。
新井忠次のレアリティは、Rなのだと。
――だが、華の認識では、忠次こそがLRであるべきだった。
否、否だ。レアリティなどというくだらない物差しで忠次を測ってはならないと華は考えている。
しかし現実として忠次のレアリティはRであり、それはこの世界での価値観ではそれなりに重要ごとであった。
で、あるならば。
華の経験を注いで、忠次を強くすればいい。
この哀れなる脳髄には、運動も学問も武道も政治も、およそ人ができるとされるすべてが詰まっている。
――神園華は壊れていた。
もともと壊れていた。それが餓死と蘇生の繰り返しで更に壊れた。
神園華という生き物は。闇だった。その精神はすでに限界まで磨り潰されていて。今までは擦り切れた残骸が機械的に華を模して動いていたにすぎない。
華は学校生活で笑顔を作っていた。穏やかで、優しい、癒やされる笑み。そう言われ続けていた。だけれど顔の奥底でずっと泣いていた。誰もそれに気づくことはなかった。
しあわせそうな同級生たちが、とても羨ましかった。くだらないことで一喜一憂して、温かい家族の待つ家に帰れる彼らが羨ましかった。
光の側の高校生活を終えて、闇しかない家に帰る華は、自分が道徳的でない環境で生きていることを思い知らされていた。
家に帰る道中。理由もわからぬ涙がこぼれたのはいつだっただろうか。
だけれど、と華は嬉しくなって忠次様に微笑む。
――もう、わたしはそんなくだらないことを思い悩まなくていいのだ。
光が目の前にある。
華の救世主が目の前にいる。
華の神様が華の手を握ってくれている。
華は嬉しくなって忠次様を抱きしめたくなって抱きしめようとして神様に額を押さえられる。
そんな他愛のないことが嬉しくて笑みが自然と溢れる。ずっとずっと本当の笑顔でいられる。
華は光の中にいる。自分が正しい信仰を得ていると確信できている。
だって華の記憶には強く強く焼き付いている。
あの瞬間、たすけてくださいと神様にお願いをした瞬間を。
おなかがへってしにそうで、たすけてほしくて、ただただ願って、願って、願って、だけれど誰も助けてくれなかったわたしの人生を。
この人が。新井忠次が。助けてくれたのだ。
――神園華は壊れている。
餓死と蘇生を繰り返すことで破壊され続けていた精神が、救われない生涯と蘇生地獄を結びつけた。
これはただ、それだけのこと。
境遇は救われていないのに、ただ助けられたというだけのそれで、全てを勘違いしてしまった。
誰が見ても新井忠次は華の救世主足り得る器などではない。
だけれど、神園華は幸福だった。
そんなことはどうでもいいのだ。
だって、華が決めたのだから。神園華が新井忠次を救世主だと、そう決めたのだから。
だから、彼女は、赤子のように、純粋に笑えるのだ。