番外編:未来のヴェール
薄暗い闇の中、その男は息をひそめて『客人』を待っていた。
階下からは酒場の賑やかな声が聞こえるが、板一枚挟んだこの場は、ひっそりと静かな闇の世界。もはや、この世とは駆け放たれた別世界のよう。
実際、それは別世界である。
階下で騒ぐ者たちは知らない。今、彼らの頭上で、どのような存在が現れ、どのような契約が交わされるのか。
情報屋であり、さまざまな依頼を仲介するその男はまた、そんな世界をつくりだすこの店が気に入っていた。足元にはある『表の世界』と、己の肌で感じる『裏の世界』。双方を感じる事のできる、この木造でできたレトロな酒屋が、彼の縄張りのひとつだった。
そして今夜もまた、そんな彼のもとに『客人』が現れる。
「・・・相変わらず、神出鬼没だな」
ほんの少し扉から目を離しただけなのに、再び視線を扉に戻せば、いつのまに部屋に入ったのか、そこには長身の『客人』が佇んでいた。
「よく来たな。今夜はまだ冷える。どうだい、こちらに座れや」
気配を消して突然現れたその存在に、男は今更驚きもしない。もう慣れたものだ。
男の『客人』など、みんなこの類なのだから。
だから、男は屈託なく笑って、相手に目の前の席をすすめる。
相手も特に警戒する様子もなく、滑るように足音ひとつ立てずにそこまで歩くと、そのまま素直に席に着いた。
「久しいな。あなたからわたしに<依頼>なんて」
「そうかもな。最近ずいぶんと忙しそうじゃないかい?」
「それはお互いさまだろう?若くないのだから、せいぜい健康には気をつけるのだよ」
「おまえさんからそんな言葉をもらえるなんて、明日はこのパリに雪どころか槍が降ってくるかもしれんな」
くくくっと男は喉を鳴らして笑うと、相手も気を悪くした様子もなく薄く笑みをもらした。
「早速だが、<依頼>の内容を聞こうか」
相手がそう切りだせば、男も表情を引き締め、ワインを一口煽ってから一枚の紙を相手に差し出した。
「これが<依頼人>と<依頼>の内容だ」
「・・・ほぅ・・・」
ざっと目を通した『客人』はそれだけ漏らすと、手に持っていたライターで紙を燃やした。
「・・・受けるつもりかい?」
「あぁ、受けるよ。ちょうど個人的にも邪魔だと思っていたからね」
男が問えば、相手はあっさりと承諾する。笑っていない目で薄く笑うその相手は、裏世界に名を轟かす殺し屋である。
・・・残念だが、目の前の殺し屋が相手では、誰も敵うまい。
この<依頼>もまた、すぐに果たされるのであろう。
男はそんな思いを巡らせてから、念のために『客人』に言い加えておく。
「詳細は現地で<依頼人>が話すそうだ」
「わかった。・・・抱えている仕事があるから、さっさと片付けて向かうとするか」
頷いて、『客人』は立ち上がり遠くを見つめ、ぽつりと呟いた。
「・・・あの国に行くのも懐かしいな」
未来のヴェール
眩しいほどの晴天の青空のもと、憂い顔の青年、クラウス・レーマンはなぜか深く重いため息をついた。
彼は先ほど降りかかった我が身への不幸を嘆いていた。
理不尽な現実に憤りと失望を感じ、思わず家を飛び出して向かってしまったのは、いつもの場所。
ドイツの主要都市のひとつ、ハイデルベルクに流れるネッカー河の河沿いにある、とあるカフェ。
クラウスはそのカフェのコーヒーがお気に入りだった。
けれど、今日の彼はそれ以上に目を惹かれるものを見つけてしまった。
いたのだ、まるで天使のように麗しい美女がそこに。
ただそこに「在る」だけで圧倒的な存在感は、クラウスだけではなくカフェにいる客人全員の目を惹きつけていた。
彼女はカフェのテラスの席に座ってコーヒーを飲みながら読書をしている。
白くて細長いその指は、片手に持つ本のページをめくるときだけ優美な動作を見せる。
秀美な彼女の腰までまっすぐに伸びたレッドブラウンの髪は時々吹きつける風に踊るが、彼女はそれにも構うことなく、ただ黙々と読書を続けている。
クラウスは悪友たちのように、節操もなく女に声をかけるような軟派な青年ではない。むしろその逆で、好きだと思った女性にそれを告げることもできないほど、シャイな青年だった。
そんな彼の背中を押したのは、皮肉にも先ほど彼の身に降りかかった「不幸」だった。
つまりは、ヤケクソな気分で彼女に近づいたのだ。
「やぁ。今日はいい天気だね」
けれど、かけた自分の声はひどく震えていることに、クラウスは内心舌打ちしたくなった。
やはり、慣れないことはするものではない。
すると、彼女は読書のために伏せていた長い睫毛を震わせて視線を上げると、鮮やかなブルーの瞳でクラウスの顔をじっと見つめた。
「えっと・・・・・・。その本、おもしろい?なに読んでるの?」
滑稽なくらいにぎこちない自分の会話力に、なんだか嘆きたくなるクラウス青年である。
あまりの恥ずかしさに耐えきれず、このまま立ち去ろうかと後退し始めた彼に向かって、驚いたことに、目の前の美女が微笑んだのだ。
「そうね、暇つぶしくらいにはなるかしら」
それが本のことを言っているのかどうかわからなかったが、クラウスはそんなことを考える余裕もなかった。
それほど、彼女の微笑みは魅惑的で惹きつけられたのだ。彼の意識まるごとを奪われるかのような・・・・・・。
「あなたはこの町の人かしら?」
パタン、と音を立てて本を閉じたレッドブラウンの髪の美女は、呆けているクラウスにそう尋ねてきた。
はっとすぐに我に返った彼は、まるで首振り人形のように何度も首を縦に振った。
「う、うん。僕はクラウス・レーマンっていうんだ。・・・君は、観光者?」
「いいえ、ここにはちょっとしたビジネスで来たの。私はリュシーよ」
すらりと白くて細いリュシーの手がクラウスに伸びる。おそるおそる、といった感じで、クラウスは彼女の手を握った。
そんな純朴少年のような彼の反応に、リュシーは小さく笑うと、さらりと胸に流れているレッドブラウンの髪を掻き上げて、クラウスに話しかけた。
「ねぇ?少しこのあたりを観光したいと思っていたの。案内していただけないかしら、クラウス?」
思いがけない彼女からの申し出に、クラウスはびっくりして瞳を何度か瞬かせたあと、何度も首を強く縦に振った。
「も、もちろんだよ、リュシー!!!」
それから彼は、半ば夢見心地な気分で、リュシーと共にハイデルベルクの街中を歩きまわった。
主には旧市街と呼ばれる街中を中心に歩きまわり、さらにこの街の名物のひとつであるネッカー河の河下りを勧めたが、彼女はそれほど時間はないのだとやんわりとそれを断り、カール・テオドール橋から河を眺めることだけですませた。
いったい何の気まぐれでクラウスと共に観光などを始めようと思ってくれたのか、彼は首を傾げながらリュシーの横顔を見つめてた。
あぁ、それにしても、本当に美しい。
まるで一枚の絵画から飛び出してきたかのように、橋から河を眺める彼女の横顔は絵になっている。
こうして短い間とはいえ共に過ごしていても、彼女が美しいだけではなく、優しく聡明であることがわかる。
柔らかく微笑むその笑顔に、クラウスの陰る心の中が、まるで照らされるようだ。
そうなのだ、どうせなら、リュシーのような子と・・・・・・。
「どうしたの、クラウス?」
「え、あ、いや、ううん。・・・リュシーは、赤い薔薇が似合いそうだなと思って」
「赤い薔薇が?」
「うん」
咄嗟について出た称賛のつもりの言葉だったが、クラウスは自分で言ってから、あぁ、本当に彼女には深紅の薔薇が似合いそうだ、と改めて思う。
透けるような白い素肌と秀美なその顔立ちだけでは白薔薇の方が似合いそうだが、彼女の中でひと際映えるレッドブラウンの髪と、強い意志を宿すブルー・アイを合わせれば、その美しい容貌には真っ赤な薔薇が似合うというものだ。
「ありがとう。でもね、私は赤い薔薇よりも黒い薔薇の方が好みだわ」
「黒い薔薇?」
「えぇ。・・・ねぇ、それよりも、あそこの城ってもしかしてハイデルベルク城?」
橋から見える、高台に浮かぶ煉瓦色の城を指さし、リュシーはクラウスに尋ねてくる。彼はすぐさま誇らしげに頷いた。
「そうだよ。行ってみる?・・・ちょっと登るから大変かもしれないけど・・・」
なにせ、ネッカー河の河下りをする時間すらないと言った彼女なのだ。
あの城まで登るには、それ以上の時間を要する可能性も・・・・・・。
「えぇ、ぜひ行ってみたいわ。上からの方が見やすいと思うし」
「・・・見やすい?」
「こちらの話よ。気にしないで」
あっさりと承諾した彼女が漏らした言葉尻にふと問い返してみても、彼女はにっこりと笑ってそれを濁した。
ハイデルベルク城に向かう道中は、ずっとクラウスがリュシーに色々と話しかけていた。それは己の大学の話だったり、友人たちの話だったりした。そんな話を彼女は時々相槌を打ちながら、楽しそうに聞いてくれていた。
「クラウスの周りは本当に楽しそうね。うらやましいわ、学生生活って」
そう言って微笑むリュシーは、どう見てもクラウスよりはずっと年上のようで、ビジネスでこの街を訪れていることからも、すでに学生時代は終わっているのであろう。
「・・・リュシーって、どこに住んでるの?」
「どこという場所も決まってないわね」
彼女のことをさらに知ろうと問いかければ、さらりと彼女はこちらが疑問を抱きそうな答えを返してくる。けれど、クラウスはそれ以上詮索するような愚かなことはせず、質問の仕方を変えてみる。
「じゃぁ、ここに来る前はどこにいたの?」
「パリよ。旧友に呼ばれてね。会いに行ってたの」
旧友に会ったという穏やかなはずのその返答は、なぜかひどく冷たく硬質な声色で、彼はこれ以上彼女に質問を投げかけることをためらってしまった。
「クラウスこそ、お友達や学校の話をしてくれるのに、全然家族の話はしないのね?」
逆に問いかけてきたリュシーのその一言に、彼はふっと表情を曇らせた。
「・・・今は、あまり考えたくないんだ・・・・・・」
「あら、それはなぜ?」
問いかけてくるリュシーの気配が、一瞬冷たく凛としたものに変わったように感じたクラウスだったが、すぐに彼女がにっこりとほほ笑んだので、自分の勘違いだったのだと思うことにした。
けれど、こんなことを出会ったばかりの彼女に言っていいのかわからずに、彼はそれに答えることに躊躇ってしまう。
しかも、彼女は、たぶん、自分が生まれて初めてナンパした相手なのだから。
そんなことを考えている間に、ふたりは目的のハイデルベルク城にたどり着いていた。
たび重なる戦で壊されたこの城は、修復することすら放棄され、ところどころ荒れたままその傷跡をさらしている。
平日であるせいか、観光シーズンではないせいか、はたまた日が暮れかかっているせいか、偶然にも城内にはぽつりぽつりとしか観光客がおらず、ハイデルベルクを見渡せるその展望の場には、誰もいなかった。
「ねぇ、クラウス。あなたの父親ってアルヴィーン・レーマンかしら?」
風にその鮮やかなレッドブラウンの髪をなびかせながら、リュシーが唐突に尋ねてきた言葉に、クラウスはその瞳を見開く。
「なんで・・・それを・・・?」
「あら?このあたりのひとなら、レーマンと聞けば、アルヴィーン・レーマンを浮かべるんじゃないかしら?」
「それは・・・そうかもしれないけど・・・・・・」
だけど、リュシーはこの街の者でもなければ、ただの観光客のはずだ。しかも、クラウスとは先ほど知り合ったばかり。
それなのになぜ、彼女は彼の父の名を知っているのだろうか。
たしかに、クラウスの父、アルヴィーン・レーマンはこのあたりでは割と名の知れた資産家だったりする。
ある業界では特に名の知れた存在であり、そのお陰でクラウスも何不自由ない生活を送っている。
けれど、その裕福な家庭の事情ゆえか、クラウスはあることを父に命令されたのだ。
「あなたがずっと憂い顔なのは、そのアルヴィーン・レーマンに関係があるのかしら?」
リュシーのまさに核心のついた発言に、思わずクラウスは息を飲んだ。
そんな彼の気配を察し、くすりと彼女は笑った。まるで騙されたかのような気分になったクラウスは、リュシーに話しかけたときと同じようなヤケクソな気分に再び陥り、視線を彼女からはずし、この城から見える街並みに移してから口を開いた。
「・・・・・・勝手に、父さんが僕の婚約を決めたんだ」
「婚約を?まぁ、あなたの家のような富裕層にはよくある話じゃない?」
「だけど!!そんな、勝手に・・・!!これは、僕の問題なのに・・・」
「クラウスは今、好きな人はいるの?」
「え・・・」
リュシーに問われ、思わず彼女を見返したクラウスだったが、すぐに首を横に振る。
リュシーは素敵な女性だと思うが、だからといってこの感情が恋愛感情かと問われれば、まだわからない。というよりは、違うと思う。どちらかと言えば、美人への憧れだ。
「そう。ならいいじゃない。その婚約者も知らない子ではないのでしょう?」
「な、なんで知って・・・・・・!!」
たしかにリュシーの言うとおり、アルヴィーンが勝手にクラウスの婚約者と決めた娘は、クラウスの全く知らない娘というわけではない。
だが、なぜそれをリュシーが知っているというのだ。
ティルア・ブルーデス令嬢。たしかに、財政が厳しくなった会社のためにも、アルヴィーン・レーマンの決断としては、ブルーデス家と繋がりをもっておくのは妥当な線ね」
「会社の財政が厳しい・・・?まさか、そんな話は父さんから何も・・・!!」
「表向きはね。でも、裏ではちょっと苦戦を強いられているのよ、アルヴィーンは」
「リュシー・・・?君はいったい・・・・・・」
先ほどまでの穏やかな笑みとは一転し、リュシーは冷涼な笑みを浮かべる。けれど、そのブルー・アイには笑みと言えるものは浮かんでいない。
コトン、と彼女は手に持っていた黒いケースを床に置く。
・・・手に持っていたもの?
リュシーはこんな大きなものを持って歩いていただろうか?
いや、持っていなかったとしたら・・・・・・いつの間に・・・?
大きな黒いケースを眺めながら、クラウスはハイデルベルクを一望しているリュシーの背におそるおそる問いかける。
なんだか、彼女が先ほどの彼女とは、別人物のように思えて。
「リュシー・・・?このケースは、なにかの楽器かい?」
「これ?いいえ、私のビジネスに必要なものなの」
「ビジネス・・・・・・?」
「ねぇ、クラウス。それよりも、ティルア・ブルーデスと結婚するのは嫌なの?」
「嫌っていうか・・・・・・だけど・・・」
クラウスは、ただ不服そうに言い淀む。
「・・・だって、親の意向だけで結婚・・・なんて・・・・・・。たしかに、ティルア嬢がとても感じのいい子だっていうのは知っているけど、でも、そんな、結婚なんて考えたことは・・・・・・」
「人と人の出会いなんていつだってそんなものよ。何かや誰かに引き付けられて引き合う。あなたとティルア・ブルーデスの結婚だって、たまたま親同士が決めたというだけで、決断するのはあなただわ、クラウス」
陽が傾いてきて、真っ赤な夕日がリュシーのレッドブラウンの髪をさらに紅く紅く染める。
「ティルア・ブルーデスとの結婚生活を案じているのなら、それは杞憂というものよ。未来は誰だって見えないものだもの。そんなことまで心配して憂いていても仕方ないの。憂うよりも『期待』しなさい。未来は自らで切り開くのだから」
昏々と語るリュシーの姿を、クラウスはただ茫然と耳を傾けるしかない。麗しいまでの形のいい唇を開き彼に説教する彼女の姿は、夕日を浴びて、まるで黄昏の天使のように見えるのだ。
「出会いなんてただの『きっかけ』でしかないのよ、クラウス。問題はふたりがどんな関係を築いていけるか、という『経過』なの。たしかに、あなたとティルア・ブルーデスの婚約には親同士のビジネスが絡んでいるけれど、ただビジネス上の関係としてしまうか、それともそれを度外視してふたりだけの絆を築いていけるかどうかは、あなたたちにかかっているのよ」
ましてや、今はあなたに好きな人だっていないわけだし?
リュシーはそう言ってくすり、と笑った。
何もかも見透かしたようなそのブルー・アイに引き込まれて、クラウスは何も言えなかった。
「親同士が決めた結婚でいやだと言うのなら、あなたたちだけであなたたちだけの絆を築けばいいだけでしょう?親に振り回されたくないというのは独立心旺盛でとてもいいことだと思うわ。でも、ビジネスのことも考えれば、たしかにレーマン家はブルーデス家とのつながりが必要なことも確かなの」
「・・・財政が苦しいから・・・だよね?けれど、なぜ・・・?さっき、裏では厳しいって言っていたけど、それって・・・・・・」
「アルヴィーンがね、ちょっと失敗したのよ。その一度の失敗を逆手にとって脅している馬鹿な輩がいてね。アルヴィーンもアルヴィーンで、会社や家族を守るためにそいつの言い成りになるしかなかったみたいだけど」
「それで金を・・・・・・?いったい、そいつは何者・・・・・・?」
「ただの三流よ。目障りな存在だったけど、それも今日までね」
「え・・・・・・?」
「ね、クラウス。あなたの家はどのあたり?」
冷ややかな笑みを浮かべたかと思ったら、突然リュシーが話の矛先を転じてきた。
いきなり衝撃的な事実を聞かされたクラウスはすぐさまその切り替えができず、一瞬呆けてしまったが、再度彼女に催促されて、リュシーの隣に立って夕日に染まるハイデルベルクの街を眺めた。
「・・・あのあたりだよ。ネッカー河のそばの・・・・・・」
「そう。・・・ねぇ、ちょっと寒くなってきたからなにか暖かい飲み物を飲みたくなってきたわ」
「え、あ、そ、そうだね。じゃぁ、あっちに簡単な売店があるからそこで・・・」
「いいえ、せっかくならここでハイデルベルクの街を見ながら暖かい飲み物を飲みたいわ。ねぇ、買ってきてくれる?」
絶世の美女と言っても過言ではない彼女に上目遣いで頼まれてしまえば、クラウスもNOとは言えない。
心の中に渦巻いていた疑問と疑念をすぐさま吹っ飛ばして、ここから少し離れた売店に足を向けた。
大樽棟にひっそりと構える売店に足を運べば、そこで観光客たちは暖をとっていたのか、いつも以上にカウンターには列ができていた。
仕方なく、クラウスは順番を待ちながら列に並んだ。
そうして待っている間に、先ほどのリュシーとの会話をじっくりと思い出す。
この際、リュシーがいったい何者で、なぜこちらの事情を把握していたのかは問題ではない。
クラウスが今、考えるべきなのは、ティルア・ブルーデスとのことだ。
彼女とは何度か互いの家で開かれるホームパーティーなどで会っている。
愛らしい少女のような彼女は、たしか自分と同い年であった気がする。よく気の付く娘で、それでいて博識な彼女に対し、クラウスは悪い印象を抱いているわけではなかった。
ただどうしても彼が納得できなかったのは、この婚約という形が、本人たちの意志をまったく無視した代物だからだ。
金持ちの家に生まれた子供たちの運命だと言ってしまえばそれまでだが、それでも、気持ちを整理するのにクラウスには時間が必要だった。
けれど、リュシーは言った。
出会い方はどうあれ、それは『きっかけ』に過ぎないと。
大切なのは、互いの絆をどうしていくか、その『経過』にあるのだと。
実際、ビジネスに絡んだことを除けば、クラウスはティルア・ブルーデスを受け入れることはできそうだった。
もちろん、業界一の会社を取り仕切る父、アルヴィーン・レーマンの息子として、ビジネス上の婚約も、頭では受け入れている。
「・・・そうだよな、問題はこれからのこと、だよな」
ふぅ、とため息と共に漏れた独り言には、すでにある決意が含まれていた。
温かい飲み物を持って、再びハイデルベルクの街を一望できるその場所に行くと、そこにリュシーの姿はなかった。
「・・・リュシー・・・?」
この辺りに人が隠れるところも、見失うような場所もない。
「リュシー?!どこにいるんだ?!」
再度辺りを見渡して彼女の名を呼ぶが、どこを見ても彼女の姿はない。
消えてしまったのだ、忽然と。
まるで幻のように消え去ってしまったリュシー。
クラウスは夢だったのではないかと訝りながらも、いくら待っても現れないリュシーを諦めて帰路についた。
衝撃が彼に襲いかかったのはそれからである。
屋敷とも言える彼の家の周りが騒然としている。
野次馬らしき近所の方々まで群がっていて、いったい何が起こったのか一抹の不安を抱えながら、なんとか人の群れを掻きわけて、彼は自宅の玄関までたどり着いた。
「あぁ、クラウス!!帰って来たのね、携帯も繋がらないから心配していたのよ!!」
叫ぶようにして彼の元に駆け寄ってきたのはクラウスの母。
母に言われて、そう言えば家を飛び出すときに携帯の電源を切ったままでいたことを思い出したが、今はそんな話をしている場合ではない。
「母さん、いったいこれはなにがあって・・・・・・?」
「お父様のお部屋で、人が殺されてしまったのよ」
「えぇ?!」
「ちょうど今、お父様は警察の方に呼ばれて事情聴取を受けているのだけれど・・・・・・。本当に、突然のことだったのよ。お父様にお客様がいらして、お部屋にお通ししてからしばらくして、窓ガラスが割れる音と同時に、お父様が大慌てで部屋から飛び出してきて・・・・・・」
「それって・・・父さんに容疑がかかったりしてはいないんだよね・・・・・・?」
「もちろんよ、クラウス。お父様がおっしゃるには、銃弾がお客様の頭にいきなり飛んできたらしいのだけど・・・・・・」
でも、わたくしは銃声を聞いてはいないのよね、と不思議そうに母は首を傾げる。クラウスもそれには不思議に思いながらも、さらに彼女に問いかけた。
「それで?そのお客様は父さんとどんな関係が?」
「わたくしにはよくわからないの。ただ、最近よくお見えになってはいたけれど・・・。お父様とよくもめていらっしゃる様子も感じてはいたし、あのお客様がお帰りになったあとは、いつもお父様はお部屋に籠られていらっしゃるから、なにかあったのかもしれないわね・・・」
不安そうにそう語る母の言葉を聞いて、なぜかふと、クラウスの脳裏に、リュシーの言葉が蘇ってきた。
『アルヴィーンは、ある三流の馬鹿な奴に脅されていた。・・・目障りな存在だったけど、でもそれも、今日までね』
「・・・まさか・・・・・・まさか、な」
不安そうに息子を見上げる母の肩を抱き、クラウスはひとり首を振ってある可能性を自ら否定していた。
しかし、それから後に、彼は知ることになる。
クラウスの父、アルヴィーン・レーマンの部屋で突然死したその客人は、たしかに銃により頭を撃たれ、そして、アルヴィーンを脅し続けていた存在であったということを。
さらに、なぜかその男の胸の内ポケットには、隠すように黒い薔薇が押し込められていたことも。
月明かりも雲に隠され、闇に飲まれたハイデルベルク城。
城下に広がる街並みを一望できるそこで佇む人物の背後に、ひとりの男が突然姿を現した。足音もなく、闇から抜け出たかのように、突然に。
「さすがだな。標的まで、いったい何キロ離れてたんだか」
「・・・距離はさほど問題ではない。ちょうどアルヴィーン・レーマンの自室が、ハイデルベルク城を眺めることができる位置にあったのが幸いだった」
「で、坊やに飲み物を買わせてからのわずかな時間で、この何キロも先の標的の頭に鉛の塊をぶち込んだってわけか」
突然姿を現した男に驚く様子もなく、淡々と答える相手を見返しながら、男は目を細める。
目の前の人物は今、愛用のライフルを片手に、ハイデルベルクの街並みを見下ろしている。夜風に、長いレッドブラウンの髪を泳がせながら。
「『アルヴィーン・レーマンを脅している輩を殺せ』という依頼、たしかに任務遂行した」
「ついでに息子のクラウス・レーマンとティルア・ブルーデスの婚約すら促すとは、よほどレーマン家のもつ『専門分野』を重宝しているようだな」
「あの一族が潰れちゃ困るからな。これはわたしの気まぐれだ」
くすっと笑う目の前に立つ、レッドブラウンの美女の笑みは、氷のように冷たく、あらゆるものを拒んでいるようにも見える。男はその視線と笑みに一瞬凍りつきながらも、なんとか笑みを浮かべて、目の前の美女・・・リュシーに話しかける。
「それにしてもずいぶんと美女に化けたものだな」
「・・・そう?そりゃ光栄だ」
その一言と共にリュシーの手がそのレッドブラウンの髪に伸びると、そのままそれを強く引っ張った。
すると、ずるり、とレッドブラウンの髪の鬘が取れ、その下からはプラチナに限りなく近いブロンズの髪が現れた。
短く切りそろえられたその髪と、全身黒づくめで比較的背が高く、引き締まった体つきをしているリュシーの姿では、今や目の前の存在が男なのか女なのかも一瞬では判別がつけられない。
実際のところ、目の前のこの化け物の性別がどちらなのか、知る者はいないのだが。
「それで?報酬は?」
目の前の存在に睨むように催促され、男は一瞬ひるみながらも同じ<闇に生きる者>のプライドとして、それを表面に出さずに<報酬>を相手に渡す。
「・・・本当にこれだけで今回の<報酬>になるのか?」
半信半疑といった様子で、男は相手に尋ねる。
なぜなら、目の前にいるこの存在は、男たちが身を置く<闇の世界>では、化け物にも値する大物中の大物。
誰もが大金を積んでこの相手の気をなんとか引いて<依頼>をしようとする、任務遂行率100%の殺し屋。
その存在が自ら、ドイツで仲介業を務めるこの男に申し出てきたのが、この<報酬>たったひとつを得るために今回の<依頼>を受ける、といったものだった。
山のような大金を積んで、やっと<依頼>を受けるかどうかの希少価値の高いスナイパーである目の前の存在が、そこらへんの成金でも買えそうな宝石ひとつだけを<報酬>に<依頼>を受けるなど。
<依頼>を受けたのは、この珍しくもないルビーのネックレスのためか?
いや、まさか。
では、ある業界で名を轟かせているアルヴィーン・レーマンを救うためか?
・・・それも、まさか、である。
この化け物にそんな良心も、ましてや情けなどあるはずがない。
「・・・おまえにはこの宝石の価値などわかるわけがないさ」
疑念を抱く男を嘲笑うように、目の前の化け物は冷たく笑った。レッドブラウンの鬘を取っただけで、美女から<闇の化け物>に変貌したようだ。
「この宝石の名を知っているか?」
「・・・いや」
「<プリンセス・ローズ>というのだよ、このルビーは」
くすくすとなにがおもしろいのか、目の前の殺し屋は笑っている。
薔薇姫。
なるほど、先ほどまでのレッドブラウンの美女の姿は、たしかにその手にあるルビーのネックレスを飾るに相応しい容貌だった。
まるでその宝石の名のように、紅い薔薇がよく似合う。
先ほどまでの扮装は、それを揶揄しての姿だったのだろうか。
男は目の前の殺し屋を眺めながら、そんなことを考える。
そして、用は終わったとばかりに立ち去ろうとする相手の背に、なぜか、本当になぜかわからないが、男は尋ねていた。
「次はどこに行くんだい、ノワール?」
そして問えば、今夜は機嫌のいい闇の化け物は、振りかえらずに答えた。
「日本さ」
な、長い…(汗)
この番外編の時間軸は、おわかりの通り、ちょうどノワールが来日する直前の話です。
冒頭のやりとりは、ノワールが怪盗夜叉抹殺の依頼を受けるというところです。
そのときにノワールが言っていた「残ってる仕事」というのが、ハイデルベルクでの仕事だったのです~。
で、そのままその<プリンセス・ローズ>を持って来日、と。
ノワール絡みの番外編は結構まだまだあったりします(笑)




