後編
川崎も好物だと言う金鍔と薄皮餅に白餡仕様のいちご大福を買った和佳は、今度こそ二人で肩を並べて、まどかが待つ兄夫婦の家に向かった。
和佳と川崎の家のちょうと中間あたりに建つ新築の賃貸マンションに、兄夫婦が入居している。家賃がもったいないからという理由で購入資金として頭金を都合しようとした両家の親の申し出を転勤族だからと断り、手の届く範囲の家賃で賃貸を探したのだ。ちなみに和佳と川崎の家同士は、自転車で行き来できる程度の距離である。
兄の俊樹の荷物を運び込んだ日に一度だけ行った、薄茶とグレーのツートンカラーの外壁が、和佳の目に入った。
「和佳は、俊樹さんと仲がいいんだよな」
不意に川崎が話しかけて来た事に驚き、和佳はマンションから彼の顔に視線を移す。
「うーん。どうだろ。悪くはなかった、と思うけど」
もちろんそれは謙遜と言うものだ。少し年が離れた妹の和佳を、俊樹はそれはそれは猫可愛がりにしていたのだから。それを鬱陶しく思うふりをしながらも、和佳自身、小さい頃から俊樹の事が大好きだった。
俊樹は、今年の春前から海外に単身赴任している。和佳が最後に会ったのは、出発間際の三ヶ月前だ。それ以来、両親に定期的にメールを送って来てはいるものの、直接顔を見る機会は一度もなかった。
ほんの数か月前までは同じ家に住む家族だった兄の様子を、今では人伝でなければ知る事もできない。それを寂しく感じないと言えば嘘になる。
「まどかが『和佳ちゃんから俊樹さんを取っちゃったから会いに来てくれないのかしら』って気にしていた」
まどかの口調を真似する川崎を笑っていいものかどうか、和佳は瞬時迷った。そしてそれよりも、和佳の心情を言い当てたまどかの言葉に、どきりと心臓が跳ねたのだ。
「そんな事、ないよ。だって、結婚してもしなくても、兄貴の海外赴任は変わらなかったんだから」
どくどくと大きく刻まれる鼓動が、川崎の耳にまで届かない事を祈りながら、和佳は下手くそな作り笑いを浮かべる。
「ふうん? ま、和佳がそう言うんなら、そういう事にしてやってもいいけど」
どうも腑に落ちないらしい川崎の様子に、和佳の鼓動がますます乱れた。
「あっ、わーかーちゃーんっ!」
その時である。マンション数メートル手前からでも聞こえるくらいによく通る声で、名前を呼ばれた。ぎょっとししてそちらを見ると、外まで出迎えに来てくれていたらしいまどかが、満面の笑顔で両手をぶんぶん振っている。
「う、わあ」
思わず出た声に、隣にいる川崎が大きな溜息を吐いた。
「いつも、こうなの?」
「あー。ほぼ、毎回?」
小走りに駆け寄って来るその小柄な姿に、和佳はすごいとしか言いようがなかった。
「もしかして、大変?」
「に決まってるだろう」
面倒臭げに口元をへの字に曲げながらも、川崎の目は決して怒っているわけではなく、むしろ優しげな光を湛えている。それだけで川崎がまどかの事をどれだけ大切にしてるのかが、和佳に十分伝わって来た。胸の奥にちりっと小さな痛みを覚えたが、和佳は努めて意識しないようにしていた。
なるほど。毎回この歓迎を受けていれば、周囲で見ている事情を知らない者の目には、とても姉弟だとは見えないだろう。よりにもよって不倫などという噂を立てられたのも、頷ける気がした。
「和佳ちゃん、お久しぶりーっ!」
ベージュのフレアスカートを翻しながら近付いて来たまどかは、次の瞬間、まるで体当たりのような勢いで和佳に抱きつた。思わずよろけた体勢を必死に持ちこたえながら、これを毎回川崎に食らわせているのだろうかという疑問が湧く。和佳が視線だけを川崎に向けると、笑いを噛み殺したような表情で、川崎が頷いた。
「んもうっ! 俊樹さんがいなくて寂しいから、遊びに来てねって約束したのに。和佳ちゃんったら全然来てくれないんだもの―」
少し拗ねた風に頬を膨らませるまどかのその姿は、とてもではないが二十歳を超えているようには見えないほどに愛らしい。あの俊樹が骨の髄まで惚れこむのも無理はないと、妙に納得してしまう。
「感動の再会は、後にしろよ。思いっきり見られてるぞ」
一人取り残されている川崎が、溜息混じりにぼそりと言った。近所の住人や通行人の注目を集めてしまっている事に気付き、和佳はかなりの気恥ずかしさを覚えずにはいられない。
「あ、あの、まどかさん。これ、一緒に食べようと思って、買って来たんです」
とりあえずこの場から去りたい一心で、和佳は手に持っていた紙袋を差し出す。
「金鍔と、いちご大福なんですけど」
「あら、すてきー。じゃあ、濃いめのお茶にしなくちゃね」
和佳の目には、瞬間、ぱあっとまどかの笑顔が輝いたかのように見えた。紙袋を受け取ったのとは反対の手で和佳の手を取り、まどかがいそいそとマンションの中に入って行く。
ふと後ろの様子を窺うと、二人分の鞄を手に持った川崎が、盛大な溜息を吐きながら空を見上げていた。
2LDKの間取りは、まどか一人には広すぎるように思えた。特に夜間などは、寂しさを感じずにはいられないだろう。
日ごろふわふわとした服を好んで着ているまどかの事、さぞかし少女趣味或いはレースやフリルに囲まれたインテリアなのだろうという和佳の予想は外れ、意外にも落ち着いたアースカラーでシンプルにまとめられていた。
「うーん、やっぱり女の子がいると、華やかでいいわねえ」
語尾にハートマークがつきそうなほど嬉しげに、まどかが満面の笑顔を見せる。とろけそうだと形容されるような、甘さのある笑顔だ。
「はい、どうぞ」
リビングにはソファなどという物はなく、家具調こたつの布団を外した状態の物に、座椅子と座布団が並べられている。そこに腰を下ろしていた和佳の前に、茶卓に載せられた湯呑みと、小皿に取り分けられたいちご大福が置かれた。川崎の前には、同じく湯のみと金鍔が置かれている。どうやら和佳がつぶ餡が苦手だと言う事を、覚えていたらしい。
「和佳ちゃん、俊樹さんと連絡、取っていないんでしょう?」
いきなりの話題に、和佳は口に含んだ苦めのお茶を吹き出しそうになった。
「俊樹さんが、和佳ちゃんがメールをくれないーって、嘆いているんだもの。だったら自分から連絡すればって言ったら、あんまりしつこくして嫌われたくないからって拗ねちゃって」
くらり、と目眩に襲われそうになった。テレビ台の上に飾られた、まどかと俊樹二人で写っている写真を眺めた和佳は、はあ、と相槌とも溜息ともつかない息を漏らす。
俊樹が結婚して間もないころには、何度かメールを送った事はあったのだ。両親の様子や学校での様子などを送ったのだが、それに対する俊樹からのメールには、毎回これでもかというくらいにまどかの事が書かれていた。家族の様子という意味ではお互い様のその内容も、和佳にとってまどかはまだ他人よりも少し近しいだけの存在であり、単なる兄ののろけとしか見えなかったのだ。そんなメールを数回受け取って、馬鹿馬鹿しさとやりきれなさに、次第に和佳からメールを送る回数が減って行ったのは当然の事で。その事を俊樹が嘆いているというのは予想外だったが、原因は確実に俊樹自身にもあるのだ。少なくとも和佳は、そう思っている。
「俊樹さんがわたしに送って来るメールの内容なんてねえ。今日の朝食はトーストが硬すぎだったとか、お昼に美味しいお店を見つけただとか、夜は自炊で失敗したとかそんなのばっかりなのよ」
和佳が黙り込んでしまうと、まどかが少し明るい口調でそんな事を言い出した。離れて暮らす新婚の妻に送るにしては、何とも微妙な内容だ。思わず川崎の顔を見ると、彼も同じように思ったらしく、小さく肩を竦めている。
「圭吾と和佳ちゃんは、どんなメールを送っているの?」
「メ、メールだなんて、わたし、川崎君と携番もメルアドも交換していませんからっ」
和佳は慌てて両手をぶんぶん振り、まどかの言葉を否定した。川崎とはメールどころか、ほんの昨日までまともに言葉を交わしもしていなかったのだ。
「えええええーっ? なに、それー。てっきりもうとっくに二人が付き合っていると思っていたのに。だからなのね。和佳ちゃんが来てくれなかったのはっ!」
「へ?」
「ほ?」
まどかの言葉に、和佳と川崎が同時に変な声を上げた。
「俊樹さんを取っちゃったわたしの事を、あまり好きじゃないのは分かっていたんだけど。でもわたしは和佳ちゃんみたいな妹ができて、すっごく嬉しかったから、餌にするために圭吾をここに呼んでいたのにー」
「え、餌?」
和佳は、予想外のまどかの言葉に、目を白黒させている。
「圭吾がここに来れば、和佳ちゃんも来てくれるって思っていたのよ。それなのに。圭吾の甲斐性なしっ! 役立たずっ!」
「なに勝手な事を言ってるんだよ。って、和佳? おーい?」
「あら。和佳ちゃん、大丈夫?」
様子がおかしい事に気付いた川崎とまどかが、顔を見合わせた。
「あ、あの。まどかさん、もしかしてもしかしなくても、気がついていたり、しました?」
「何を? ああ、もしかして和佳ちゃんが圭吾を好きだって事?」
「す、すすすすす、好きって」
わざとぼかして訊ねたにもかかわらず、あっさりはっきり言われてしまい、和佳がおたおたとうろたえる。
「そんなの、初めて二人を会わせた時に気付いていたわよ? あ。同じクラスだったんだから、初めてってわけでもなかったみたいだけど。和佳ちゃんってかなーり圭吾の好みのタイプだから、これはもう絶対に二人は両思いよねーって俊樹さんと話していたのよ。それなのにまだだったなんて、本当にもう。圭吾ののろま。うすらとんかち」
そうして今度は、圭吾の顔がぎくりと強張った。姉の暴言などいつもの事だと聞き流そうとしたのだが、聞き捨てならない事を言われてまで黙っているわけにはいかないらしい。
「なに勝手な事言ってるんだよ、お前は」
努めて冷静さを装おうとしているようだが、見事に失敗して、声が少しだけ上ずっている。
「だってー。二人とも、口には出さなかったけど、目がねえ。なんて言うか、好き好きビームが出ているんだもの。目は口ほどに物を言う。まさに読んで字の如しよね」
にっこりと満面の笑顔をたたえて二人の顔を交互に見るまどかに対して、和佳はもちろん川崎までもが顔を真っ赤にして逃げ腰になっていた。
「だから、もうこの際、今ここで決めちゃいましょうよ。今日から二人は両思いの恋人同士―、って。はい、ぼーっとしていないでさっさと握手して。それから、早速アドレスの交換ね」
うきうきと指図するまどかに呆気に取られながらも、川崎は言われるがままに和佳の手を握る。それだけで心臓が大きく跳ねあがった和佳は、どんどん上気する頬の熱に、気を抜くとうっかり卒倒しそうだと思った。
空いている左手で携帯電話を取り出し、互いに番号とアドレスを交換し合う。一体全体どこからこんな話になったのだろうかと思い出そうとしても、舞い上がった頭ではまともな思考などできるはずがない。
「俊樹さんと圭吾と二人分の焼きもちを焼かれるなんて、女としては光栄だけど、相手が可愛い義妹じゃ話は別だもの」
そう言いながら、まどかが和佳の体をぎゅっと抱きしめる。
「ま、ままま、まどか、さん?」
「真っ赤になっちゃって、和佳ちゃんたらなんて可愛いのっ。俊樹さんがシスコンなのも、納得できちゃう」
ブラコンの気がある事は自覚していた和佳だったが、兄がシスコンだというのは初耳だった。
「だってねえ。圭吾と両思いになるのは嬉しいけれど、やっぱり兄としてはまだまだ自分だけの妹でいてほしいだなんて、わたしの前でぬけぬけと言うんだものー。ほんっとに、似た者兄妹よね」
初めて聞くその内容に茫然とする和佳に、まどかがすりすりと頬ずりをする。
「いつまでくっついているつもりだ。さっさと離れろよ」
不機嫌そうに声音を荒げた川崎が、和佳とまどかの体を引きはがしにかかった。
「なによ。いきなり焼きもちなんか妬いちゃって」
「和佳は俺のだ」
「んまー。今まで好きだとも言えなかった軟弱者のくせに生意気ー。独占欲の強い男は嫌われるのよ。ねえ、和佳ちゃん」
「え? あ、あの」
いきなり「俺の」と言われ、嬉しくないはずがない。まどかが言うような独占欲云々についてはよく分からないのだが、ますます和佳の動悸は激しくなるばかりである。
「和佳。まどかの言葉に耳なんか貸す必要はないから、離れろ」
「は、離れろって言われても」
まどかが離してくれないのだ。
「圭吾だけで独り占めなんて、ずるいわ。わたしだって、ずーっと和佳ちゃんに会いたかったんだからっ」
「あのな。俺は彼氏で、まどかは単なる兄嫁だろう。立場が違うんだ、立場が」
「か、彼氏、って、川崎君が、わたし、の?」
「他に誰がいるんだよ」
「あ。えっと。うん」
耳まで真っ赤になりながらうつむく和佳の様子に、抱きついていたまどかの腕の力が弱まった。その隙を逃さず、川崎が和佳の体を引き寄せ、まどかから庇うように背後に匿う。
「あらららら。なんだかわたしが悪者みたいじゃない。ま、いいわ。カレカノになったお祝いに、今日は圭吾に譲ってあげる。その代わり、今度一緒にお買い物につきあってね」
まどかは両手を肩の高さまで上げて、小さく万歳のポーズを取った。
川崎の体の陰から頭だけを覗かせて、和佳がこくこくと頷くと、川崎が渋面を作った。二人分の鞄を手に取った川崎は、和佳の肩を押して足早に玄関に向かう。
「送り狼になったりしたら、わたしと俊樹さんがただじゃおかないからね?」
「なるかっ!」
まどかの言葉に、川崎が短く叫んだ。
背後でバタンと閉じたドア越しにまどかの笑い声が聞こえ、和佳が不思議そうに振り向いた。
「行くぞ」
川崎が、先に立って歩き出す。
「う、うん。ねえ、川崎君」
遅れないように急いで後に続きながら、おずおずと和佳が声をかけて来た。
「送り狼って、どういう意味?」
マジかよ、と小さく呟きながら、川崎の足が止まる。まさかそんな突っ込みを入れられるとは、思ってもいなかったらしい。小首を傾げている和佳は、頬がまだ赤い事を除いては至って真面目な顔つきである。どうやら本気で意味が分からないらしい和佳に、川崎が小さく吹き出した。
「な、なに? 何で、笑うの?」
「うん。いや、意味は、まだ知らなくていいから」
「えー。なんで? だってまどかさんも川崎君も知っているんでしょう? 教えてよ」
「まあ、そのうち、な」
くつくつと笑いながら、川崎がさっさと歩き始める。
「え。ちょっと、川崎君。待ってよ、歩くの早いよ」
和佳は慌ててその後を追う。
「和佳が歩くのが遅いんだよ」
振り向いた川崎の顔を見て、和佳の足が止まった。顔に熱が集まるのが分かったが、自分ではどうする事もできず、ただ真っ直ぐにその目を見る。
「好き好きビーム」
「は? へ?」
「いや、俺はそれに射殺されかけたんだよな、と思った」
にやりと含みのある笑いを浮かべたその顔が穏やかな笑顔に変わって行くのを、和佳は不思議な物を見るような思いで茫然と見ていた。
それは、和佳がずっと欲しかった笑顔だった。