飼われた少女
森の中を歩いていた俺が足を止めたのは、妙な声が聞こえたからだった。
「……もう、無理」
女の子の声だ。こんな森の奥で?
俺は腰の短剣に手を添え、声のした方へ向かった。獣道を外れ、茂みを抜けると、小さな岩穴がある。その前に、一人の少女が座っていた。十歳か十一歳くらいだろうか。薄汚れた服を着て、長い髪は好き勝手に跳ねている。足元には、潰した木の実のようなものが入った器が置かれていた。
少女は俺に気づくと、大きく目を見開いた。
「……誰?」
「通りすがり。そっちは?」
「ティア」
「いや、名前じゃなくて。こんなところで何してるんだ?」
少女――ティアは少し黙ってから答えた。
「飼われてる」
「……誰に?」
ティアが俺の後ろを指差した。
振り向くと、二メートルほどの巨体が木々の間からこちらを見下ろしていた。人間より遥かに太い腕。口元から突き出した牙。手には、人間から奪ったのだろう、刃こぼれした大剣が握られている。
オークだ。
「なるほど。そっちか」
「ニンゲン。ソレカラ、ハナレロ」
喋った。魔物の中にも人語を理解する個体はいるが、そう多くはない。
「それってティアのこと?」
「私のこと」
「ソレハ、オレノダ」
オークが大剣を持ち上げる。俺はティアを見ると、「逃げないの?」と尋ねた。
「逃げた」
「捕まった?」
「うん」
「何回?」
「……七回」
「結構頑張ったな」
ティアが少しだけ不満そうな顔をした。褒めたつもりなんだけどな。
俺はティアの横を通り過ぎ、オークへ近づいた。
「じゃあ返してもらおうか」
「シヌゾ」
「死ぬくらいなら別にいいだろ」
腰から短剣を抜いた瞬間、オークが地面を蹴った。見た目に反して速い。大剣が横薙ぎに振られ、俺は身を沈めてかわす。そのまま懐へ潜り込み、脇腹へ短剣を突き立てようとした。
だが、オークは大きく後ろへ跳んだ。
「おっ」
少し感心する。見た目より頭がいい。
オークは俺ではなくティアへ手を伸ばした。ティアの肩を掴んだ瞬間、二人の姿が消える。
「……は?」
完全に見えなくなった。
直後、右側から風を切る音がした。反射的に後ろへ跳ぶと、大剣が鼻先を通過する。
「なるほど。面白いの飼ってるな」
「面白くない!」
どこからともなくティアの声が返ってくる。
「悪い」
姿は見えない。だが、消えたわけじゃない。
俺は静かに息を吐いた。
見ようとするな。
師匠には何度もそう言われた。目なんてものは、人間が勝手に頼っているだけだ。殺すだけなら、もっと使えるものがある。
音、匂い、空気。そして地面。
左前方の落ち葉が沈んだ。
俺はすぐに動いた。大剣が振り下ろされるより早く懐へ入り、何もない空間へ短剣を走らせる。
「グッ――!」
手応えと同時にオークの姿が現れた。首から血を噴き出しながら、巨体が傾く。ティアが手を離したらしい。
そのまま背後へ回り、首の急所へ短剣を深く突き込む。
オークが地面に倒れた。
「……殺した」
「まあな」
短剣についた血を払いながら答える。
ティアはオークの死体を見つめたまま動かない。やがて何かがおかしいことに気づいたのか、俺の顔を見た。
「……消えない」
「俺が殺したからな」
「どういうこと?」
「そのままの意味」
魔物は死ねば死体が消え、魔窟でリスポーンする。それが十五年前からの常識だ。角を切り落とそうが、皮を剥ごうが意味はない。切り離した部位まで、リスポーンと同時に消えてしまう。
だから今、新しい魔物素材なんてほとんど存在しない。市場に残っているのは、魔王が世界を変える以前に採取されたものばかりだ。
俺が殺した場合を除いて。
オークの前にしゃがみ込む。傷の少ない皮に、立派な牙。骨や内臓にも使える部位はある。
「……これは高そうだな」
「え?」
「いや、こっちの話」
師匠には何度も言われていた。絶対に売るな、と。俺が魔物の死体を残せると知られれば、魔王より先に人間がお前を捕まえに来るぞ、と。
俺は死体へ手をかざした。空間がわずかに歪み、二メートルの巨体が丸ごと消える。
「消えた!」
「収納しただけ」
「どこに?」
「収納魔法」
「さっきのオークは消えなかったのに?」
「質問多いな」
「だって変じゃん!」
「それは否定しない」
立ち上がり、改めてティアを見る。
「で、家は?」
ティアは黙った。
「帰るところは?」
「……ない」
「家族は?」
「いない」
「そうか」
困った。
オークを殺したところまではいい。問題はその後だ。こんな森に十一歳くらいの子供を置いていくわけにもいかない。
「近くの町まで連れていく。それから――」
言いかけたところで、ティアが俺の服を掴んだ。
「一緒に行く」
「どこに?」
「知らない」
「俺も決めてない」
「じゃあ一緒」
「どういう理屈だよ」
ティアは服を離さない。
その姿を見ていると、昔の自分を思い出した。
帰る場所がなくなって、何をすればいいのかも分からなくて、一人だけ残された、あの日のことを。
五年前。十三歳だった俺は、今よりずっと無口だった。その日も一人で森へ入っていた。別に何か目的があったわけじゃない。村の中にいるより、森で木に登ったり、川で魚を眺めたりしている方が好きだっただけだ。
夕方になって村へ戻った俺は、すぐに違和感を覚えた。
静かすぎる。
いつもなら夕食を作る匂いがして、子供たちの声が聞こえてくる時間だった。それなのに誰もいない。
「……母さん?」
返事はなかった。
家へ走る。扉は開いていて、中は荒らされていた。父さんも母さんもいない。外へ飛び出して他の家も見て回ったが、どこにも人の姿はなかった。
やがて村の外へ続く道で、大勢の足跡を見つけた。
俺は追った。
どれくらい走ったか分からない。ようやく遠くに馬車と人の集団が見えた。
鎖で繋がれ、歩かされている人たち。その中には知っている顔があった。隣の家のおじさん。いつもパンをくれたおばさん。友達。そして父さんと母さん。
「……母さん」
思わず声が漏れた。
一団の最後尾を歩いていた男が振り返り、俺を見つけた。
「あ? おい! ガキが一人残ってるぞ!」
前方の仲間が振り返る。
「捕まえとけ!」
「ああ。すぐ追いつく。先行ってろ!」
一団はそのまま進んでいった。男だけが残り、俺の方へ歩いてくる。
「運が悪かったな、坊主。大人しくしろ。殺しゃしねえよ」
その意味は十三歳の俺にも分かった。
殺したら逃げられる。
人間は死ねば聖堂で生き返る。だからこいつらは村のみんなを殺さない。殺さずに、どこかへ連れていく。
「来い」
男が腕を伸ばした瞬間、俺は逃げた。
「待て!」
森へ飛び込む。何度も遊んだ森だ。どこに根があるか、どこに坂があるか、どこを通れば大人が走りにくいかも知っている。
それでも、大人との差は大きかった。
「捕まえた」
背中を掴まれ、地面に叩きつけられる。
「面倒かけさせんな!」
腹を蹴られ、息ができなくなる。男が俺の髪を掴んだとき、地面に尖った石が落ちているのが見えた。
俺はそれを掴んだ。
考えたわけじゃない。ただ必死だった。
振り向きざまに石を突き出す。
「……え?」
柔らかいものを貫く感触が手に伝わった。
石は男の首に刺さっていた。血が溢れ、男は俺を離す。首を押さえながら何か言おうとして、そのまま地面へ倒れた。
動かなくなった。
俺は震えていた。
人を殺した。
でも、大丈夫だと思った。
死んでも戻る。
誰だってそうだ。
なのに、男の死体はいつまで経っても消えなかった。
「……なんで」
何が起きたのか分からなかった。
ただ一つ分かったのは、俺が殺したこの男が、他の人間のようには戻らなかったということだった。
村へ戻った。
みんなを追いかけることはできなかった。十三歳の子供一人で、何十人もの武装した男を追えるはずがない。
誰もいない家の前に座った。
泣いたのかどうかは、今では覚えていない。ただ、何をすればいいのか分からなかったことだけは覚えている。
翌日の昼、知らない男が村へやって来た。
「……ひでえな」
かなり年を取った男だった。白髪混じりの髪に、腰には古びた剣。男は荒らされた村を見回したあと、家の前に座っていた俺を見つけた。
「お前、一人か?」
答えなかった。
「腹減ってるか?」
「……」
「名前は?」
「……」
「喋れない?」
「……」
「困ったな。俺、独り言が趣味の寂しい爺さんみたいじゃねえか」
「……爺さんじゃん」
男が目を丸くした。
「喋れるじゃねえか」
それが、師匠との最初の会話だった。
師匠は俺から村で起きたことを聞いた。そして俺が殺した男の死体を見た瞬間、それまでの軽い表情を消した。
「……お前が殺したのか?」
「うん」
「こいつ、リスポーンしなかったのか?」
「……うん」
師匠はしばらく死体を見つめていた。それから俺の方を向く。
「坊主」
「ノア」
「ん?」
「坊主じゃない。ノア」
「そうか」
師匠は笑った。
「ノア。お前、俺と来るか?」
「……みんなを助けられる?」
「今のお前じゃ無理だ」
俯いた俺に、師匠は続けた。
「でも、強くなれば話は別だ。俺が教えてやる」
「何を?」
「殺し方」
師匠は男の死体を見る。
「もっとも――俺が教える殺し方と、お前の殺し方じゃ、意味が全然違うみたいだがな」
後になって知った。
師匠は十五年前、魔王を討伐するために戦った者の一人だった。
昔は、人間も魔物も一度死ねばそれで終わりだったらしい。人間のいない世界を望んだ魔王と人類は長い戦争を続け、ついに師匠たちは魔王を追い詰めた。
あと少しで殺せる。
そこまで追い込まれた魔王は、世界そのものを変えた。
人間と魔物は寿命以外では死ななくなった。殺されれば聖堂でリスポーンし、魔物は魔窟でリスポーンする。魔王自身もまた、何度殺されても戻ってくる存在になった。
そして世界を変えた直後、魔王は姿を消した。
それから俺は師匠と旅をした。
剣、短剣、魔法、尾行、毒、罠、収納魔法。そして、殺されずに相手を殺す方法。
五年間、色々なことを教わった。
そして師匠は死んだ。
戦いでも病でもない。ただ、寿命だった。
この世界で唯一、誰にも覆せない死。
最後に師匠から託されたのは、魔王を探すことだった。
俺なら魔王を本当に殺せるかもしれない。
だが師匠は、魔王を殺せとは言わなかった。
――見つけたら、お前が決めろ。
世界を元に戻すのか。
このままにするのか。
そして、魔王を本当に殺すのか。
答えはまだ出ていない。
「お兄ちゃん?」
ティアの声で我に返った。
「誰がお兄ちゃんだ」
「じゃあ、おじさん?」
「お兄ちゃんでいい」
即答すると、ティアが少し笑った。
「……分かったよ。一緒に来てもいい」
「ほんと?」
「町までな。その後はちゃんと考える。あと俺の言うことは聞け」
「うん」
「勝手に透明になるな」
「うん」
「絶対聞いてないだろ」
「うん」
「……先が思いやられるな」
歩き出すと、ティアが隣についてくる。
「そういえば、ちゃんと名乗ってなかったな。俺はノア」
「ノア」
「よろしく、ティア」
「うん」
五年前、すべてを失った俺は、一人の老人に拾われた。
そして今。
師匠を失った俺は、一人の少女を拾った。




