第3話 水の奥から
「嘘だろ……?」
猫が姿を消した辺りを見つめたまま、俺は呆然と呟いた。
俺の体内からは、なおも延々と怪談が再生され続けている。
今語られているのは、藩主に飼い主を殺された猫が化け猫になって、夜な夜な人を襲って怨念を晴らすとかなんとか、そんな内容だ。勘弁してほしい。
俺はとぼとぼとマンションの3階まで戻り、ダイキ宅の玄関を開けた。
「ただいま……」
「おかえりー。見つかったか?」
「野良猫に持ってかれた……」
「はぁ? マジで? あーあ、あれ、そこそこいい値段したのに」
ダイキは俺のことより、カプセルが失われたことを残念がっている。
「知るか。それより、どうすんだよ、これ」
再生を止める手段を失い、怪談を流し続ける自らの腹を、俺は指差した。
「腹の中のレモンサワーから流れてるんだろ? そのうち、小便になって出てくるだろ」
「他人事だと思って……」
俺はため息をつくと、スマートフォンで、『水分 排出 時間』と検索してみた。体内の水分が尿となって排出されるまでに、3~6時間かかるらしい。
「なあ、ダイキ。今日はお前んちに泊まるぞ」
「え、なんで?」
「このまま帰れるわけないだろ。全部出しきるまでは、お前んちにいるからな」
「えー。延々と怪談を聞かされるのかよ」
「お前が言うな。こっちのセリフだ!」
俺は思わず突っかかったが、ダイキはヘラヘラと笑っているだけだった。
「……本当に全部出ていくのかな……」
思わず不安が漏れた。
しかも音は腹だけでなく、全身に広がっている気がする。気持ちがざわついて、たまらず俺は、体中をさすった。
「夕飯、何食う? 宅配にするしかないよな?」
俺の様子などお構いなしで、ダイキはフードデリバリーのアプリをいじっていた。
それどころじゃないと思いかけたが、こんな状況でも腹は減るのだ。結局、いちばん店が近くて、いちばん早く届くであろう、カレーを注文することにした。
このカレーが問題だった。
中辛にしたはずなのだが、とにかく辛い。他の店なら辛口か大辛ぐらいの辛さだ。思わず水をがぶ飲みした。
ふと気がつくと、ダイキが身をよじって笑っていた。俺が辛さで悶絶しながらも、相変わらず怪談を流し続けている様子がおかしいらしい。
もはや抗議する気力もなかった。ただダイキを睨みつけて、俺はグビグビと水を飲み続けた。
「ちょっと、トイレ」
不意に尿意を催し、ダイキの家のトイレを借りた。用を足すと、音の出どころが便器の奥と俺の体の二か所に分かれた。
体外に少し出たおかげか、体から聞こえる怪談の音は、心持ち小さくなった気がする。
(……水だ。水を飲みまくるしかない)
そう思った俺は、可能な限り水を飲み続けた。そして、少しでも尿意を感じればトイレに行く。それを繰り返した。
俺はせめてもの腹いせにと、トイレに行くとき以外はダイキにつきまとい、これでもかと彼に怪談を聞かせ続けた。
シャワー中に浴室の外から怪談が聞こえた時は、さすがのダイキも気味が悪かったらしい。しかし、浴室のドアに張り付いていた俺も、違う意味で気味が悪かった。
そんなこんなで怪談は徐々に音量を下げながら、夜通し俺の体から流れ続けた。
そして、夜が明けた。
俺は朝一番にトイレへ行き、用を足した。便器の中からは相変わらず怪談が聞こえてくる。しかしその音は、だいぶ小さく、不明瞭になっていた。
今度は背中を丸めて、自分の腹の音を聞いてみた。掌を耳に当ててみたりもした。
……何も聞こえない。どうやら、ついに全て排出しきったようだ。
「……やった……!」
俺は歓喜した。
あのいまいましい怪談は、完全に俺の中から消え去ったのだ。これで家に帰れる。
すぐに身支度を整えて、ダイキに声をかけ、彼の家を後にした。寝起きのダイキは半分寝ぼけたまま、「またな」と手を振っていた。
次の日、大学で会ったダイキは、げっそりとやつれた顔をしていた。
「どうしたんだよ、その顔」
彼はほとほと参ったという様子で答えた。
「家中の排水口やトイレから、怪談がボソボソと聞こえてくるんだよ。それもエンドレスで。もう、気が狂いそう」
俺がトイレに流したあとも、スピーカー化された水分は、まだその機能を失っていなかったらしい。
排水管にわずかだけ残り、ボソボソとしか聞こえなくなったからこそ、かえって不気味さを増しているのだという。
あのときはあんなにノリノリで、怖がる俺を面白がっていたダイキだったが、今じゃすっかりしおれきっている。
うなだれる彼の肩に、俺はそっと手を置いた。
「ドンマイ!」
満面の笑みで言い残し、俺は講義室に向かった。後ろでダイキが何か叫んでいたが、もう知ったことか。
のちに聞いた話だと、その後ダイキのマンションは、排水管から幽霊の声がする心霊スポットとして、一部マニアの間でちょっとした話題になったらしい。
しかし、そんな噂も、水の流れとともにいつしか消えていったようだ。
(完)




