第七十三章 殲滅の堕天使、再び
白銀が、戻ってきた。
紫色の空を引き裂いて、アウローラが戦場に帰還する。
共鳴駆動が咆哮した。機体全体が蒼い光を帯び、白銀の装甲が輝く。奏太の手で完全修復された推進系が、設計値を超えた出力で唸りを上げていた。
速い。
速すぎる。
さっきまでの損傷機体とは別物だった。奏太の物理修復、ガルベルトの遠隔調律、カティアの魔力封止——三つの技術が噛み合った結果が、この速度。
リーゼが操縦桿を握り直した。
コックピットの中、紫の瞳が鋭く開く。その奥に、炎がある。
「——行くぞ」
アウローラが加速した。
門への突入路。そこに群がる敵の群れ。暗灰色の甲殻を光らせた異形たちが壁を作り、紫色の光弾を吐き出す。弾幕。面制圧。数で押しつぶそうとしている。
リーゼは笑った。
操縦桿を倒す。機体が横に跳んだ。光弾の壁をすり抜け、次の瞬間には敵の懐。右腕の魔導刃が展開し、蒼白い弧が閃く。
三体。
一振りで三体が消し飛んだ。
止まらない。加速したまま次の群れに突っ込む。魔導刃を振るい、薙ぎ、斬り裂き、前へ。前へ。ひたすら前へ。
白銀の機体が敵を蹴散らしていく姿は——絶望の中の希望そのものだった。
殲滅の堕天使。
その二つ名が、今この瞬間、戦場の全員の胸に刻まれていく。
セルゲイが吠えた。
共和国の重装機が左翼で暴れ回っている。損傷した装甲をものともせず、敵の群れに正面から突っ込んでいく。豪快。繊細さの欠片もない。だがその圧倒的な突破力が、敵の注意をアウローラから逸らしていた。
「行け堕天使! 道は俺たちが守る!」
燃えるような赤い短髪。深い緑の目。百九十二センチの巨体が、コックピットの中で拳を突き上げる。
セルゲイの部隊が左翼の敵を引きつけ、噛みつき、押し潰す。重い機体が重い一撃を叩き込むたびに、敵の陣形が崩れていく。
「共和国の連中が盾になってくれてる。ありがたい」
通信に乗ったヨハンの声。だがその声には、感謝だけでなく、競争心も混じっていた。
「負けてられねえな——全機、陣形を維持しつつ前進! 中尉の退路を守れ!」
ヨハンの小隊が後方に展開した。菱形陣形。十五年のベテランが率いる四機が、鉄壁の防御を敷く。アウローラが前に突き進むほど、後方との距離は開く。その間を敵に突かれれば、退路を断たれる。
だからヨハンがいる。
「中尉、後ろは任せろ!」
金髪に口髭。温かみのある翡翠色の目が、戦場では鷹の目に変わる。
後方から殺到する敵を、小隊が一体ずつ確実に処理していく。派手さはない。だが堅い。異常に堅い。一体たりとも通さない。
ヨハンの小隊が守る後方は、まるで城壁だった。
そしてフィンが——動いた。
白い前髪の下、青緑の瞳が戦場を捉えている。調和型の感覚が全開になっていた。
リーゼの進路上の敵。
それを、一体ずつ、正確に、確実に排除していく。
リーゼが斬り開いた突破口の先に、まだ残っている敵。横合いから飛び出してくる遊撃の個体。上空から急降下してくる飛行型。
全部見えている。
全部、フィンには見えている。
射撃。一発、一殺。精密な魔力弾がリーゼの進路上の障害を消し続ける。派手な殲滅ではない。だが——これがなければ、アウローラの突進は止まる。
「中尉の道は俺が守ります!」
フィンの声。明るく、真っすぐで、一切の迷いがない。
かつて実戦で恐怖に凍りついた少年は、もういない。今ここにいるのは、仲間の道を守る戦士だ。
右上方から、飛行型の編隊が急降下してきた。四体。フィンの射角では対処しきれない角度。
「フィン、右上!」
ヨハンの警告が飛ぶ。
「見えてる! エーリヒ!」
「任せろ!」
丸い眼鏡の僚機パイロットが応える。
エーリヒの機体がフィンの右上をカバーする位置に滑り込んだ。冷静で正確な射撃が、飛行型の編隊を二体撃ち落とす。残り二体はフィンが振り向きざまに仕留めた。
二人の連携。息を合わせる必要すらない。士官学校からの親友は、互いの死角を知り尽くしている。
「フィン、左からも来る」
「分かってる。エーリヒは右を維持して」
「了解」
短い言葉。最小限の情報。それだけで二機は完璧に噛み合う。
フィンが攻め、エーリヒが守る。フィンが拓き、エーリヒが固める。二人一組で、リーゼの道を守り抜いていた。
アウローラが門に近づいていく。
敵の密度が上がった。門を守ろうとする本能か、異形の群れが壁のように立ちはだかる。
リーゼは止まらない。
回避し、反撃し、粉砕し、前進する。操縦桿を握る手に迷いはない。
奏太が直した機体。ガルベルトが調律した回路。カティアが封じた亀裂。ディーターが届けた部品。
全員の仕事が、今この瞬間、アウローラの中で一つになっている。
「リーゼ、共鳴駆動の温度が上昇中。右翼の出力バランスを二パーセント落として」
奏太の声が通信に入った。前線整備車両のデータ端末に張りついたまま、全パラメータを追い続けている。
「了解」
「左旋回時、バイパス回路に負荷が集中する。大きく回るときは一瞬ブーストを切れ」
「わかった」
戦場にいて、戦わない男の全力。数字と声だけで、白銀の機体を支え続ける。
上位個体が立ちはだかった。
通常個体より一回り大きい。青白い複眼がアウローラを睨む。結晶化した巨腕を振りかざし、突進してくる。
セルゲイの部隊が側面から牽制射撃を浴びせた。上位個体がわずかに体勢を崩す。その隙に——
「今だ、中尉!」
ヨハンの声。
アウローラが跳んだ。上位個体の巨腕の下をくぐり抜け、懐に入る。魔導刃が閃き、胴を一刀両断。
青白い光が散って、上位個体が崩れ落ちた。
「道が開いた! 続け!」
リーゼの号令。
フィンの精密射撃が残敵を掃討し、エーリヒがその側面を守る。セルゲイの部隊が外縁の敵を押さえ、ヨハンの小隊が後方を封じる。
全員が——リーゼのために道を作っていた。
白銀の閃光が、門に向かって突き進む。
——そのとき。
遥か後方、戦場から遠く離れた基地では。
時間が、まるで違う速度で流れていた。
食堂は空だった。
テーブルも椅子もそのまま。いつもは賑やかな声で満ちている空間が、今は静まり返っている。
その中で、ペトラは湯を沸かし続けていた。
大きな寸胴鍋。何人分もの湯。コンロの火が青く揺れ、鍋の蓋がコトコトと小さな音を立てている。
通信室から漏れ聞こえてくる声の断片。激しい戦闘が続いていることだけは、分かる。誰が無事で誰がそうでないかは、分からない。
ペトラは鍋の蓋を開け、湯加減を確かめた。丸い眼鏡が湯気で曇る。エプロンの裾で拭って、また鍋に向き直る。
「帰ってきたとき、温かいものがないといけないからね」
誰に言うでもなく、呟いた。
誰もいない食堂に、湯の沸く音だけが響く。
ペトラの手は止まらなかった。棚からカップを出し、一つずつ並べていく。何十個も。部隊の全員分。割れたカップはない。全部揃っている。全部、帰ってくるのだから。
スープの材料を刻み始めた。ジャガイモ。人参。玉葱。包丁のリズムが規則的に響く。
手が、震えた。
一瞬だけ。
包丁の音が途切れて、すぐに再開する。何事もなかったかのように。いつもと同じリズムで。
食堂の主任は、泣かない。泣いている暇があったら一品でも多く作る。帰ってきたとき、温かいものが待っていなければ——帰る場所にならないから。
鍋の蓋が、コトコトと揺れ続けている。
通信室の奥。
薄暗い照明の下で、ヴェーバー少将は椅子に座っていた。
手元に広げられた部隊名簿。全兵員の名前が記載された一覧表。何度も目を通している。何度読み返しても、同じ名前が並んでいる。当たり前だ。名簿は変わらない。変わるのは——名前の横に線が引かれるときだ。
六十二歳の白髪交じりの灰色の短髪。鋼のような灰色の目が、名前の一つ一つを辿っていく。
リーゼロッテ・ヴァイスフェルト。
フィン・レクター。
ヨハン・クライス。
エーリヒ・ファルク。
一人一人に顔がある。声がある。家族がいる。帰りを待つ誰かがいる。
通信機から、戦況の断片が聞こえてくる。ロッテの冷静な声が、刻々と状況を伝える。
ヴェーバーは何も言わなかった。
指揮すべきことは全て指揮した。作戦は動いている。あとは前線の者たちを信じるしかない。信じることしかできない。
左頬の古い傷跡を、無意識に指で撫でた。
かつて自分もコックピットに座っていた。操縦桿を握り、前線で戦っていた。あの頃は、待つ側の気持ちなど考えもしなかった。
今なら分かる。
待つ者たちの時間は——戦場より長い。
一秒が、一分に感じられる。一分が、一時間に。通信が途切れるたびに心臓が跳ね、再開するたびに息を吐く。その繰り返し。
名簿を閉じた。
また開いた。
同じ名前が並んでいる。全員の名前が、まだそこにある。
ヴェーバーは名簿を胸に抱え、目を閉じた。
——戦場に、通信が響く。
「全機、状況を報告せよ」
リーゼの声。息が上がっている。だが声は揺れない。
「左翼、異常なし! まだまだやれるぞ!」
セルゲイ。
「後方、陣形維持。敵の突破なし」
ヨハン。
「フィン機、弾薬残量四割。まだいけます」
フィン。
「エーリヒ、異常なし。フィンの弾が切れたら僕が代わります」
エーリヒ。冷静で、堅実。いつも通りだ。
全員が、まだ戦えている。
リーゼは前を向いた。
門が——見えた。
紫色の霧の奥、蝕域の中心に聳える巨大な構造物。そこから敵が無限に湧き出してくる。あれを叩かなければ、この戦いは終わらない。
最後の壁が立ちはだかった。上位個体が三体。門を守るように並び、アウローラを待ち構えている。
「三体か」
リーゼが呟いた。
「多いな——いや」
口元が、わずかに緩む。
「ちょうどいい」
アウローラが加速した。共鳴駆動が限界まで出力を上げ、白銀の機体が光を纏う。
セルゲイの牽制が左の一体を引きつけた。ヨハンの小隊が右の一体に集中砲火を浴びせる。フィンの精密射撃が三体の動きを一瞬だけ乱した。
一瞬で十分。
アウローラが中央の上位個体に突っ込む。結晶化した巨腕が振り下ろされる。リーゼは避けなかった。魔導刃で受け止め、弾き、そのまま斬り上げる。
蒼白い光が弧を描いた。
上位個体の胴体が裂け、青い光を撒き散らしながら崩壊する。
残り二体。セルゲイの重撃が左を粉砕し、ヨハンの集中砲火が右を沈黙させた。
道が、開いた。
門の前に、白銀の機体が立つ。
風が吹いた。紫色の霧を切り裂くような、冷たい風。
リーゼは操縦桿を握り直した。
「——みんな、ありがとう」
小さな声。通信には乗せなかった。
だが行動で示す。
ここまで繋いでくれた全員の想いを、この一撃に乗せる。
コックピットの隅に、小さなメモが貼ってある。出撃前の夜、奏太が忍ばせた言葉。
必ず帰ってきてください。
リーゼは笑った。
「帰るさ。——温かいスープが待っているからな」
白銀のアウローラが、門に向かって駆け出した。




