第四十三章 防衛線崩壊
最初に崩れたのは、南東の第三防衛ラインだった。
通信室のモニターが赤く染まる。光点の数が数字として意味を成さない。画面の右下が真っ赤に塗りつぶされ、味方の青い光点が呑み込まれていく。
「第三ライン、突破されました! 敵群体が防衛圏内に侵入!」
ロッテの声が通信室に響いた。いつもは感情を抑える彼女の声に、隠しきれない切迫が滲んでいる。
奏太はコンソールに張りついていた。全機のデータが流れ込んでくる。出力。装甲値。弾薬残量。関節温度。どの数字も赤に片足を突っ込んでいた。戦闘開始からまだ四十分。たった四十分で、これだ。
火傷だらけの指がコンソールの縁を握りしめた。出撃前に一人一人に声をかけた。帰ってきてください、と。あの言葉が、今は祈りのように胸の中で反響していた。
「リーゼ中尉、第三ラインの封鎖をお願いします」
ロッテが通信を繋いだ。
「了解。向かう」
リーゼの声は短かった。だが奏太のモニターは、十一番機の状態を映している。ガルベルトと仕上げた量産機。装甲値はすでに七割を切っていた。
*
戦場は地獄だった。
フィンの機体が旋回しながら三体の敵を引き離し、ヨハンの小隊が右翼を支えている。だが敵の波は途切れない。一体倒せば二体が現れ、二体倒せば五体が湧く。門から溢れ出す黒い影の群れに、じわじわと押し込まれていた。
リーゼが突破口に到達した。
灰色の量産機が剣を抜き、殺到する敵の先頭に斬りかかる。一閃。黒い影が裂ける。返す刃でもう一体。旋回。薙ぎ払い。量産機とは思えない動きだった。ガルベルトとの共同調整が確かに効いている。
だが——穴を塞ぐには一人では足りない。
「中尉、左方から新たな反応! 数、八!」
奏太が叫んだ。リーゼに新手が殺到する。突破口は広がるばかりだった。
その時、モニターに異常な反応が出た。赤い光点の中に、ひときわ大きな点。魔力反応が桁違いだ。数値が測定上限に張りついている。
「リーゼ中尉、前方に大型の未知個体。魔力値が通常の六倍以上——」
言い終わる前に、金属が砕ける音が通信に響いた。
*
リーゼは見た。
突破口の奥から現れたそれは、これまでの敵とは明らかに違っていた。通常個体が犬なら、こいつは馬以上。黒い外殻に赤い紋様が走り、四本の腕が地面を掻いている。頭部に人の目のような光。上位個体。初めて見る種だった。
構えた。剣を正面に。
遅い。
気づいた時には、十一番機が吹き飛んでいた。機体がねじれるように弾かれ、地面を二回跳ねる。装甲に亀裂が走り、警告灯が一斉に点灯した。
紫の瞳が上位個体を捉える。速い。次元が違う。
立て直す。膝をつき、剣を杖にして起き上がった。量産機のフレームが軋む。ガルベルトと鷹森が仕上げてくれた機体。ここで倒れるわけにはいかない。
斬りかかった。弾かれた。四本の腕のうち一本が盾のように動き、残り三本が同時に襲いかかる。右。左。上。三方向を捌ききれず、胴体に一撃。
また飛ばされた。装甲値、残り四割。たった二撃で三割持っていかれた。
愛機なら——。一瞬よぎって、振り払った。
三度目。側面に回り込み、脚を狙う。だが上位個体はリーゼの動きを読んだように体を回し、尾が横薙ぎに振るわれた。左脚の駆動系に直撃。動きが鈍る。
四度目。弾き飛ばされた。立ち上がるのに三秒かかった。
*
「装甲値二割を切りました! 左脚駆動系に異常!」
奏太の声が通信室に響いた。十一番機のデータは壊滅的だ。装甲一八パーセント。左脚出力六二パーセント。あの機体はもう長くない。
だが通信からはリーゼの荒い呼吸だけが聞こえ、撤退の言葉は出てこない。
六角ボルトが掌に食い込んだ。
その時、通信に別の声が割り込んだ。
「中尉、俺が引き受けます!」
フィンだった。機体が戦線を離れ、リーゼの方に向かっている。
フィンの機体が上位個体の前に滑り込んだ。攻撃はしない。精密な機動で注意を引きつけ始めた。左に揺れ、右にかわし、接近しては離れる。調和型の適性が生む、糸を引くような動き。四本の腕が空を切る。当たらない。だが倒せもしない。
「フィン、無茶をするな!」リーゼの声が飛んだ。
「大丈夫です、当たりません!」
回避精度は驚異的だった。奏太が調整した機体との同調が、ぎりぎりの機動を可能にしている。だがデータは別のことを語っていた。燃料残量三二パーセント。この動きは十分と保たない。そして何より、フィンには上位個体を倒す火力がない。避けることはできても、終わらせることはできない。
フィンの機体が腕を紙一重でかわした。近い。あまりに近い。次は当たる。いつまでも避け続けることはできない。
通信が割れた。
「坊主、下がれ! 俺が引き受ける!」
ヨハンだった。濃い金髪の大男の機体が横合いから突っ込み、フィンの前に割り込んだ。上位個体の攻撃を正面から受け止める。機体が地面を削りながら後退したが、倒れなかった。
「黙って下がれ。中尉を連れて退け」
十五年を生き延びたベテランの声。ヨハンの機体が上位個体に向き直り、両手で剣を握り直した。構えは正眼。古い型の帝国騎士の伝統剣術だ。
上位個体が突進した。四本の腕が同時に振り下ろされる。ヨハンは半歩だけ前に出て、最も近い腕の軌道に剣を合わせた。力ではなく角度で逸らす。ベテランの技。腕が剣に沿って滑り、その隙に踏み込んで外殻を削った。浅い。だが確実に傷はつけた。
「化け物め。硬いな」
時間稼ぎだ。フィンとリーゼが退くための時間を、一秒でも多く。
*
通信室のモニターは、絶望的な全体像を映していた。
第三ラインは完全崩壊。北側ではセルゲイの共和国部隊が自陣の防衛に追われ、重装甲の機体が壁のように並んで敵を押し返しているが数が多すぎる。
「ヴォルコフ大尉より通信。『こっちも手一杯だ。すまん』——以上です」
ロッテが読み上げた声に感情はなかった。だがヘッドセットを直す指先が、かすかに震えていた。
奏太の目を釘付けにする数字があった。基地までの距離だ。突破口から侵入した敵群体が防衛圏の内側を進んでいる。三十分以内に基地外周に到達する。格納庫。医務室。食堂。非戦闘員が暮らす区画のすべてが射程に入る。
ガルベルトが格納庫にいる。カティアが。ディーターが。ペトラが。ルーカスが。
「ロッテさん、非戦闘員に避難勧告を。第二種退避です」
ロッテが頷き、基地内回線に切り替えた。
「全基地要員に通達。第二種退避命令を発令。非戦闘員は直ちに地下防空壕へ移動してください」
冷静で正確な声が基地中に響く。兄を失った日から磨き上げてきたプロの声だ。
*
格納庫では、サイレンと同時にガルベルトが動いた。
「カティア、整備記録を持て。ディーター、工具の貴重品だけまとめろ。三分で退避する」
琥珀色の目に迷いはなかった。カティアが赤毛を翻して端末に駆け寄り、ディーターが無言で工具を選別し始めた。
だがガルベルトの耳は無線を拾い続けていた。リーゼの機体の状態。上位個体の出現。ヨハンの孤軍奮闘。
太い指が工具を握りしめる。十一番機。自分と鷹森が仕上げた機体。だが所詮は量産機だ。上位個体には——足りない。分かっていた。分かっていて送り出した。
格納庫を出る直前、空になった格納スペースを一瞥した。全機が出払っている。その壁が、今崩れかけている。
拳を握った。次こそは。この手で、あの化け物にも負けない機体を。
カティアが緑の目を潤ませていた。通信から漏れてくる戦場の音が、彼女の耳にも届いている。ディーターは工具箱を抱えたまま、灰色の目で格納庫を見渡していた。二十年の職人の顔が、初めて痛みを浮かべていた。
思いを振り切り、ガルベルトは部下を連れて地下へ向かった。
*
戦場では、ヨハンが限界に近づいていた。
装甲値一二パーセント。剣の刃が三分の一まで欠けている。上位個体の四本の腕が休みなく襲いかかり、一撃ごとに後退を強いられていた。
「ヨハン大尉、退いてください!」奏太が叫んだ。
「退いたら、後ろが丸裸だ」
ヨハンの声は穏やかだった。こういう時にこそ笑う男だ。
「中尉は無事か」
「フィンと共に後退中です」
「なら十分だ」
欠けた剣を構え直す。上位個体が突っ込んできた。ヨハンは真正面から迎え撃った。剣が火花を散らし、フレームが軋む音が通信に乗る。
「後方部隊が再編成中です。あと五分だけ持ちこたえてください」
「五分か。——ちょうどいい。酒一杯分だな」
笑っていた。やはりこの男は、こういう時に笑う。
ヨハンの機体が再び上位個体に向かっていった。欠けた剣を振り上げ、正面から打ち合う。火花が散った。押され、後退し、また踏みとどまる。その繰り返し。倒すためではない。一秒でも多く、時間を稼ぐために。
フィンはリーゼの十一番機を支えるようにして後退していた。満身創痍の機体を群体の残党から守りながら。操縦桿の上から首のペンダントを握りしめ、通信に混じるヨハンの荒い呼吸を聞いていた。
行きたかった。戻って大尉の隣に立ちたかった。だが自分の役目はここだ。リーゼを後方ラインまで送り届けること。それが今、フィンにできる全てだった。
*
後方部隊の再編成が完了した。援軍の青い光点が突破口に向かって動き始める。あと二分。
だがヨハンの機体データは赤を通り越して点滅していた。装甲値五パーセント。剣は折れ、壊れた刃を片腕で振るっている。
奏太はポケットの六角ボルトを握りしめた。冷たい金属が掌に食い込む。
この手では剣を振れない。機体を動かせない。だがこのボルトを握った手で整備した機体が、今も戦場にいる。フィンの機体も。ヨハンの機体も。リーゼの十一番機も。
どうか。帰ってきてください。
隣でロッテがヘッドセットを両手で押さえていた。澄んだ青い目がモニターの光を映している。声には出さず、通信士の役目を果たしながら、心の中で祈っている。
援軍まであと一分。ヨハンの機体が最後の警告を点滅させていた。
戦いは終わらない。そして奏太は知っていた。今の機体ではこの先に抗えない。量産機の限界が、仲間の血で証明されていく。その現実が、六角ボルトを握る指を震わせていた。




