甘い日常とビターな記憶(1)
「ただいま」
玄関のドアを開けてつぶやく。
「おかえりお兄ちゃん。お風呂とご飯の用意できてるよ。お風呂にする? ご飯にする? それとも~、わ、た」
「ああ、もちろん『わ・た・し』だ。美味しく頂いてやる」
リビングの方からどたどたと、まるで飼い主が帰宅したときの飼い犬の様に駆け寄って来た白髪の少女――妹の桃華が新妻のようなことを言うので、思いっきりそれに乗ってみた。
「うぇッ⁉ じょ、じょうだんだよね? っ……今あんまり可愛い下着じゃないから、ちょっと着替えてくるね」
顔を真っ赤にしてわたわたする桃華。驚くところはそこじゃないだろうと思うが、まあ桃華ならこんなもんだ。
「……冗談だ。悪いな、家事任せきりになってて。とりあえず風呂も飯ももう少し後だ」
早速下着を着替えに自室へと向かおうとする桃華を、猫を持つように服のうなじ部分を引っ張って引き留める。
「ひっどいよお兄ちゃん! 帰って来て早々、一日中さびしい思いをしてた妹を弄ぶなんて! 知ってる? ウサギは寂しいと死んじゃうんだよ⁉」
わめく桃華を放ってリビングへと向かおうと廊下を歩き始める俺の後ろをテテテとついてきながら、制服の端をつかんで甘えたように口を尖らせる桃華。
「はいはい、悪かった悪かった。でもウサギが寂しいと死ぬって話は嘘らしいぞ?」
「そんなことはどうでもいいよ! よそのウサギはそうかもしれないけど、桃華ちゃんウサギは死んじゃうの! 頭なでてくれたぐらいじゃほだされないからね‼」
鞄を持っている方とは逆の手で桃華の頭をなでつつ言うと、理不尽なことを言って俺の前に移動した桃華は、ポカポカと俺の胸元を軽く叩いてくる。
いつも大体こんな感じなのだが、今日はいつにも増して甘えん坊だ。相当暇だったんだな。
「お兄ちゃん成分きゅうしゅう~」などと言って、そのまま俺の胸に顔をうずめる桃華。
桃華は同年代より少し小柄な体格なので、完全に上から見下ろす形となる。真っ白でさらさらの髪が視界に入り、ついその頭に手を置いてそっとなでた。
しばらくの静寂。お互いの体温を交換するような何とも言い難い気恥ずかしい時間。
そうしていると……ふと昔、桃華がまだ小学生だった頃の記憶が脳裏をよぎった。
その時はまだ桃華が不登校になる前で、父と母と四人で一緒に暮らしていた。
その日は両親とも仕事で帰れないということで、当時中学生だった俺が桃華の面倒をみることになっていたのだが、部活で大幅に帰りが遅れてしまった。
もう小さな子供じゃないのだから大丈夫だろうと思っていたのだが、考えていたよりもずっと寂しい想いをさせてしまったようで、涙で目を腫らした桃華は、今みたいにしばらく離してはくれなかった。
あの頃の妹は今ほど甘えん坊ではなかったので、甘えられることに慣れていない当時の俺はどうしていいか分からず、ただひたすらに桃華が落ち着くまでの間、彼女の頭をなで続けることしかできなかった。
……両親が離婚して、母親に引き取られた俺たちが二人で暮らすようになったのはそれから少し後のことだ。
桃華が不登校になったのはその頃なので、もうあれから二年近く経つのか。
「まったく、いくつになっても子供のままだな。……そろそろ離してくれ。いい加減、荷物が重い」
名残惜しいが、鞄を持つ右手の握力が限界に近いので、俺は桃華の頭から手を離してそっと肩を掴むと、桃華を俺の胸から引きはがす。
不承不承といった様子で離れてくれた桃華は、まだ甘え足りないのか、俺の前に突っ立ったきり歩き出そうとしない。俺は仕方なく、そのまま桃華の肩に置いた手を背中にまわして軽く押しながらリビングへと移動する。軽いし別に構わないのだが、妹の甘えたにも困ったものだ。
しばらくリビングで時間を潰して、風呂を済ませ、夕食を食べ終えた後は日課の勉強の時間だ。小学六年の頃に両親が離婚し、その頃から学校を休みがちになった桃華は、小学校を卒業する頃にはほとんど学校に行かなくなっていた。義務教育として近くの中学に通うことになってはいるのだが、入学式すら桃華は行っていない。
本音を言えばもちろん、普通の同年代の子供たちのように毎日学校に通ってもらいたいのだが、彼女がそうなってしまった事情を考えると、何が最善の選択なのか分からないのが現状だ。そんな状況に、元から放任主義だった母親は俺達兄妹に二人暮らしをすることを提案した。今では仕送りくらいでしか繋がりを感じることはないが、向こうにも新しい人生がある。俺達はもう終わった家族だ。あの頃のようには戻れない。
だから俺がそれ以上を求めることは、もう二度とない。
「――ちゃん! ねえ、お兄ちゃん!」
「……ん? ああ、悪い。どうした? どこか分からないところでもあったか?」
考え事に夢中でボーとしていた俺は桃華に呼ばれて我に返る。
「うん、ここの問題なんだけど……大丈夫?」
「ん? 何がだ?」
「いや、ボケーっとしてたから疲れてるのかなって。それに、……なんだかちょっと怖い顔してたよ?」
心配そうに、隣に座る俺を見上げる桃華。
言われて、俺は自分の拳が握りっぱなしだったことに気づいた。
「……大丈夫だ。ちょっと今日学校で寝られなかったからな。眠いってだけだ」
心配させないように笑顔を張り付けて軽口を返す。
その言葉に桃華は安心したように笑顔を見せて、先ほどの問題を改めて尋ねてきた。
突然のことに、つい嘘をついてしまった。桃華の勉強を見るために、高校に入学して以来、俺は意外と真面目に授業を受けている。中学の範囲も菜月に教わって人に教えられるくらいにはなった。菜月はああ見えて成績がいいのだ。俺が言えたことではないが。
俺は尋ねられた問題を解説しながら、そっとリビングの隅に置かれた姿見に目を向ける。
そこには真っ赤な髪の目つきの悪い男と、まつげの先まで真っ白な彫刻のように美しい少女が並んで座る光景があった。
「……もう俺しかいないんだ」
ふと漏らした俺のつぶやきは天使の様に愛らしい妹の耳には届くことなく、ただ俺の胸の内にそっと積もった。




