最終夜 君が未来を知らないなら
◇TIME: 20:52
風が頬を叩く。
遠くで富田の絶叫が雨音に溶けていく。
「俺には視えていた! この未来は、確定していたはずなんだ!」
その叫びはもう、雨音の向こう側へと遠ざかっていく。
俺たちは抜け出した。
誰にも記録されない時間へと。
「……今、“構造”を越えたみたい……」
ルーの声が、背中に触れる。
震えている。
その震えは恐怖ではなく、希望の色をしていた。
「分からない」
俺は息を吐き、ただ前だけを見た。
「だから自分で決める」
◇TIME: 04:42
街の灯りが、ゆっくりと後ろへ消えていく。
ビルの群れ、構造の塔、断片の拠点。
そのすべてを置き去りにして、俺たちはただ、夜明けを目指していた。
海岸線に沿ったワインディングロード。
昇り始めた太陽が、穏やかな波に光を落としている。
「ねえ……どこまで行くの」
背中から、ルーの優しい声が聞こえる。
「行けるとこまで」
ルーが、俺の背中にそっと頬を預けた。
「予知のない世界なんて、少し不安で……でも、すごく素敵」
俺はハンドルを握る手に、そっと力を込めた。
たとえこの先に何もなくても、この“今”を、彼女と生きている。
それだけで十分だった。
スマホが震えた。
ルーが俺のジャケットのポケットから器用にそれを取り出し、画面をタップする。
「ひまわりからだ」
彼女がメッセージを読み上げる。
《とても興味深いものが見れて楽しかったわ。私が責任をもって記録しておくから。今から二人は“反逆者”……ううん、“離脱者”として登録しておく。また、どこかの公園で会いましょう。~ひまわり》
俺とルーは、声を出して笑った。
◇TIME: 04:47
空が新しい一日を選び始めた。
夜明けの光が、目の前の世界を満たしていく。
海に朝日が揺れていた。
蝉の声は消え、代わりに遠くで海鳥が鳴く。
朝焼けが、まだ何も描かれていない俺たちの明日を、静かに照らしていた。
バイクを止める。
ルーがヘルメットを外し、朝の風に髪をなびかせた。
「きれい……」
彼女は眩しそうに目を細めた。
「こんな景色、予知になんてなかった」
「ああ」
俺は彼女の手を握る。
「だから、見られたんだ」
ルーが微笑み、俺の手を強く握り返した。
生まれたばかりの朝の光が、ふたりを優しく包んでいた。
「ねえ、ルー」
「なに?」
ルーが俺を見上げる。
「……いや、なんでもない」
ルーが、小さく笑った。
俺も笑った。
【エピローグ 例えば夏の終わり】
◇TIME: 17:52(いつか、夏の終わりに)
波の音だけが、等間隔に規則正しく繰り返されている。
あの夜明けから数日しか経っていないのに、逃げ回っていた日々が、まるで他人の記憶みたいに遠い。
海沿いのダイナー。
グラスの表面を滑り落ちた水滴が、テーブルに小さな染みを作った。
ルーは窓際の席で、ただぼんやりと外を眺めている。
肌に触れる光は、もう真夏の暴力的な熱を失っていた。
傾きかけた西日が、彼女の灰色の髪を淡く透かしている。
あの日以来、富田を見ることはなかった。
未来を追い続けるのか。
それとも、どこかで立ち止まったのか。
もう、俺には関係ない。
「ねえ、薫」
「ん?」
「未来が見えなくなっても、困らないね」
「ああ」
「だって、明日は自分で見に行けばいい」
ルーが笑う。
その笑顔は、どんな予知よりも確かな“今”の証だった。
夏の終わりの風が、ふたりの間を通り抜けた。
未来は、もう誰にも視えない。
だからこそ、どこまでも自由だった。
例えば──夏の終わり。
もし、君が未来を知らないなら。




