調理室のおいしい話 後編
■ 溶かす思い出
昼も過ぎて。
調理室へとやってきたサクラは、甘い匂いに気がついた。
チョコレートのようだ、と思って足を踏み入れると、奥の小さなコンロで何かを作っているサカキを見つけた。横の調理台には牛乳と茶色い箱。匂いから察するに、ココアだ。
「あ、サクラさん」
こんにちは、とサカキは鍋をかき回す手を少しだけ止めてぺこりと頭を下げる。
「いい匂いだね。ココア?」
「はい。寒かったので甘いものでも、と思いまして」
「そっか」
「サクラさんも飲みますか?」
「え」
いいの? と問い返す。
はい、とサカキはこくりと頷く。
「それじゃあ……ご相伴に預かろうかな」
「はいっ」
「何か手伝うことはある?」
「ええと、ココアだけですし、座って待っててください」
そっか、と椅子に座ろうとして思い出した。
棚に入っていた、お菓子があった。
あれは数が少なかったので、少しずつ食べようと思ってとっておいたものだった。
サカキと二人で分けるなら、ちょうどいいだろう。
「どうかしましたか?」
棚を開けて箱を取り出すと、サカキが気付いて声をかけてきた。
「サカキくんはマシュマロ、好き?」
「マシュマロ……ですか」
ぱちり、とサカキが数度瞬きをする。それから視線を鍋のココアに向けて。
「ええと、実はあんまり食べたことがなくて……」
わからなくてすみません、と少し憂いたようにまぶたを軽く伏せる。くるりとした瞳に、長いまつげが影を落とす。
「そっか、実はちょっと前に分けてもらったのがあったんだけどね。よかったら一緒に食べよう」
「は、はいっ。それじゃあ、ココアももうすぐできるので、一緒に」
「うん」
そうしてできあがったミルクココアと、小皿に盛り付けられたマシュマロを前に、二人は隣り合って座っていた。
サカキは小粒なマシュマロをひとつ、つまんでみる。
ふわふわとした弾力を指に返すそれを、ぱくりとひとつ。
噛んでみても食感はあんまりない。小粒だからか、歯ごたえよりも先に甘みが溶けてくる。
もちもちとしているようで噛みきれるほどの柔らかさを持ったそれは、相変わらず不思議な食感をしていた。
「甘い」
「あまい、ですね」
「……?」
その言葉の歯切れの悪さに、サクラは首を傾げた。
「サカキくん、甘いの苦手だっけ?」
「えっ? いえ。そんなことは」
ふるふると首を横に振るサカキは、「もうひとつ、頂いてもいいですか?」とマシュマロを指差す。
「うん。どうぞ。二人で食べるつもりだったしね。たくさん食べてよ」
「ありがとうございます」
サカキはそうして小さな指でマシュマロをつまみ、ココアに落とした。
ひとつ。ふたつ。もうひとつ。
カップの真ん中で寄り添うマシュマロは、ココアの熱でじわじわとその輪郭を崩していく。
サカキはそれを暫くじっと見て、「実は」と小さな言葉を零した。
なんだろう、と視線を向けると、サカキは頬を少しだけ赤くして、ぽつりと呟いた。
「実は……僕、マシュマロが、ちょっと怖くて」
「へ?」
怖い? と思わず問い返した。
サカキはこくんと頷く。ぱらりと髪が揺れて、マフラーに口元が埋もれた。
「はい。こんな甘いお菓子を怖いなんて、変でしょうけど」
「え、ええと……確かにびっくりしたけど」
そういうこともあるかな。という正直な感想に、サカキは「そうですよね」と笑った。
「それにしても、苦手とかならともかく、怖いって……」
何があったのか、聞いても良いのだろうか? と、ふとよぎって言葉が切れた。
サカキはその問いを察したのだろう。くすくすと小さく笑って「大したことない話ですよ」と話してくれた。
「僕、こっちに来てからしばらくは、やっぱりいろんなことが気になってて。――表の校舎には出て行けませんでしたが、みんなの話とか、聞いてばっかりの頃がありました」
「ああ」
そういえばそんな日々が、あった。
□ ■ □
昇降口に毎日座って、ただただぼんやりと過ごしていた姿を覚えている。
それはあまりに頼りなくて、寂しそうで。いろんなものを受け止め切れていなくて。そのまま消え失せてしまいそうな背中だ、と思ったことも。
サクラはそれを遠目に見守ることしかできなくて。時々声をかけて、一緒にお茶を飲んであげるくらいしかできなかったけど。
その度にサカキは「僕、だめですね」と笑っていた。
「まだまだです。本当は、ちゃんと前を見ないといけないのですが」
「そんなことないよ。サカキくんは頑張ってる」
そんな風に声をかけたことを覚えている。
「本当、ですか?」
「うん。本当。みんなが分からなくても、俺はちゃんと見てるよ」
あんまり頼りになる言葉じゃなかったかもしれない。けど、自分にできるのは見守ることしかないと思っていたから。
「焦らなくても大丈夫。立ち上がれない時はちゃんと休まないと」
「でも」
「大丈夫」
そんなありきたりの言葉しか、かけられなかったけど。
「俺が居るから。……あ、いや、違うな」
ちょっと待って、と自分の言葉を止める。
何を言ってるんだ、相手は女の子なのにこんな風に言ったら怖がられてしまうだろう、と言葉を探して。
「俺は、君が目標に近づけたって思う日まで、手伝えることは何でもするし、ちゃんと君が頑張ってるのを見てる」
約束するよ。と言ったのだ。
「だから、サカキくんはサカキくんの速度で歩いて。助けが必要ならいつでも呼んで。お手本が必要なら、俺も頑張るから」
□ ■ □
「……」
思い出しながら、思わず目をそらした。
本当、俺は何言ってるんだろう。当時の自分に文句を言いたい。これじゃあ、下手したら逆効果だったんじゃないか。とか、ちょっと心配になってくる。
いや……今はそんな話をしている場合ではない。
「それで」
無理矢理に話を戻す。
「マシュマロが、怖い理由って?」
「はい。それで。気分転換に、って流行ってた映画とか、そういうのを見たことがあって」
「うん」
「街を壊してたマシュマロの……目が、忘れられなくて」
「目が」
「はい」
「マシュマロの」
「はい」
「……?」
一体何の映画なのだろう、とサクラは思うが。なるほどそれがマシュマロだったのならきっと怖いのだろう。
今度見てみよう。
「そっか……だからこうやって溶かすと、怖くない?」
「はい。……そうじゃなくても、僕はマシュマロ、溶かした方がおいしくて、好きです」
そうしてサカキは、ココアの上で溶けたマシュマロに視線を落とす。
ふわふわして、白くて。不思議な食感のマシュマロに出会ったのは、死んだ後のことだった。
こんなに可愛くて、甘くて、ぷわっとしてて。素敵なお菓子があるんだと、素直に言うとときめいた。そして、これを食べていいのだという。どうしよう。本当にいいのかな。とそわそわした。
以来、食べる機会はあんまりなかったけど、炙って食べてみたのを覚えている。
映画を見たのはその後で、あの目が忘れられなくてしばらく避けていた。
今日、久しぶりにそんなお菓子と再開して思ったのは。
あのとろりとした甘さと、触ったときのフワフワとした柔らかさ。それから、最初に出会ったときのあの気持ちだった。
怖くはある。けれどもそれ以上にこの食べ物はやわらかくて優しい。
ならば。このココアに入れてみたらどうだろう。
温めると、とろりとした触感に変身するそれは、きっとココアにも合うだろうと。ふと思った。
サクラはきっと、サカキがこんなものを怖がっていることを不思議に思うだろうけど。笑われる、という気はあまりしなかった。実際、笑われることはなく。彼は素直に疑問として返してくれた。
それが、なんだか嬉しいな、と思いながら。
ココアのカップを手に取る。
口をつけて、溶けたマシュマロをココアと一緒に飲む。
とろりと溶けたマシュマロ。それを包むあったかいココア。
それから、僅かに残った塊は。
なんだか自分が昔、いつかどこかに残したもののように感じた。
「ふふ……マシュマロ、おいしかったです」
「それならよかった。サカキくんのココアも美味しかったよ。ごちそうさま」
「……また」
「うん?」
「また、いっしょに食べましょうか」
サカキの言葉にサクラはぱちりと瞬きをして。
それからふわりと笑って言った。
「うん。喜んで。次は俺がお茶を淹れるよ」
「はい。では次は僕がお菓子を持ってきますね」
■ ウツロのお手軽おやつ
「ねえねえ、ウツロさん」
「あのね、ウツロさん」
「……あ?」
理科室で煙草を吸っていたウツロは、窓から聞こえてきた声に振り返る。
窓の向こうには誰も居ない。
そうではなく。窓。反射のように、紫色の目をくるりと煌めかせた男女――カガミが立っていた。
「カガミはおやつが食べたい!」
「ウツロさんのおやつが食べたい!」
突然の要求に、口だけが「は?」と形作る。声は出なかった。
「……そりゃあまた、突然だな。自分らで作ってこい」
「えー」
二人の声が不満げに重なる。
「ならば夕飯まで我慢しろ」
「えー。カガミ、あれ食べたい」
「むー。カガミおやつ食べたい」
「じゃあ、カガミ作るから」
「うん。教えて、ウツロさん」
交互に畳み掛けてくる言葉に、ウツロは携帯灰皿に灰を落とし。溜息をついて。もう一度灰皿を開けて煙草を放り込んだ。
「じゃあ、教えるから覚えろよ」
「はあい!」
この二人。返事だけはいいのだ。
□ ■ □
「えーと、材料言うぞ」
「はーい」
「小麦粉。砂糖。卵。水か牛乳」
「ある!」
「あった!」
「じゃあ、それを全部混ぜろ」
「量は?」
「順番は?」
「んなもん適当だ」
「「てきとう」」
「ああ。甘いのがいいなら砂糖を増やす。何か挟むなら水を増やす。みたいな」
カガミはふうん。と言いながら材料をボウルに放り込んでいく。
「小麦粉」
「卵」
「お砂糖は多め」
「パンケーキみたいなの好きだった。牛乳は少なめ」
「あとは混ぜる」
「混ぜるだけ」
そうしてスプーンでぐりぐりと材料を混ぜる。
最初は水っぽかった音は次第に粉と混ざり合い、しばらくするとホットケーキのタネのような、それよりも粘り気があるような。そんな薄黄色のタネが出来上がった。
「きれいに混ざった」
「焼いていい?」
「ん。火は……コンロを見て火が繋がって見える位。それでしばらく温めろ」
「はあい」
二人はじぃっと火を眺め、時々フライパンに手をかざし、暖まるのを静かに待つ。
「あったまった気がする」
「焼いてもいい気がする」
そう言いながら二人はバターを溶かし、先程のタネを流し込む。
じゅわあ、と音を立てながら流れていったそれはきれいな円を描いて焼かれていく。
「良いにおい」
「おいしそう」
「焼けたかな?」
「ひっくり返す?」
「待て待て。まだ焼き始めたばかりだろうが。端が乾くまで待て」
「はあい」
そうしてカガミはまた、じっとフライパンの中身を覗き込む。
「はしっこ」
「乾いた?」
「まだ」
「まだー」
「……」
「乾いたかな?」
フライ返しでつついてみる。
「乾いたかな!」
フライ返しを二人で見つめる。
「ウツロさん」
「ん。このくらいならいいだろ」
「わあい、ひっくり返す!」
そうしてもうしばらく。待った二人は、お皿の上にフライパンでまるく焼けたものを取り出し、分けられるように等分していく。
「ウツロさんも食べる?」
「ん? じゃあ、一切れ」
「はあい」
そしてバターを塗りながら、二人はきゃっきゃと口に運んでいく。
もっちりとした食感はホットケーキほどやわらかくない。けれどもなんだかやめられない、砂糖の単純な甘さとバターの塩気がよく合う一品だ。
「ウツロさんはさ」
「ん?」
「これ、どうしてよく作ってるの?」
「これ、なんて名前なの?」
「ん……? これか。これはな。昔の知り合いがよく作ってたんだ。皆はアイスだのチョコだのあんみつだのとなんかキラキラした甘いもん食いに行ってたがな。俺はこういう素朴な味の方が好きで。それで教えてもらったんだ。名前は……」
ええと、とウツロはもぐもぐと口を動かしながら考える。
「……忘れた」
「ええー」
「その教えてくれたヤツの郷里でよく食べてた、ってのは聞いたことあるが……名前まではな」
そういえば、彼はサラシナとよく似た喋り方をする青年だった。自分とは途中で所属が変わってしまったため、それきりだったけれども。
彼は元気にやっていただろうか。
ふと。そんなことを思ってしまった。
ウツロ自身、人間だったとしたらとっくの昔に死んでいてもおかしくない年齢。しかも現代までの路には大戦もあった。生きていたら。
……会いたいだろうか?
いや、姿は一目見てみたいかもしれないが、会って話すことなどないに違いない。
「そっかー」
カガミ達はそれだけ言って、もぐもぐと口を動かす方に専念する。
「これでカガミも作れるね」
「でも、ウツロさんの方がおいしい」
「うん。ウツロさんの方がおいしい」
「そこは回数をこなしてうまくなれ」
「はあい」
楽しそうにそれを食べる二人を見て、ウツロはふう、と溜息をついた。
胸ポケットの煙草にそっと指を伸ばし、ピタリと止める。
「自分、煙草苦手ですけん。そぎゃん話できんとですよ」
彼はそう言って笑っていたから。だから。無意識の内に、これを食べる時は煙草を吸わないようにしていた。
そもそもここは禁煙だ。
カガミ達が片付けるのを見届けたら一服するとしよう。
思い出したものに触れないように。
ウツロはそっと煙草の箱から指を離した。





