虹蛇さんの罪 1
夜。部屋から零れる話し声。
「いや、やめろって」
「――」
「気持ちはまあ、分かるし。俺だって……いや、だから!」
「――」
あ。と声が聞こえて、部屋は静かになった。
しばらくして、部屋のドアが開く。
中から出てきたのは、淡い桜色の髪の少年。
その顔は酷く機嫌が悪そうで、眼鏡の奥にある目は、全てに興味がないような。何かに苛立っているような。そんな色をたたえていた。
そんな彼は、面倒な仕事を終えたようなため息をついてドアを閉め、暗い廊下を歩き出す。
「ったく、おまえは甘すぎるんだ。あの時の感情、俺が逃がす訳ねえだろうが」
なあ、と答えない声に言い聞かせるようににやりと笑うと、八重歯が覗く。
ずれかけた眼鏡を指で軽く押し上げて、舌打ちする。
「邪魔くせえな……」
しかし、眼鏡がなければ周りの景色はぼやけて見える。夜なら尚更だ。我慢するしかない。
しかたない、とそこは諦め。彼は廊下の奥へと消えた。
□ ■ □
「――」
呼ばれた気がして、蛇は目を覚ました。
最近は騒がしい。呼ばれるような声がしたら、否応なしに目が覚めるほどに眠りが浅い。
だが、呼ぶ声に聞き覚えはない。
雨を乞う人間なら、応えてやる義理もない。
そうでなくとも、顔を出してやる理由がない。
無視して身を潜めるが、声の主はそれを許してくれないようだった。
「そこに居るのは分かってんだよ。出てこい」
酷く不機嫌そうな声だった。無視をする。
出てきて欲しくばそれなりの態度というものがある。ただ不快なそれに応える気は失せていた。
しばらく声の主は黙っていたが、何かに気付いたらしい。「ああそうか」と呟くとくつくつと笑ったようだった。
「この姿じゃ声も分かんねえな」
「……」
蛇は考える。
知り合いのような口ぶりだが、そんなの居ただろうか?
その疑問に応えるように、祠の外の声がいくらか大きくなった。
「いいから。さっさと出てこいよ。こう呼べば分かるか? ――雨の」
「!」
思い出した。
虹蛇をそう呼ぶ者はひとりしか居なかった。
それは、黒く輪郭を持たない影だ。
友人と呼べるほどの仲ではない。昔。一時期。話をした。その程度の繋がりだ。
互いに名を持っていなかった。だから、好き勝手な名で呼んでいた。
蛇は影を「獏」と呼び。
影は蛇を「雨の」と呼んでいた。
「――獏か」
蛇はしぶしぶと重い身体を動かし、祠の戸を開けた。あいつは短気ですぐ実力行使に出る。このまま引っ込んでいたら、祠の戸をこじ開けかねない。
隙間からしゅるりと這い出て見上げると、晴れ渡った夜空を背にして、少年が立っていた。
夜空に白く浮かぶ、整えた髪。詰め襟。眼鏡。色は分からないし覚えのない姿だったが、ただひとつ。奥の瞳。そこにある視線から感じる感覚には覚えがあった。
「ほう。お主が人間になったとは、世の中何が起きるか分からんのう……」
溜息のような言葉に、彼はくつくつと笑った。
「そうだな、俺がこうしてお前を叩き起こしに行くことがあるってのも、な!」
そして言うが早いか彼は蛇の背を踏みつけ、首元をぐっと掴んで持ち上げた。
「! 何をする!」
尻尾を巻き付かせて腕を締め上げるが、獏は掴む手を離さない。
「ちょっと付き合えよ。会わせたい奴が居る」
「会わせたい……?」
ワシにか? と問う。
お前にだ。と答える。
そして答えを聞かず、獏は祠に背を向けて歩き出す。
「離せ」
「駄目だ。逃げるかもしれないからな」
「ワシは逃げも隠れもせぬ」
は、と鼻で笑う音がした。
「さっきまで奥で気配消して外を伺ってた奴の台詞とは思えねえなあ?」
う。と蛇の言葉が詰まる。
「それより」
腕、と獏は言う。
「そろそろ痣になる」
蛇はその言葉を無視した。奴だって首を掴んだまま離さないのだ。お互い様だ。
獏はそれを答えと受け取ったのか、視線を向ける事すらせず校舎の中へ踏み込んだ。ぎし、と床板の軋む音がした。
「……? どこに行くつもりだ」
「見て分かるだろ」
獏はすぐに回答を放棄する。どう見ても校内だったが、そこを迷いなく進むあたり、慣れた場所なのだろうと言うことは分かった。
「住処か」
蛇の問いに彼は「そうだな」と軽く答えて廊下を進む。
「斯様な所に住めるとは……」
ずっと祠を住処にしていた蛇にとって、それはどこか不思議な話だった。
学び舎は子供達が大勢過ごす場所だ。特に昼間は笑い声と足音が常に聞こえる。今は夜だから人の気配が薄いのは分かるが、住処になるとは思えなかった。。
「人間はどうした」
「こっち側には居ねえよ」
「こっち側……?」
分からぬと唸ると、獏は「そんなもんだ」と、めんどくさそうに答えた。
静かな廊下。木で作られた床は沢山の生徒が、教師が、人が歩き続けたのだろう。つややかに磨かれ、木目が分かりそうなほどすり減っていた。
学校内に入るのは初めてではないが、夜になるとどうにも景色が違うように見えた。そんな中、蛇は首を掴まれたままどこかの部屋へと連れて行かれる。
がら、と開いたドアの向こうには整然と並ぶ机などなく。本棚や文机、小さなタンスなどがあった。部屋の隅には端は一段高くなっており、畳と布団がある。そこが彼の寝床なのだろう。横の棚には、変わった形の入れ物に小さな花を綻ばせた枝が刺さっていた。
獏は部屋の戸を閉め、机の上でようやく手を離した。それから目の前の座椅子にどかっと腰掛けた。
「よし。まずは話をしようぜ?」
「ワシに話す事など何も」
「いーや、あるだろ。ないって言うんなら思い出させてやるよ」
そう言いながら座椅子に背を預け、足を組む。鋭い視線が蛇をじっと見下ろす。
「大雨降ったの知ってるか?」
ぴくり、と蛇の尻尾が動いた。
雨が降ったのは知っている。
それがどれほどの雨だったかは、目が覚めた時に何となく把握した。周囲はぬかるみ、あちこちに大きな水溜りがあった。
自分がどのくらいの間眠っていたのかは分からないが、めいいっぱい降ったのだろう。
「その反応だと心当たりがあるな?」
「……そうさな」
頷く。
「あの雨、お前だろ?」
「ああ……きっとワシじゃろうな」
きっと? と彼は不満げに繰り返したが、答え自体は満足に足る物だったらしい。「それじゃあ」と言葉を続ける。
「その雨で校舎の一部が倒壊したのは?」
「倒壊……? なにやら工事をしておったのは知ってるが」
知っていたとしても、それが何だと言うのだろう。獏はそれには相槌すら打たずに質問を投げかける。
「それで、ガキがひとりが死んだ事は?」
「知らぬ」
「――そうか。お前には何の自覚もない、と」
くつくつと彼は笑い、蛇を一瞥する。
その楽しそうだった笑い声に反して、視線は酷く冷たく、暗かった。
「もう一度聞く。あの雨降らせたのはお前だよな?」
「ああ……」
きっと、そうだ。
あの声が聞こえて、それに感情を任せたまま雨を降らせ、眠りについた。
それと繋がる話なら、そうだろう。
「それが、なんじゃ」
応えるように、彼の視線が鋭く蛇を射抜く。
「それが、お前が俺を起こした理由だ」
「理由……」
彼の視線は不機嫌極まりない。それは声にも表れている。獏は感情を隠すような真似はほとんどしない。さて。その理由は……。
「今一度ワシに雨を降らせろということか?」
「違えよ」
「ならば……何だ?」
蛇の問いに、獏は「そこまで説明してやる義理はない」と言わんばかりの視線を落としてきた。
だから。答えはたったの一言だった。
「謝れ」
「…………は?」
何に、とは問えなかった。
問うてみたとして、答えをくれるようなやつではない。
蛇は考える。
これまで何度も雨を降らせてきた。それに対して、彼が謝れなどと言ってきたことは一度もない。降らせようが降らせまいが、彼にはなんの関係もない。それについて語らったことすらないし、交流と呼べるようなものもなかった。
ならば。なんだ。
考える。
獏の与えた言葉を、繋げていく。
雨が降った。
校舎が崩れた。
子供が死んだ。
「……」
まさか。
蛇のその目を見て、獏はようやく気付いたかと言いたげに息をついた。
「ああ。ようやく繋がったか? その想像通りだ」
獏は言う。
「こいつがな」
とん、と軽く自分の胸に手を当てる。目を閉じ、口の端を釣り上げて言う。
「この身体の持ち主がな。そいつを気に入ってたんだ」
「……」
「だが、そいつは」
「死んだ……、と」
「そう。大雨に耐えきれず崩れた校舎に潰された」
つまり、と獏の目が開く。
「そいつを殺したのは、お前だ」
蛇はその言葉に、言葉を失った。
己の降らせた雨が、土砂崩れを引き起こした事もあった。
川を溢れさせた事もあった。
しかし、それは望まれてやった事だった。その結果だった。だから、咎められる事はなかった。
だが。今回は違う。違うのだ。
誰のものとも分からぬ言葉に耳を貸し、感情を傾け。その赴くままに動き、人を巻き込んだ。人の望みではない。身勝手な暴力だ。
こやつは、それに気付いている。
それで怒っておるのか。
……いや。本当に、そうか?
「獏よ」
「あ?」
「ワシが謝るべきは、その子供か?」
「ああ」
彼はあっさりと肯定した。
なるほど、と蛇は頷く。
「その人物に謝るのはいいとしよう。言い訳はせぬ。原因がワシにあるのは間違いない。だが」
蛇は息をひとつついて、姿を変える。
瞬きひとつの間に。文机の上には、ゆったりと腰掛ける女性がそこに在った。
白いシャツに丈の長いスカート。羽織った着物に白く長い髪がさらりと音を立てる。白い肌。赤い瞳にはまつげが眠たげに影を落としている。
透き通るような赤い目が、面白くなさそうな濃い桜色の視線と交差する。
文机の上に座った彼女は身を乗り出し、その白く細い指で、獏の顎を掴んで上を向かせる。蛇の目には見えなかった瞳の色が、覗き込む赤を映す。
「のう。お主はどうしてそのように怒っておるのだ」
「別に怒ってはねえよ」
「怒っておらずとも、何かあろう?」
双でなければ、彼がここまで動く理由がない。そう言う蛇に、獏は面倒そうな顔をした。
「……あのガキの悩みは、深くて黒くて美味かったからな。それを勝手に壊された。理由くらいにはなるだろ?」
「嘘をつけ」
「は?」
すぱん、と言い切った蛇の言葉に、獏の口が曲がる。
「お主は人の悪夢を喰らう者だ。苦しみ、悲しみ、悩み、妬み、嫉み……夢と化したあらゆる負の感情を喰らう。その身体の主も、気に入っていた子供が死んだ事で悲しんだのじゃろう。きっとそれを夢に見るのじゃろう。子供も死ぬ時は苦しかったじゃろう。それにはワシも同情はしよう」
じゃが、と蛇の言葉は続く。
「お主はそれを喜ぶべきであって、怒る道理は無かろう?」
なぜ怒る。と、蛇は問う。
獏は答えない。ただ、目が不快そうに歪む。が、目をそらす事は叶わない。
「先の言葉がお主の本意だと言うのなら、ワシが謝るべき相手はお主じゃ。だと言うのに」
蛇は少し前の会話の一部を反芻する。
「謝るべきはその子供か、という問いに対して、お主は是と言った。忘れたとは言わせんぞ?」
「……」
「今一度、言うてやろう。お主は」
不快そうにゆがんだ視線に、蛇は微笑んで突きつける。
「悪食じゃ。負の感情を、そこから生まれる悪夢を喜んで喰らう者の筈じゃ。なのに、何故そうも怒っておるのだ?」





