虹蛇さんの罪 2
獏は蛇の手を軽く払い退け、頬杖をついて蛇を睨み上げる。
蛇もまた、その視線を払いのけるような目で、獏を見下ろす。
しばし睨み合った後、蛇は静かに目を伏せた。
「お主は自身の怒りなどどうでも良いのだ」
獏の面倒臭そう舌打ちが聞こえた。
なんとまあ、随分と人らしくなったもんじゃな、と蛇は思った。
「のう。獏よ。お主は初めて知ったのではないか?」
「……何を」
「人の子を、誰かを大切に想うという事」
「――はっ」
獏は蛇の言葉を一笑に付した。
「そんな事あるもんか。俺は美味い悪夢が喰えりゃあそれでいい。あのガキだって、こっち側で生きる事を決めたんだ。それをこいつ……サクラが聞けば、さぞかし良い悪夢に魘されてくれるだろう。俺はそれを心待ちにしてるんだぞ?」
「嘘つきめ」
「あ?」
獏の視線が射抜くように蛇を睨みつける。が、竦みはしない。確かに彼は短気だが、それ故に正直すぎる所がある。それくらいは分かる。
「さっきからその場しのぎの言葉ばかり並べおって。ワシにはお主が、その身体の主も子供も、どちらも大事に想っているようにしか見えぬよ。ワシは人を眺めるばかりであったが、その間、お主は人と接してきたのじゃろう? だからこそ、彼らの感情を受け止め、ワシを起こしにきた。違うかの?」
ぐ、と獏の喉が小さく詰まった音がした。視線も気まずそうに逸らされる。
「良い友を得たようじゃの」
「別に、俺は」
「まあ、良い。ワシはこれ以上深くは聞かぬ。その子供とやらには、明日、しかと謝ろう」
蛇は立ち上がり、近くの雑貨がしまわれている棚の前に立つ。その中から適当な空き箱を見つけ、手に取った。
「今宵はここで休ませてもらうぞ。この箱、使うても構わんか?」
獏は複雑そうな顔を蛇から背けたまま「勝手にしろ」とだけ返してきた。
□ ■ □
「……む」
気付いたら朝だった。
見慣れない景色に一瞬戸惑ったが、すぐに昨夜の事を思い出す。
そっと箱から頭を出すと、少年が座椅子に腰掛けて外を眺めていた。
昨日とは正反対の、柔らかな春のような空気を纏った少年だった。彼が獏の言っていた「身体の持ち主」……サクラという者なのだろう。
しゅるりと箱を抜け出し、彼の足下までいく。
「のう。お主がサクラとやらか?」
「うわ」
少年は驚いて椅子を少しがたつかせたが、すぐに身を屈めて笑顔を向けた。
「うん。俺がサクラ。昨夜は……無理矢理連れてきてしまってごめんね」
蛇はふるりと首を横に振り、昨日と同じように文机の上へと上る。
「……腕」
「うん?」
「腕に、痛みはないか?」
腕、とサクラは繰り返して、「大丈夫」と笑った。
「そうか」
ならばいい、と窓の外を見ると、青い空に白い雲が流れていた。
「昨夜の件はお主が気にすることではない。獏が勝手にやった事。彼奴もまあ、人と接して成長したというのはワシにとっても収穫であったしな」
「成長……」
そうなのかな、と小さなつぶやきが聞こえた。
そうじゃろう、と蛇も小さく返す。
「彼奴は人間が大層嫌いじゃが、良い所を認めぬほど曲がってる訳ではない。お主には何か、彼奴の内に触れる物があったのじゃろう。それが変化を与えたのかもしれぬ」
「変化……」
「うむ。ワシと彼奴は、何かしら名のある関係と呼ぶには薄氷よりも薄い付き合いじゃが、古くから彼奴を知る身ではある。ワシからも礼を言おう」
「いや、お礼を言われるようなことは何もしてないよ……」
「まあ、そう言うな。こういうのは黙って受け取っておけ」
蛇の言葉にサクラは「そう、かな」と少し考えるような仕草をして、頷いた。
「それなら。うん。ありがとう」
そうして蛇はさて、と頭を上げる。
「昨夜話していた子供とやらに謝りにいくとしようか」
「ああ……うん。じゃあ、案内するよ」
部屋にいるかな、と呟いて蛇に手を差し出す。
乗れということなのだろう。蛇はそっとその腕に身体を巻きつかせた。
サクラは蛇の乗った腕を持ち上げながら「そうだ」と呟いた。
「ええと、虹蛇さん。でいいのかな」
「ん? ああ。呼び名か」
うん、とサクラは頷く。
「そう呼ばれる事もあるが、基本的に名は無い。好きに呼べばいい」
そう言うと、サクラは「そう」と、なぜかくすりと笑った。
「? なにかおかしいことでも言うたか?」
「ううん」
なにも、とサクラはやんわりと否定して、部屋を出る。
しばらく歩いたところで、サクラは「そうだ」と何か思い出したように声を上げた。
「今から会いにいく子なんだけど……ちょっと、怖がりな子なんだ。だから、その姿を怖がっても、怒らないであげてくれるかな」
「む。蛇が苦手か」
「蛇というか……虫とかもだと思う」
「……虫と一緒くたにされるのは心外じゃが」
「あ……そうだよねごめんなさい!」
「冗談だ。なに、構いはせぬ」
蛇はそのままサクラの足を伝い降り、少し進んだ所で姿を人の形へと変化させる。
「これならどうじゃ?」
サクラは一瞬彼女に見惚れたような顔をして、「うん」と頷いた。
「ありがとう。あ。あと……これは俺のお願いなんだけど」
「ん?」
「アイツ……獏の事は、内緒にしてて欲しい」
「ほう。何か理由が?」
その問いに、サクラは少々答えあぐねているようだった。
「別に知られて困る事って、あんまりないんだけど。……知ってる人少なくて。皆に話すきっかけもないまま今まできちゃったっていうか……俺もアイツも、そうやってきたから、かな……」
曖昧でごめんねとサクラは謝る。
なるほど、と蛇は頷いた。
「お主らも難儀な関係じゃのう。相分かった。あいつの事は内密にしておこう」
「ありがとう」
□ ■ □
最初に案内された部屋に人の気配はなかった。
次に案内された部屋――「保健室」と記されたそこで出会ったのは、幼い、いや、小さな……と形容してもいいような子供だった。
「……」
サクラの紹介によれば、名をサカキというらしい。その小柄な少年は、真新しい制服 の袖をぎゅっと握りしめ、おどおどと不安げな視線をしている。まるで怯えきった小動物のようだ。
「――お主が」
「は、はいっ」
「……そう気を張るな。肩の力を抜け。ほら。深呼吸しろ」
サカキは言われるまま、すーはーと何度か息を吸ったり吐いたりした後「すみません」と小さな声で謝った。
蛇はサカキに視線を合わせるように膝をつき、その手をそっととる。
力は入っているが、やはり幼い。小さく柔らかな手だった。
「お主が、校舎の事故で死んだと言う人物で、相違ないか?」
サカキは戸惑ったように「はい」と頷いた。
手が小さく震えている。まだ傷が治りきっていないのか、袖口から傷を押さえる布が見えた。顔を上げると、首にも布が巻かれていた。頬にも傷を押さえる物が貼ってある。
それはとても、痛々しい姿だった。
「痛い思いをさせたな……」
「い、いえ……その……」
サカキはおどおどと答えながらも、不思議そうな顔をする。
なぜ自分は謝られているのだろう。そんな顔だった。
「あの雨を降らせたのはワシじゃ。結果、お主の身体を傷つけ、命を奪った。……さぞ怖かったじゃろう」
蛇の視線が、サカキの手に落ちる。
このような小さな手に、身体に、どれほどの傷を受けたのかは見えないから測れないが、これは確かにサクラは心を痛めるだろう。彼に寄り添う獏もまた、怒って当然だ、とも思った。
「すまない。このような言葉では足りぬというのは十分に承知しておる。詫びにもならぬかもしれぬが、この蛇ができることなら、何でもしてやろう」
「え……」
「ああ。何でもしてやるとも。雨を降らせるしか能のない蛇じゃが、できる事ならなんでも。別に今すぐにとも言わぬ。思いついた時で良い」
言うてみよ、と蛇はできる限り柔らかい声で言う。
サカキはしばらく戸惑ったように俯いたり、天井を見上げたりしていたが。しばらくしてそっと口を開いた。
「あの。それでは」
「ん」
「僕の、お話し相手に……なってもらえますか?」
「話し相手とな」
思わず繰り返した。何が出てくるかと思いきや、話し相手とは。この少年、見た目通りにおとなしく、欲のない人物らしい。
「その、僕。まだここに来たばかりで。これからたくさんの人とお話しを、していきたくて。だから、サクラさんとか、ハナさんとか……みんなで一緒にお茶を飲んだり、お喋りしたり……したいな、って……」
思ったんです。けど。と、最後の言葉は小さくなって消えた。
「……」
「だめ、ですか……?」
蛇の目は人間には見えない色が見える。色だけではない。感情、感触。いろんな物が。
サカキの目には「無理を言っただろうか」という不安の色が見えた。
人間は好きではない。身勝手に拝み、物を与え、逸話を増やして見知らぬ世界へ放り込んでいく。自分の都合など聞きはせぬ。それが嫌で、適当に与え、祠に引きこもり、姿を見せず過ごしてきた。
身勝手な人間に対して、身勝手な態度を取ってきた。
しかし、サクラやサカキのような人間が居るならば、少しは違うのかもしれない。人間に対する感情がそう簡単に変わるとは思えないが、あの獏にすら変化をもたらす程の二人だ。多少はマシだと思えるかもしれない。
蛇の身体で祠に籠もって困った事はないが、人の身体で過ごすのも、悪くない。
始めてそんな気がして、くすりと笑みがこぼれた。
「相分かった。ワシはお主の話し相手になろう。共に茶を飲み、語ろう」
その言葉にサカキの表情がぱあっと明るくなる。
「はい……っ、ありがとう、ございます」
「謝罪をしにきて礼を言われるとは思わなんだ……まあ、長く生きるとこのような事もあるか」
「?」
サカキの首がわずかに傾いた。
蛇は目を伏せ、小さく首を横に振った。
「いや、独り言だ。気にするでない」
話し相手になると言ってはみたものの、と蛇は考える。
子供とはどのように付き合えば良いかは分からぬ。
遠い遠い昔に見かけた景色を思い出し、そっと頭に手を乗せてみた。
サカキの目がきょとんとして蛇を見上げる。数度髪を軽く梳くように滑らせると、くすぐったそうに表情が緩んだ。
きっとこれで良いのだろう。
蛇は嬉しそうなサカキの表情を見て、小さく頷いた。





