彼とサクラが見る景色 2
目が、さめた。
天上がそこにあった。
頭が痛くて、ぼうっとする。
夢を見た気がするけど、覚えてない。
「あ。目ぇ覚めたと?」
横から明るい声がして、首を動かそうとするとずきりと痛んだ。
なんだかぼんやりとしている。風邪を引いてしまったんだろうか。そんなぽやぽやとした視界には、長い金髪を後ろで束ねた女の子が居た。
光の加減で紫にも青にも見える目をしたその人は、本を読んでいたらしい。本のページに指を挟んだまま、こっちを見てにこーっと笑った。
「あの……っ」
起き上がろうとして軋んだ身体に、思わず動きを止める。
「あ。まだ熱もあるし動かん方がよかよ。ちょっと待っとってね」
彼女はそう言って本を置き、人形を抱きかかえてカーテンの向こうへ消える。
ああ、やっぱり熱があるんだ。なんとか身体を起こし、だるさを逃がすように息をつく。
カーテンの向こうから、さっきの女の子と誰かの声が聞こえてきた。
「ヤツヅリ君。あの子が目ぇ覚ましたけん、サクラ君呼んでほしかとだけど」
「ああ。今食事持ってきてもらってるから、すぐ来ると思うよ」
「そっか。じゃあ待っとるね」
ててて、と足音が近付いてきて、カーテンがめくられた。
戻ってきた彼女は、人形を抱えたまま椅子に腰掛け、葵と向き合う。
「あの……」
「うん。聞きたい事いっぱいあるよね。でも、体調も悪かし、ウチが話せるのも少なかし……」
えーっと、と金髪の少女は少し考えて、「そうだ」と背筋を伸ばした。
「まずは自己紹介。ウチがサラシナ。サラシナ ルイ。で。こっちが――」
と、膝の上にあった人形を枕元に置く。
「レイシー。口は悪かけど、悪い人形じゃなかけん。安心して良かよ」
レイシーと言われた人形は、深い紫色の静かな瞳をしていた。
縁取るまつげと髪の毛はつややかな黒で、よく手入れされていると分かる。ベージュのドレスもレースやフリルがふんだんに使われていて、青いリボンがとても映える。
「……すてきな、お人形ですね」
「――ふん」
葵の素直な言葉に、レイシーと呼ばれた人形は視線をそらして息をついた。
「……!」
動いて。喋った。それもものすごく低い声で。
葵は思わず言葉を失う。
「そのようなぎこちない世辞など要らぬ。我とて好き好んでこの身体を使っている訳ではない」
「…………」
「……そのように不可思議極まりない目で見られる覚えも無いが」
「あ。その……」
ごめんなさい、と葵は謝る。
「お人形が喋るなんて、不思議で」
そしてちらっとサラシナへと視線が向く。
「腹話術、ですか?」
「……ぷっ」
彼女は吹き出し、けらけらと笑った。
「あはは、ごめんごめん。そっか、腹話術かあ。腹話術ってのもアリだね」
「おい」
ひとしきり笑って涙を拭きながら、サラシナはレイシーを膝に抱え直して髪を軽く整える。レイシーはというと、ふん、と不機嫌そうに口を曲げていた。
「レイシーはね生き人形だよ」
「いき、にんぎょう……ですか?」
繰り返すと、彼女は「そう」と頷いた。
「腹話術でもなんでもなか。生きてるお人形。今ここに居るのは、みーんな普通じゃない人ばっかだけんね。これからきっと驚く事がいっぱいあっと思うよ」
「?」
「そして。あなたもその仲間」
「なか、ま? ええと――っ!」
どういうことだろう。と手を動かそうとして、走る痛みに言葉を詰まらせる。
「貴様はそれだけの大怪我をしたのだ」
大怪我、と繰り返すと、うん、とサラシナは頷いた。
そうか、だからここで寝かされてるんだ。と思った次に浮かんだのは、両親の顔だった。
あの。と遠慮がちに言葉を続ける。
なに。とサラシナは受け止める。
「家に。連絡は……」
「連絡は、いってると思うよ」
そんな声と共にカーテンが静かに開いた。
「あ。サクラ君」
あ。
あの桜の木だ。
彼を見た瞬間、そんな事を思った。
どうしてそう思ったのか分からない。ただの直感だ。
次に思ったのは、あの時の人だ。だった。
そう思ったけれども、ちょっと自信がなくて。葵は挨拶だけをする。
「目が覚めたみたいで良かった。熱がまだありそうだけど、ヤツヅリ君も直に引くって言ってたから大丈夫だよ」
サクラは葵に優しく声をかける。
はい、と頷くと、穏やかに笑ってくれた。それから少し真剣な顔をして「それで、家だけど」と、少し言いにくそうに口を動かした。
「連絡は、多分行ってる。学校の教師が電話で連絡してるのを聞いたんだけど……」
少し間を置いて、サクラは静かに言った。
「――校舎崩落の事故に巻き込まれて亡くなった、って」
「え……」
彼の言葉に、葵の頭の中が真っ白になった。
今、何と言われたのか。
聞き返す勇気もなく、葵は呆然と彼らを見上げる。
「覚えとらん?」
サラシナが首を傾げる。
覚えてないか? 何を?
最後の記憶を探る。
水が零れるのが見えた。
ブルーシートが引き摺り落とされ、校舎の一部と足場を引っ掛けて。大きな板と物量を伴う水が降り注ぐのを見た。
ばきばきと何かが折れ、崩れる――轟音を聞いた。
そこまでだ。
「……おぼえて、います」
あれで助かったのならば奇跡だ。圧倒的な物量で押しつぶされて痛みすら覚えていない。
それなら、今こうして話している自分は一体何だろう?
何も分からなくて、何から分かればいいのかも分からなくて。傷は痛くて動けなくて。
何が悲しいのかも分からないのに、葵の目から涙がこぼれた。
「あっ……えっと、泣かんで? ね? ……そうだ! 寂しかとならレイシー貸そうか!?」
「おい馬鹿やめろ」
「はいはい、君達怪我人に無茶させるのやめてね」
そう言ってもうひとり、眼鏡に白衣の少年が入ってきた。ずれていた眼鏡を押し上げると、少し垂れた眠たそうな目が葵を見下ろした。
「分かりやすく言おう。まず受け止めて欲しいのは、君は死んでしまった」
「……はい」
頷いたけれども。覚えもあるけれども。実感はまるでなかった。
「実感は無いと思うけど。責任は彼――サクラくんがとってくれる」
彼に促されて、桜色の人がこくりと頷いた。
「で、これからどうするか決めて欲しいんだけど……これはもう少し落ち着いてからでも良いかな。状況を把握してからハナブサさんに伝えると良い」
サクラさんとハナブサさん、と葵は頷く。
「あとは……」
「自己紹介もせんとね」
サラシナの声に、ヤツヅリの眉が僅かに跳ねた。
今するべきなのか、とサラシナに視線で問う。彼女はうんうんと頷いた。
「……オレはヤツヅリ。そっちがサクラくん。サラシナくんとレイシーくんはさっき紹介してたな。以上。あとの事は動けるようになるまでに理解すれば良い」
その説明役は――と、ヤツヅリはサクラの肩をぽん、と叩いてカーテンの向こうへ戻っていく。
「責任者、よろしく」
「あ、うん……」
サラシナが座っていた椅子にサクラが座り、この学校について簡単に説明してくれた。
噂話が多いこと。
その噂話は自分達であること。
元人間、噂話、備品など、学校の住人達のこと。
簡単に、分かりやすく。葵が分からない所はもう少し噛み砕いたり言葉を増やしたりして。
くらむ頭には理解が追いつかないこともあったが。
くらむ頭だからこそ、受け入れられることもあった。
そして一通り説明を終えたあと。
「それで。最後にひとつ――教えて欲しいことがあるんだけど」
サクラは少しだけ心配そうな顔で、聞いてきた。
葵ははい、と頷く。
「君の名前は?」
名前。そういえば名乗っていなかった。
「あ。すみません。名前は……の、みや……」
声が支えて出てこなかった。あれ、と思ってる内に、サクラはそれを名前だと受け止めたらしい。
「みやちゃん? 名字、じゃないよね?」
「あ、いえ。……その」
あれ、と不思議な感覚に首を捻る。
なぜか、名前を口にできなかった。
「あれ……えっと……」
口を動かす。声は出る。なのに。
喉が、頭が、その名前を拒否するように言葉が出ない。
喉がひんやりと冷たくて。詰まったように苦しい。
「もしかして、忘れてしまった?」
心配そうにサクラが問う。
「……いえ。覚えて、ます」
「そう」
頭の中で反芻する。それから少しだけ深呼吸をして。目を閉じる。落ち着けば大丈夫。
「野々宮――葵、です」
「葵ちゃん」
サクラが繰り返した名前に、ハッと目を開ける。その拍子になぜかぽろりと涙が零れた。
「あっ、サクラ君泣かせた」
「えっ……!? ご、ごめんね……!」
サクラが慌てて身を乗り出し、ハンカチでその涙を拭う。
「その名前、もしかして辛い……?」
ぽつりと呟いたサクラの声に、葵の声が詰まった。
自分の名前なのに辛い?
葵にはよく分からなかった。
喉が詰まった理由も。涙が零れた理由も分からない。
名前なんて何度も名乗ってきたし、家の外では「葵」であることが当たり前だった。
なのに。
胸がつきりと痛んで。涙はぽろぽろと零れている。
まるで。
それはまるで。
この人には、そう呼んで欲しくない。
そう思ってしまっているかのようだった。
「ごめん、なさい……。その。よく、分からなくて……」
葵の言葉にサラシナが「ふむん」と首を傾げ、問うようにレイシーへ視線を落とす。もちろん返事はない。彼女は少し考えて、ひとつの提案を口にした。
「あ。それならさ。新しい名前つければ良かと思うとだけど!」
それならウチがやりたい! とサラシナが手と名乗りを上げる。
「あのねあのね。ウチの名前もレイシーにつけてもらったけん、それを誰かにやってあげたかとよ」
わくわくとした様子で声を上げるサラシナに、部屋の向こうのヤツヅリが溜息をでそれを制す。
「サラシナくん。せめて本人の意向を聞いてからにしようなー」
「はあい」
そして、どうだろう、と問う視線が葵に向けられる。
「ねえ。あなたは昔の自分と今の自分、分けたい?」
「……?」
「ウチは噂話だけん、その感覚はちょっと分からんとだけどさ。いっぺん死んでこっち側に来たなら、もう別人と考える事もできる。だけんね、人間の時の名前をそのまま使っても良かし、使いたくないなら新しく付けても良かと思うとよ」
なるほど、と葵は頷く。
結局呼んでもらえなかった名前。
それは、たった今自分自身でも否定してしまった。
いらない名前だった、なんて思いたくはないけれど。
きっと。きっと、そうなのだろう。
野々宮葵という名前は。
小さな願いを拒否されたあの時に。
喉が詰まってしまったこの時に。
死んでしまったのだろう。
ひどく空っぽな気分だった。
そんな名前をこれから先も呼ばれ続けたらと考える。
自分の事だと思って返事ができる自信はなかった。
それは、胸がきゅうと痛むような気もしたけど。
葵にはこう言うしかなかった。
「えっと……はい。名前を。おねがい……します」
うんっ。と彼女は嬉しそうに頷きながらも、首をかしげた。
「……ふむん。けどその顔は、名前を呼んで欲しそうに見えるとだけど」
「えっ」
「違う?」
「……ちがわない、と、思います」
頷いたものの、自信はなかった。
葵はぽつぽつと、気持ちを整理するように言葉を紡ぐ。
「ずっと、呼んで欲しいと思っていました。でも……その。この名前は。葵は。兄の名前を引き継いだ物だと、父に聞いたことがあります。だから、母はずっと。兄の名前で呼び続けました。葵は…………要らない名前、居ない名前なんです」
だから。と葵は続ける。
「呼ばれた実感のない名前は、違う誰かのためにあるんです。きっと「葵」は、「兄」の為にあった」
ああ、そういうことだったんだ。と葵はふと思った。
葵は、兄の現し身としてつけられた名前だった。
誰かが。父やクラスの人が自分を「野々宮葵」と呼んだとしても。それは自分をすり抜けていってしまう。自分の向こうに居る、見えない誰かが手を振り返す。
この名前に、葵自身も兄の面影を見ていたのかもしれない。
どう頑張っても。葵は、守どころか葵にすらなれていなかったのだろう。
「だから。……自分だけの名前が、欲しいです」
「ふむふむなるほど。それじゃあこれはどうだろう」
そう言って彼女は一節を諳んじる。
「神垣は しるしの杉も なきものを いかにまがへて 折れるさかきぞ」
全員が首を傾げる。サラシナはにこりと笑って「賢木だよ」と付け足した。
「源氏物語は九帖、葵。続けて十帖、賢木。どっちかというと九帖の方がイメージに合う気がすっとだけど、もう一歩進んで次の帖。これまでの感情に別れを告げるシーンが印象的で、タイトルもここから取られとるし、この歌も――」
「ルイ」
饒舌に語り始めたサラシナの言葉をレイシーがぴしゃりと止めた。
「……っと、ごめんごめん」
つまりね。と苦笑いで謝罪した彼女は言う。
「賢木は、野宮で光源氏と六条御息所が別れを決意して一歩進む話。それから、植物の榊は一年中青々と繁る木。――サクラ君がね」
「え、俺?」
突然出された名前にサクラが声をあげる。サラシナは当然のように頷く。
「サクラ君はね。あなたが桜の木の下に居ると、ご飯も忘れて心配して。笑って欲しい、元気でいて欲しいって顔しとっとよ」
「――っ!」
サクラの頬がかあっと染まった。サラシナは、敢えて葵の方を向いてにこにことしている。
「な。ルイちゃん……それ、ちょっとどういう」
「ふっふっふ。バレとらんと思っとったと?」
「いや、バレるとかバレてないとかそう言う話じゃなくてね?」
甘かねえ、とサラシナは笑って「だからさ」と葵に言う。
「あなたは一年中笑ってて。と、いう訳で、サカキという名前が良かと思うとよ」
どうだろう、とサラシナは問う。
葵は「さかき」と何度か繰り返し「はい」と頷く。
「それでは。サカキ、と呼んでください」
「おうけい。あ、でもサカキだと苗字っぽいけん、名前も一緒に……んー。さっきちょっとサクラ君が間違えたみやちゃん、かなあ。サカキ ミヤ」
ミヤ、と言う名前を聞いたとき。
葵はなんだか、何かがすとんと落ちたような、そんな楽な気持ちになった。
野々宮に別れを告げ、葵から一歩進んで。
苗字と名前も入れ替わって、なんだか変な感じがして。
思わずくすりと、笑った。
「あ。笑った! サクラ君、笑ったよ!」
「う、うん」
「はいはい、怪我人の前ではしゃがない」
ヤツヅリが再びカーテンから顔を覗かせてため息をつく。
「んもう、ヤツヅリ君はすっかり保健の先生みたくなっとるし」
「せめて保健委員にしてほしいな。オレだって不本意だけど必要みたいだし。オレがここに居る意味があるならそれで良いさ。――ところで話は変わるんだけど、さっきサクラくんが持ってきてくれた食事は冷めてしまったので、温め直した方が良いと思う」
「あ、それじゃあ俺、行ってく――」
「いや。サクラくんには少し話があるから待って」
ヤツヅリがサクラを止め、サラシナに「頼むよ」と声をかけた。
「君達が食事してきた後でいいから持ってきてくれ」
「うん、別によかけど。サクラ君とミヤちゃんの分も?」
「ああ」
「三人分、持てるかなあ……レイシー」
「手伝わんぞ」
「分かっとるよぅ。……誰か手が空いとっとよかとだけど」
「ハナブサさんならその辺も考慮して用意してくれるだろう。あと、もうひとつだけ」
「うん?」
レイシーを抱え直したサラシナの首が傾く。背中でまとめてある金髪が軽く揺れた。
「ハナブサさんと……ウツロさんはいいかな。けど、他の人にミヤちゃん(彼女のこと)はちょっと伏せといて」
「どして?」
「そこはオレにもまだ判断はつかないんだけど、なんとなく。保険ってやつ」
「うーん? わかった」
「よろしく」
ヤツヅリの言葉に「はあい」と軽い返事をして、サラシナは保健室を後にした。
□ ■ □
そうして保健室に残ったのは、ヤツヅリとサクラ。それから葵――サカキ。
ヤツヅリはさっきまでサラシナが座っていた椅子に腰掛け、カルテを膝に置いて話を切り出した。
「さて。これから君のことはサカキくん、と呼ばせてもらおう」
「は、はい」
これから何を言われるのだろう、とサカキはどきどきしながら次の言葉を待つ。
「熱も引いてないし手短に。オレからの質問はひとつ。――その前に確認だけど、君は女性だよね」
「……はい」
こくりと頷いたサカキに、ヤツヅリは視線をカルテに落とす。ペンの背でこつこつと紙面を打ち、少し考えるような間を置いて、視線をあげた。眠たげに見える目が、サカキを真っ直ぐ見据える。
「君。どうして一人称を使わないんだい?」





