彼と彼女が見た景色 3
時間は少し遡る。
突然降り出した雨は、数日経ってもまだ止まなかった。
学校はしばらく休み。習い事も同様だった。
だからテレビで流れるニュースを見たり、勉強をしたりして過ごしていた。
父は仕事だ。毎日ずぶ濡れで帰ってくる。昼間は母と二人きり。
「守、勉強は進んでる?」
「は、はい……」
部屋を訪れた母は相変わらず葵の事を「守」と呼ぶ。そうして優しい言葉をかけて、他愛も無い話をする。
「それにしても……中学生なんて早いわね。これなら高校生になるのもあっという間ね」
そう言う母は上機嫌だ。
葵はこくり、と頷いて数式の並ぶノートに視線を戻す。
数学は得意ではないから繰り返し教科書をなぞっている。
得意ではないけれど、きちんと答えが出る所は好きだった。自分のように曖昧ではない。自分の事を私とも僕とも呼べず、母の呼ばれるままに返事をする何かではない。
相変わらず運動は苦手で、身体は小さくて。母はいつも「男の子だから、もう少ししたら背も伸びるかしら」と成長を楽しみにしている。けれども同時に、母の理想とする守でない事に落胆しているのも見て取れた。
私は葵だよ。僕は守じゃないよ。
私は葵なのかな。本当は守なのかな。
時々分からなくなって、このまま成長なんてしなければ良いな、なんて思うと、あの桜の木が少し恋しくなる。
葵が葵で居られる場所。誰も居なくて、静かで、きれいな所。葉桜にすらなる暇もなく咲いては散る風景は不思議だったけれど。いつでも「桜」であり続けるその姿はとても好きだった。
雨は激しく降り続いている。リビングのテレビから、ニュースの声がする。
あの桜はこの雨で散ってしまうのだろうか。雨の音と避難指示が出ているというテレビの音を聞きながら、少しだけ心配になった。
少し。少しだけなら、見に行っても良いんじゃないか。
「――ねえ、母さん」
鉛筆を走らせていた手を止めて、葵は母に声をかける。
母は「何?」と答える。
「ノートが切れそうだから、出かけてきても……いいかな」
母は「あら大変」とのんびり言いつつも、それを却下した。
「この雨なんだから、やめておきなさい」
「そっか……」
それもそうだ。この雨なんだから。川は警戒水位を超えそうだというし、大雨洪水警報は出っ放しだ。出かけられるはずもなかった。
それに、と母の言葉は続いた。
「守がまた大怪我でもしたら……私、耐えきれないわ」
ふと、母の言葉に違和感を覚え――気付いた。
また、とはどういう事だろう?
葵は怪我こそ多かったが、幸いにも大怪我と呼べる怪我はした事がない。
もしかして母は。この人は。自分が「守」ではないと気付いているのではないか?
それは、葵も見なかった事にしていた事実だった。
小さい頃何度も言っては怒られた。
「私は葵じゃないの?」
「どうして守って呼ぶの?」
その度に母は泣きながら「葵」を否定して、後から優しく優しく「守」に謝ってくれた。
母には、「葵」「私」をはじめとした「女子を連想させるもの」は厳禁なのだといつしか気付いて口にしなくなったけれども。
もし、母の今までの言葉が「葵」を認識した上での事なら。
一度でいい。名前を呼んでくれないだろうか。
そんなことを思った。
駄目だったらどうしよう。という怖さもある。
ヒステリーを起こす母の姿を見たくない、というのもある。
けれど。
けれどもだ。
気付いてしまったらどうしようもなくて。
一度きりでもいいから。その声で、いつもの笑顔で、優しく呼んでほしくて。
「ねえ、母さん」
「なあに?」
葵は、そのたった一つの願いを口にした。
母は、それを聞いて呆然とした後、泣きながら彼女を叱りつけた。
烈火の如く怒り。
外の雨のように泣き。
家中に響くような声で叫びながら。
その願いを否定した。
そして葵は、そんな母から逃げるように。
傘も持たずに家を飛び出した。
走ってたどり着いたのは、あの桜の木の下だった。
辺りはもう薄暗かったが、花の残った木と雨で落とされた花びらの色で少しだけ明るく見えた。
切れる息と顔を伝う雨水。身体はすっかり濡れてしまっていたけれど。なんだかとても安心して、少しだけ笑みが零れた。
そっと木の根元に座る。雨の勢いが弱まる訳ではないし、このままでは風邪をひいてしまうのも分かっていたけれど。少しだけここに居たかった。誰もいない。たったひとりの秘密基地。泣いても怒られない。葵で居られるその場所に。
「……やっぱり。呼んで、くれなかったな」
それは少し、いや、とても悲しくて。頬を流れる雨水に暖かい雫が混じった気がした。
葵はうつむいて雨に打たれる。
濡れた袖に染み込んでは冷たくなっていくのは涙だ。一度零れた事に気付いてしまったら、止まらなかった。
「……っ、ぐす……、うぅ……」
声を上げずに泣くのは、もうとっくの昔に得意になっていた。
ただ、肩を震わせて。
膝と小さな嗚咽を、ひとりで抱えて泣き続けた。
どれくらい泣き続けたのだろう。
どれくらい雨に打たれたのだろう。
身体の芯まで冷えきって、服は濡れてない所なんてなかった。
けれども頬は熱くて。目は赤くなってるんだろうなと分かるくらいしぱしぱしている。
雨の勢いは止まない。
飛び出してきてしまったけれど、ふと思ったのは、両親が心配しているのではないか、ということだった。
「帰らないと……」
正直、気は進まない。
はあ、と、自分を落ち着かせるように息を吐く。
それから、重い腰を上げて。涙と雨水が混じった顔を袖で拭う。
袖はぐっしょりと濡れていてあまり役に立たなかったけど。多少の水を持って行ってくれた。
貼り付いた雨と花弁は取れそうになかったけど。それが少しだけかわいい模様に見えて、ちょっとだけ嬉しい気がした。
「えへへ……いつも、ありがとう」
桜の木に向かい合い、そう言って笑ってみた。うまく笑えたかは分からない。
そうして背を向け、歩き出す。
家に帰らなくちゃ。お父さんが。お母さんが心配する。
帰ったら、なんて言おう。やっぱり「ただいま」なのかな。それよりも「ごめんなさい」かな。
家へ向かう足取りは重い。けれどもここにずっと居てはいけないのも分かっていたから、家へと向かう。
みし。
雨の中に異音が混じる。
その音は小さくて、葵は気付かない。
みしり。
さっきよりも大きな音。
「?」
何の音だろう、と足を止める。
そこには立て替え中の校舎があって。解体された古い木材とか足場とかが組まれている。ブルーシートがかけてあるけれど、そこにはかなりの水が溜まっているようだった。
その水が零れるのが見えた。
ブルーシートが引き摺り落とされ、校舎の一部と足場を引っ掛けて。大きな板と物量を伴う水と、視界を覆うブルーシートが葵の上に降り注ぐ。
続いて、ばきばきと何かが折れ、崩れる――轟音。
それが、彼女の覚えている最後の光景だった。