ウツロさんの教え
夕暮れの屋上。
ひゅ。と、黒い影が空を切った。
大きな弧を描いて一瞬止まったそれは、影のような深い黒の大鎌。それを操るのもまた、影のような少年だった。
赤い飾りの学制帽。大きく跳ねた黒髪。詰襟の学生服。前髪の隙間からのぞく金色の瞳が、光を弾く。
その視線の先に居るのは、煙草をくわえた壮年の男性。
白い木綿のシャツに動きやすさを重視したズボン。褪せた灰色の髪。佩いた洋刀に軽く手をかけて、これまた褪せた紫の瞳で少年の動きを眺めている。
少年は一歩大きく踏み込んで、くるりと柄を回転させる。
ぱしん、と小さな音と共に握り直されたそれを再度振るう。が、彼の目標とする相手はその軌道から身体をずらすだけで避ける。
「無闇に振り回しても当たらないぞ」
紫煙を吐いて、溜息のように言う。
「ちゃんと相手の隙を見つけろ」
煙草を口から外し、一歩下がって避ける。
「そこを潰して」
少年が武器を構え直す間に数歩で回り込み。
「潰して」
振り向きざまの一振りを避け、一歩踏み込む。
「潰して」
煙草を軽く食んで、身体を少しだけ捻り。
「残ったひとつを叩く」
少年が構え直すより速く。男性の手元が風を切ると。
「――っ!」
「そうすりゃ、こうなる」
ぴたり。と、全ての動きが止まった。
「な?」
当たり前の結果を確認するかのような声に、少年は何も言えなかった。ただ、目を大きく開いたまま。鎌も。視線も。呼吸すらも忘れたように動けないでいた。
背後はフェンスと壁。いつの間にか屋上の角へ追い詰められて一歩も下がれず。
首元には、鞘に収められたままの洋刀の先がぴたりと当てられている。
少年が詰襟でなければ。
その剣が抜き身だったら。
あと僅かでも力を込められていたら。
少年の首からは血が流れていただろう。
「……はあ」
洋刀が首元から離れると、詰まっていた息が零れて。
手の中の鎌が、水面に落とした墨のようにゆらりと消えた。
□ ■ □
「いやあ、今日もヤミちゃんの圧倒的敗北だねえ」
「うるさいぞ、ハナ」
ぱちぱちと手を叩くハナを睨みつけ、ヤミはその場に座り込む。
「けど……やっぱウツロさんには勝てないなあ……」
「随分長いこと挑んでるのにね」
うぐ。とヤミの言葉が詰まるが、ハナに悪気がないのは分かっている。事実をずばっと正直に投げつけてくるだけで。
悪意がなければ良いのかっていうと、そうでもない訳だが。
「ま、最初の頃に比べたら随分と上達はしてるだろ」
勝率も上がってはきている、とウツロは紫煙を吐きながら言う。
「ヤミは定期的に修練してるし、実戦経験も積んでる。俺はもう手合わせくらいしかしてないしな……」
追い抜かれるのも時間の問題だろうなあと笑うウツロに、ハナは余った袖を揺らす。
「そうは言うがウツロさん、先日は大活躍だったじゃないか」
先日。それはハロウィンの時の話だ。
あの時、ウツロはヤミと共に主戦力としてドッペルゲンガーと戦った。
それは、トップクラスの戦闘能力を持っている故の活躍と言っても過言ではないはずだが、彼はその功労者たることを良しとしないようで、視線を遠くにやって紫煙を吐いた。
「ありゃあヤミが隙を作ってくれたからな。俺は大して働いてねえよ。ヤミが自分の力量と役割をきっちり把握して動いた結果だ」
ハナは「ふむ。そうなのか」と頷いてヤミを見る。
「良かったなヤミちゃん。褒められたぞ」
「なんでハナが誇らしげなんだ」
「なんでって……。ヤミちゃん褒められたんだぞ。いいじゃないか」
むう、と複雑な表情をしたヤミから、ハナは視線をウツロに戻した。
「ふむ。それでも剣の筋というか、身のこなしは衰えていないように見えたが。ウツロさんはそういうの、以前から得意だったのかい?」
ウツロは一瞬驚いたように瞬きをしたが、すぐに口元だけで笑って紫煙を吐いた。
「そうだな。身体を動かすのは……得意な方ではあったかもな。今も昔も嫌いではない」
「そうなのか。ボクはそういうの苦手だから羨ましい限りだ」
「無駄に走り回ってはいるけどな」
「ヤミちゃんヤミちゃん」
ハナはちっちっち、と人差し指を振って胸を張る。
「ボクはただ行動力があるってだけさ。知ってるだろう? これでもインドア派だよ?」
「そうだったな。ならば俺を振り回すのをやめろ。静かに過ごさせろ」
「いや、面白い事があったらヤミちゃんを真っ先に巻き込まないといけない気がしてなあ」
「巻 き 込 む な」
ヤミの至極面倒そうな声にハナはからからと笑い声をあげる。
「だって、今のボク達には使っても使い切れないくらい時間があるんだ。出来る限りの事を精一杯やらずにどうしろって言うんだい」
「落ち着ける時間を寄越せって言ってんだよ!」
二人のやり取りを聞きながらウツロは小さく笑って、携帯用の灰皿にタバコを押し込む。
風が冷たくなってきたな。と揺れる前髪を軽く払って息をつく。
紫煙はなく、ただ溜息のような吐息。
「――そろそろ日も暮れたし。戻るか」
「そうだね。今日の夕飯は何かなあ」
「今日の手伝いはエディだったか……だったら洋食だろうな」
「リラ君も居たから期待したいところだが……」
「ま。俺が手伝う日よりマシなもんが出来てるだろ」
料理はからきしだからなあ、とウツロが屋内へ続くドアを開けると、ぎい、と蝶番の軋む音がした。
「まあ、アレだ」
「うん?」
ついてこようとした二人が足を止めて首を傾げる。
「ヤミ。お前はまだまだ伸びしろがある。だからこのまま続けて――いつか俺を追い越してしまえ」
「あ、ああ……うん……」
「ハナ。人には得手不得手もあるから気にするな。お前はそのまま真っ直ぐ進め」
「うん。任せておくれ」
「ある意味ここは時間が止まってる。進ませるのも戻すのも自分次第だ。好きに生きろ」
頷いた二人を視界の隅に収めて、ウツロも扉をくぐる。
実際の所、ウツロには二人とも何かが止まっているように見えていた。
ある一定のラインから進もうとしない。いや、踏み越えてはならない一歩を進んでしまった結果進めなくなった、といった方が正しいだろうか。
それはヤミの方が顕著に見えるが、実際は――どうなのだろう。
いや、人の事を言えたもんじゃねえな、とウツロは二人を背に自嘲する。
自分だって止まっている。それを望んでここにいるようなものだ。
そもそも。ここに居る者は例外なく何かが止まっている。
だからこそ、ここに在り続ける。
噂話なんて細々と流れては形を変え、時には消えるような曖昧なものに縋っていられる。
「ウツロさん、どうしたんだい?」
ふと、ハナの声がした。
「んあ?」
「なんだか難しそうなことを考えている様子だったが」
「……そうだな」
その通りだ。と頷く。
「明日筋肉痛来たらどうするかな、って」
「明日ならばいいじゃないか。まだまだ現役で居られるという証拠さ。ヤミちゃんをもっと鍛えてやっておくれよ」
「……やっぱ三日後希望だな」
「ウツロさん……」
ヤミの呆れた声がした。
「知ってるか。鍛錬ってのは毎日やるより二、三日休みを挟んでやるのが効果的なんだと」
そしてその頃には筋肉痛が来るって訳だ。と言ってやるとヤミが溜息をついた。
「でも、時々は……手合わせ付き合ってよ」
「気が向いたらな」
それだけ答えて階段を下りる。
さて。俺が止まっているのは一体いつからだったか。
そんな事も少しだけ考えたが。
今の生活も悪くない。むしろ気に入っているからこそ、ここに長々と居座っている。
ああ。だからこれでいい。
偉そうに説教なんざできねえなあ、とさっきの自分を少しだけ笑ってやる。
階段を降りながら、ぐっと伸びをする。
普段使わないどこかの筋が動いたような。そんな感覚がした。





