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雨の蛇と蛇の傘

 すこし昔。

 「常和第三高校前」というバス停は学校の外にあった。

 校門から徒歩数分の交差点。そこから少し離れた所に、古びた交通看板が立っていた。

 そこにあった。ちょっとした話。


 当たり前の事だけど。交差点には信号がある。

 赤になり。

 青になり。

 黄色になって。

 赤になる。

 十字路だから、それは交互に繰り返される。

 

 そうすると、どちらも赤になる瞬間がある。


 歩行者用の信号も。

 車用の信号も。

 右も左も。

 前も後ろも。

 全部が全部、赤になる。


 雨の日の夕方。真っ赤に照らされた交差点。少し離れた薄暗いバス停。

 この条件が揃うと、赤い蛇の目傘をさした少年がバス停に立っているという。


 誰も居なかったはずなのに。

 赤い光がギリギリ届くその場所に、少年がぽつんとひとり立っている。


 バスを待っていたら突っ込んできた車に轢かれてしまった生徒だとか。

 いつの間にか現れるようになった都市伝説だとか。

 正体についての憶測と噂はいくらか飛び交ったが。

 誰ひとりとして、その真実を知ることはできなかった。


 一部の校舎を改築するにあたり。敷地を拡張してロータリーが作られた。

 バス停も敷地内に移設され、かつて赤信号に照らされたバス停はなくなった。

 

 では。バス停の噂は。少年はどうなったのか。

 

 居なくなった……なんて事はない。

 彼もまた、バス停と共に校内へと移動していた。

 赤信号で照らされるという条件はなくなってしまったが、薄暗い雨の日に赤い傘をさして立つ影の噂が消える事はなかった。


 むしろ。

 校舎の明かりにぼんやりと照らされ、赤い蛇の目が一際目立つようになったという。


 □ ■ □


「……あ、雨が降る」

 みんなが集まる理科室で、少年は窓から空を見上げて呟いた。

 赤みがかった灰色の髪。くっきりとした赤茶色の目。羽織った詰め襟の中にパーカーを着込んだ彼は、元気の良い子犬を思わせる。

「おや。降ってきたかい?」

 お茶を飲みながら問うハナに、少年は首を横に振る。

「まだだけど。もうすぐ降ると思うよ」

「そうか」

 頷いた彼は皿に残っていた最後のクッキーを口に放り込んで席を立った。

「ハナブサさーん。ごちそうさまっ」

 奥の部屋に声をかけ、立てかけてあった赤い蛇の目傘を手に取る。ドアを開けて一歩外へ出ようとしたところで。

「ジャノメ君」

 ハナが彼に声をかけた。

 ジャノメと呼ばれた少年は、「うん?」と振り返る。楽しいことが待っているのか、その表情は明るい。

「シグレさんの所に寄るのかい?」

 ハナの言葉に彼はうん、と頷く。

「雨が降るから。そのつもり」

 多分起きてくれないと思うけど、と。へらっとした笑顔で言い残し、彼は理科室を出て行った。

 

「……全く、ジャノメ君もめげないねえ」

「っていうか、シグレさんも強情っていうか」

 遠ざかる足音に視線を向けたヤミが頬杖をついて呟く。

「怒り狂わず無視を決め込むのが不思議だ」

「そうかい? ボクには当然の結果に見えるけどね」

「……そうか?」

 理由が思い当たらないという表情をしたヤミに、ハナは「ああ、そうだとも」と頷く。

「例えば、ボクがヤミちゃんに同じ事をしても怒らないだろう?」

「は?」

 反射的に出た声と眉間のしわを追い遣るように、肩の力を抜きながら問い直す。

「何故怒られないと思っているのか、聞いてもいいか?」

「そりゃあ、ヤミちゃんとボクの仲だからさ」

「そうか。普通に怒るぞ」

「そうか」

「当然だ」

「全くヤミちゃんは乙女心に鈍いねえ」

 ハナが笑いながら言うと、ヤミは「鈍くて結構」と盛大に溜息をついた。

「そもそも、俺とお前の間にそんな物不要だろ」

「うむ。全くだな」

 

 □ ■ □

 

 ぼくはとある部屋の前で足を止めた。

 こんこんこん、とリズム良くノックした音が、廊下に響く。


「シグレさん」

 一回目。答えはない。

「シグレさん。雨が降りそうだよ」

 二回目。答えはない。

 

  シグレさんは一日の大半を眠って過ごしている。

 放っておけば数日、数ヶ月。いや、数年だって眠っていられるだろう。そういう存在だ。

 最近は年に二回程、一ヶ月ずつくらいは毎日起きてくるようになったけど。

「全く学校という物はやかましい……」

 とぶつぶつ言うのが常で。話しかけてくるみんなに対しても「近寄るな」と眠たげに吐き捨てる。

 でも。

 これでも優しくなった方だ、とみんな笑って言うし、ぼくもそう思う。


 シグレさんは、雨を呼ぶ蛇だ。神様だ。

 この学校ができるずっとずっと昔から、この地に住んでいた。

 でも、学校の中でみんなと過ごすようになったのは結構最近のこと。


 シグレさんは、人間が苦手だ。

 というか、嫌いだ。


 少しの雨を呼べるだけだった蛇を勝手に祀りあげ、供物と称して色々と置いていく。

 ずっと寝ていたいのに、雨が降らないからと無理矢理起こす。

 怒り任せに雨を降らせ、災害や事故に繋がった事もあったのに、変わらず信仰し続ける。

 人間は身勝手でかなわない、とシグレさんは言う。


 でも、ぼくは知っている。

 シグレさんは優しい人だ。


 口ではああ言うけど、静かで穏やかな生活を好んでいる。

 人の気持ちを無下にできなくて、供えられた物も捨てるんじゃなくて、必要そうな人を探して与えている。

 誰かが怪我をすればそれを心配し。話しかければ少しは相手をしてくれる。

 そして何より――。

「なんじゃお前、ずぶ濡れじゃないか」

「ほれ。これでもさしておけ」

 ずぶ濡れで、寒くて、寂しくて、誰にも声が届かなくて、死んでるのに死んでしまいそうだったぼくに、真っ赤な蛇の目傘をくれた人だ。

 

 あの時は声しか聞こえなかったし、姿も見えなかった。

 ただ、声と一緒に赤い傘がふわりと降ってきた。

 あの時の声と気持ちは。冷えきっていたぼくにとても暖かく残っている。

 それから随分と経って、シグレさんを紹介された時は分からなかった。

 

 でも、ある雨の日。たまたまぼくの傘を見たシグレさんがぽつりと呟いた。

「昔。似た傘を持っておった気がするのう」

 独り言だったのかもしれないけど。それを聞いた瞬間、あの時の声を思い出した。

 心臓がぎゅっとなって、体温が少し上がった気がした。

 あれはシグレさんの声だった。ああ、どうして今まで気付かなかったんだろう。

 

 その傘はどうしたの、と聞いてみた。覚えておらん、と返ってきた。

 大方、雨でずぶ濡れの学生にでもやったのだろう、と。ぼくの傘を見ながら言った。

 

 シグレさんはぼくの事を覚えてなかった。数多い誰かのひとりに埋もれてしまっていた。

 人にたくさんの物を与えてきて。ぼくの傘も、そのうちのひとつにすぎなかった。


 さっきの高揚感が落胆に変わる。でも。うん。分かってた。

 でも。ぼくにとってこの傘は大事な物だったから。

 それはぼくだ。ありがとうと言うと、シグレさんは少しだけ驚いた顔をして。

「そうか。お前じゃったか」

 もう濡れておらぬなら、寒くないな。

 そう言って見せた、ふわりとした笑顔は今でも忘れられない。


 以来。雨が降ったら、一緒に散歩をしようと誘ってみるのだけど。

 シグレさんが起きてくれた事はほとんどない。

 他の人が起こしに行ってもそうらしい。大体は返事すらないという。

 だから三回。

 三回だけ声をかけて、ぼくはひとりで散歩に行く。


 散歩と言っても学校内だし、バス停の隅で帰宅していく生徒達を見送るだけ。

 ひとりでも楽しいけど、シグレさんが居たらもっと楽しいから、誘いに行く。

 返事の打率は良くない。

 でも、諦めの悪いぼくだから。三回だけ声をかける。


 一回。

 二回。

 そして三回。

 

「シグレさ――」

 がら。とドアが少しだけ開いた。

 ぼくを見上げる眠そうな赤い目に、白い睫毛が影を落としている。

 羽織った水色の着物に流れる、長くて白い髪がさらっと揺れた。

「お前は。懲りん奴じゃの」

「えへへ……初めて言われた」

「そのようにへらへらと笑って。何が嬉しい」

「シグレさんが、こうして出てきてくれたこと、かな」

「……」

 黙って視線をずらすシグレさんはなんだか珍しくて、思わず笑いがこぼれた。

「……なんじゃ。物好きなやつめ」

「……うん。ぼく、物好きだから」

 ごめんね。と謝ってみる。

 シグレさんは答えてくれなかった。


「ね。折角ドアを開けてくれたんだし、散歩に行こう?」

「ワシは眠いといつも言うておるじゃろうが」

「でも、今は起きてるよ」

「……」

「それに、雨だよ。シグレさん、雨を見に行こう」

「……雨、か」

 そう言って彼女は部屋の方を振り返る。窓からの景色を確認しているのだろう。

 しばらく待っていると、さらさらと雨が降り出した。細い糸のような、静かな雨だ。


 シグレさんは雨を眺めている。

 ぼくはそれを、じっと待っている。


「……はあ」

 シグレさんが気怠げに溜息をついた。

「仕方のない奴じゃの。今日だけじゃからな」

「! いいの?」

「傘はお前が持つんじゃぞ」

「もちろん」

 それじゃあ、行こう。とぼくは傘を持って。

 シグレさんは何も言わず、ぼくの後をついてきて。


 そうして、さらさらと降る雨の中。二人、傘をさして歩く。

 それからバス停の隅に座って、生徒達を眺めて過ごす。

 

 ぼく達の姿は生徒には見えないけど。校舎やバスの窓を通したりするとこの傘が見えたりするらしい。「便利なんだか不便なんだか分からないな!」とハナちゃんが笑ってたのを思い出す。

 まあ、それがぼくだから。ぼく、バス停の蛇の目傘だから。


 生徒達がバスに乗って帰っていくのを見ると、少しだけ寂しいけれど。

 今はぼくにも帰る場所がある。そう思うとなんだか嬉しい。

 しかも今日は隣にシグレさんも居る。

 寂しいなんて、言える訳がない。


「ねえ、シグレさん」

 雨を避けるように寄り添ってバスを待つ生徒達を眺めながら、ぼくは言う。

「なんじゃ」

 シグレさんは、眠そうな目で降る雨を眺めてる。

「ぼくね。シグレさんからこの傘を貰ったから、ジャノメって呼ばれてるんだよ」

「……そうじゃったな」

「シグレさんは、蛇だよね」

「そうじゃな」

「ぼくの名前も蛇。お揃いだよ」

 シグレさんの返事はなかった。

「ありがとうシグレさん」

「……覚えておらぬ事に礼を言われても」

 その声はいつもよりも少しだけ不機嫌というか、居心地が悪そうに聞こえた。

「ううん。シグレさんだよ。シグレさんがこの傘をくれたから、今のぼくがある。こうして一緒に、散歩ができる」

 それが嬉しいんだ。と、言うぼくの頬は緩んでいるに違いない。


「――ワシは」

 シグレさんがぽつりと言った。

 

「斯様に感謝されるべき存在じゃない事は。お前も知ってるじゃろう」

「そうかもしれない。でも、少なくとも。ぼくは助けられた」

「……覚えておらん」

「知ってる。でもぼくは、何度だってシグレさんにありがとうって言うよ」

「……物好きなやつじゃの」

 心底呆れたような声で、シグレさんはため息をついた。

「うん、そうだね」


 シグレさんは優しい人だ。

 例えば、自分が誰かを傷つけてしまったら。その相手の事をずっと忘れない。

 たとえ「気にしないで」と言われても、それに上手く応えられないくらい、ひとりで長く居すぎてしまったんだ。

 だから、同じ蛇の名前を持ってるぼく位は、隣に居てもいいんじゃないかなあ、なんて。

 

 さらさらと降る雨の中で二人傘の下。

 そんな事を、少しだけ思った。

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